38.風魔

 ――「……やめよっっ!!」

 そう叫んで疾風の名を呼んだ瞬間、何かが一つ崩れたのが分かった。

 何事かと出てきた野次馬たちも、その場に居た兵たちも、忍隊の者たちも、全部がしん…と静まり返っている。

「………

 疾風が取り押さえられたままを呼び、そこでは我に返った。
 とにかく今は、この場を切り抜けるのが先決だ。

「――その者は、敵ではありますが私の命の恩人……詮議は私が致します」

 努めて冷静に言ったの言葉に、しかしクナイを弾かれた忍が顔を上げた。

「姫様、それはなりませぬ。侵入者はその場で仕留めるのが我らの決まり」
「……忍頭には私が後で言っておきます」
「姫様と言えど、勝手な振る舞いは承服できませぬ。……それとも、この黒脛巾と話すようなことがおありか?」

 ――勝手な振る舞い
 は強く頭を打たれたような衝撃を覚えた。

 異質な姫が、敵の――それも長年捕らえられていた伊達の侵入者を庇ったということで、不審がられているのは空気で分かったが、こうして敵意のようなものを向けられるとは思わなかった。
 挙句に、伊達と内通している疑いまで持たれているとは……

 これは、明らかにが悪い。
 すぐに疑いを全面否定して、侵入者を引き渡すべきだろう。
 分かってはいるが、がここで引けば、疾風は殺されてしまうのだ。

「……………」

 身動きが出来ず、固まったを見遣って、疾風は低く呟いた。

「私はそこの女を殺しに来ただけのこと。伊達の内情を知り得る者を武田に渡す訳にはいかないからな。疑うなら、身包み剥いで調べてさっさと殺したらどうだ」

 は、こんなにも淡々と早口で喋る疾風を初めて見た。
 驚くの前で、忍隊の者たちが言われずともという風に疾風の体を調べる。やがて、その懐から一枚の小さく畳まれた紙片を取り出した。

「――なんだ? これは何かの暗号文か……?」

 それを広げ、首を捻る忍の後ろから、もそれを覗き込んだ。
 そして、思い切り目を瞠る。

 それは、およそ『彼』らしくない殴り書きのような文だった。
 手紙とも言えない。
 色気の欠片も無い、政宗からに向けられた手紙――


 To. A foolish girl

 Return at once.

 From. M



「あ………」
「……お分かりになるのですか、姫様?」

 隣からの忍の言葉にはっとして、は疾風を見た。
 疾風は、これで役目は果たしたとばかりに目を閉じている。

「……分かります。これは異国語で、私に対する宣戦布告です! 私はこれを父上に知らせますから! さぁ、お前も来なさい!!」

 わざと大袈裟に言い、強い調子で言い切って、疾風の手を引っ立てるようにして取って歩き始めた。
 慌てて後を追って来た忍に「佐助を呼びなさい!」と怒鳴りつけ、信玄の部屋に逃げるように転がり込む。

「父上、お願いがあります……!!」

 その場に深く額づいて、はこの日二回目の『父へのお願い』をした。







「このまま米沢に連れて帰っていいか?」

 相変わらず突拍子も無いことを言う疾風に、は苦笑して「駄目」と答えた。

 場所は、武田領地の東端……奥州との国境近くである。

 信玄に直接、疾風に何度も命を救ってもらったことを説明し、何とか助命を聞き入れてもらったは、他の者たちに見つからないようにと佐助と幸村だけを伴ってここまでやってきた。
 騒ぎのあらましとから事情を聞いた佐助と幸村は、今も二人だけで話がしたいというの願いを聞き届けて離れた場所で待ってくれている。
 護衛兼お目付け役でもある彼らが、を連れて帰ろうとする疾風を見逃す筈は無いし、いくら疾風と言えどもこの二人を相手に突破するのは無茶だった。

「相変わらず無茶だよね、疾風は」
に言われたくは無い」
「……ふふ、お互い様かな」

 こんな風に何気無く疾風と話したのはどのくらいぶりだろうか。
 米沢に居た時も、最後の方はずっとバタバタしていてろくに話していない気がする。

 思えば、家に無断侵入され、起きぬけを拉致された出会い以後――は本当に何度もこの疾風に助けられてきた。
 今日は結果的にはが疾風の命を助けたことになるが、元はと言えばを連れ戻すために――あの手紙を届ける為にやってきたのだろう。
 英語で書かれた手紙――例え疾風が捕まることがあっても、以外には読めないあの手紙は、確実にの手元に辿り着く。
 それだけの覚悟をして、無茶を承知で忍び込んで来たのだ。

「……ねぇ、どうして疾風は、私の為にそんなにまでしてくれるの?」

 真っ直ぐに見上げると、曇りの無い目がすっと細められた。
 彼にしては信じられないような優しい動作で、頭に手を乗せられる。

「私を友と呼んでくれたのは、の方だろう。友を助けるのに、他に理由が要るのか?」

 は目を見開いた。
 まさか、疾風からこんな言葉を貰える日が来るなんて、出会った頃なら考え付きもしなかっただろう。

「……『疾風』というのは、かつては私の武器の名だった」

 唐突な言葉だったが、は黙って耳を傾けた。
 武器というのは、あの大きな手裏剣のことだろう。
 の為に、疾風がずっと秘して来た過去を語ろうとしてくれているのだと思うと、自然に背筋が伸びた。

「北条の亡霊……屍食い鴉………ももう気付いているだろう。猿飛佐助の言葉通り、私は『風魔小太郎』と呼ばれていた」

 北条家の伝家の宝刀、最後の守護神――

「だが、本物の『風魔小太郎』では無かった。風魔一族において、『小太郎』は長の名前……代々の長子に襲名される。風魔小太郎は、私の伯父だ。だが伯父は数年前に怪我をして足を痛め、次期小太郎である従兄弟は病弱だった」
「それじゃあ疾風は……」
「この数年、身代わりをしていた。……猿飛佐助とは、風魔小太郎として戦場で見えたことがある」

 伝説とまで言われた最強の戦忍――その実体は、身代わりとして満足に口を開くことさえ許されなかった孤独な忍だったのだ。

「そんなの……辛く…無かったの……?」

 聞いてから、しまったと思った。辛くなかった筈が無い。
 後悔がよほど顔に出ていたのか、疾風は珍しく苦笑して、の頭をかき回す。

「辛いとも気付かなかった。北条に仕える事も、人を殺すことも、何も疑問を持たなかった――だが、伊達との戦に破れ、死にかけていたところを黒脛巾の頭領に拾われ、殿と……に出会った」

 頭領は、何もかも知っていたのだろう。もしかしたら、政宗も。

「伊達で過ごして、いかに北条が時代遅れだったか悟った。初めて自分から伊達の為に働きたいと思った。……そう思えるようになったのも、風魔に居た頃が辛かったのだと気付けたのも、全部のお陰だ」
「え……?」
「だから、私はせめてを守ろうと決めた。……まさか、武田の姫とは思わなかったからな」
「……私も思わなかった」

 珍しく冗談めいたことを言った疾風に、も笑って返した。
 今日は、今まで知らなかった疾風をたくさん見る事が出来た。

「今日も、また助けられた。だから私の命はが好きに使って良い。……このまま米沢に帰りたいとが望むなら、この身と引き換えにしても必ず連れていく。……どうする?」

 相変わらず、選択をに任せてくれる疾風が嬉しかった。
 少し泣きそうになりながら、小さく深呼吸する。

「……まつさんや、いつきちゃんは元気?」
「……ああ」
「小十郎さんや成実さんや綱元さんは?」
「変わりない」
「そっか……」
「彼らも、殿も、恙無く過ごしている」

 殿、という言葉に、はぴくりと反応した。

「だが、がいなくなってから伊達軍も米沢の町も覇気が無い。みんな寂しがっている――特に殿は……」
「ストップ! ごめん、それは聞かないでおく」
「………戻るつもりは無いのか?」

 には、武田よりも伊達が似合う。
 そんな台詞に、は思わず笑った。
 実は、もそう思っていたのだ……性分というか、ノリは伊達の方が合うのかもしれないと。

 しかし、は武田の娘だ。
 武田がの生きていく『家』なのだ。
 先ほどの一件でまた立場は難しくなっただろうが、この大切な友を助けたことを後悔することは決してない。

「――私は、甲斐の……武田信玄の娘だもの。伊達にとって敵になっちゃったのは悲しいけど、皆からしたら私は裏切り者だろうし……」
「本当に、そう思われていると思うか?」
「っ……! 違うなら、嬉しい。だけど私が帰る所は、武田だけだから……」
「……父親に会えて、幸せか?」

 意外な言葉に、はきょとんと瞬きした。

「勿論、幸せよ」
「殿の傍に居ることよりもか?」
「!! ……そうよ。政宗さんと居るよりも、幸せ」
「――そうか、が幸せなら良い」

 疾風の成長振りに、は内心舌を巻いた。
 鋭い言葉の数々も、人の心情を理解している証拠だ。
 だが、疾風はまだ一つ学び足りないものがある。
 ――女心というやつだ。
 それをレクチャーすると、たった今ついた嘘がバレるので、教えることなど出来ないが……

「疾風、これを政宗さんに渡して」

 初陣の際に政宗から渡され、以来ずっと肌身離さず持っていた短刀……人を初めて斬ったのも、この刀だった。
 拵えに彫られた伊達の家紋を、先ほど忍に投げつけた時にも見られていたと、後から佐助に教えられた。
 これ以上が持っていれば、より一層の疑惑を招くかもしれないし……
 何より、政宗に返すべきだろう。
 ――決別の証として。

「今までお世話になりました――って。それから、さよならって……ううん、『』は死んだって、伝えてくれる?」
「……それで、いいのか?」
「……うん。皆にも、ありがとうとごめんなさいって、伝えてね」

 言葉に嘘が無いかを探るように真っ直ぐに見つめられ、は内心の苦悩を隠すように微笑んだ。

「本当にありがとう。もうこうやって会えないかもしれないけど、これだけは覚えてて。過去が風魔小太郎でも何でも、『疾風』は私の友達だから――大好きよ、疾風」

 尚もしばらく見つめてきた疾風は、やがてふわりと微笑んだ。
 これも初めて見る……本当に柔らかい微笑みだった。

 そして、唇に掠めた微かな熱――……

 驚く暇さえ無く、言葉通りの風になって、疾風は奥州へと戻って行った。






070108

番外:キズナ
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