39.三つ巴

 が甲斐で暮らし始めてから月日は流れ――季節は冬本番を迎えていた。

 体が未来の環境に馴染んでいたにとって、この時代の夏が過ごしやすかった代わりに、冬は殊の外辛かった。
 朝目が覚めた時のあのキン…と凍るような空気は、いつまで経っても慣れることが出来ない。
 そもそも寒さにはめっきり弱いという自覚もあったので、毎朝毎夕命を削られているような気さえする。

 雪の少ない甲斐でさえこれなのだから、大雪の降る北国は想像を絶するのだろう。
 奥州への街道も、雪で封鎖されているということだった。

(……………)

 ふとしたことで北へ飛びそうになる思考を、頭を振って呼び戻す。
 奥州と甲斐が雪で隔てられたことに寂しさを感じるのは事実だったが、ほっとしている部分もあった。
 信玄の許しを得て戦場に出るべく鍛錬し始めたは、その後それこそ血の滲むような鍛錬を経て、何とかあの炎を操る技の感も掴み、先日から弓隊の一つを試験的に任されるようになった。
 仮の任命とは言え、いざ戦となれば、その隊を率いて赴くことになる。
 ――戦場に身を置く武将として。
 ――相手が、伊達であろうとも。

(ずっと、雪が溶けなきゃいいのに……)

 そうすれば、このままあの隻眼の竜に会わずに済む。
 場所が屋内であれ、戦場であれ、彼の前に立って平静で居られる自信は、今のには欠片も無かった。

「……駄目だな、こんなんじゃ……」
「なんだ、もう諦めるでござるか、!? ならば今日は某が勝ちを頂戴する!」

 背後から威勢良くそう宣言した人影が、赤い色を靡かせて颯爽とを追い抜いていった。

「幸村……」

 は呆然と、猛々しく駆けていく背中を見つめた。

 武田で将として鍛錬に参加し始めてから、は自主的に、与えられた母屋の自室から離れの空き家へと移った。
 疾風の一件があって以来、皆顔にこそ出さないが、どこかで不信感を持たれていることは感じていた。
 だからという訳でも無いが、武田信玄の娘として、また臣下として、明確な立場を周囲に示すべきだと思ったのだ。

 信玄や幸村には散々反対されたが、が言いくるめて強硬に押し切る形となった。
 以来、ただでさえ米沢で住んでいた弓隊長屋より格段に広く小奇麗だったその離れは、次々と寄越される生活用品や調度ですっかり快適空間になっている。
 更には二人や佐助が、が寂しがっているだろうと決め付けては度々訪れるので、わざわざ離れに移った意味はあったのかと苦笑することもしばしばだった。それでも、そういった家族としての心遣いが嬉しいのが本音なので、文句など言えるはずも無い。

(私は、幸せ者だよね……)

 最初にこの世界に来た時はあまりの事態に自分はなんて不幸なんだろうと思ったりもしたが、今はここで実親の愛情に守られながら思いやりの中で生きている。
 この世界の経済的に貧しい人たちや、未来の精神的に孤独な人たちに比べたら、どれ程恵まれていることか。

 特に幸村は姉弟のように何かとを気遣ってくれ、こうして良く外に連れ出してくれる。
 今日のように晴れた日は、よほどのことが無い限り遠駆けに出るのが日課となっていた。
 鍛錬の場ではまだまだ敵わないが、馬の早駆けではの方が常勝している。

「――あーらら、旦那ったらもうあんなとこまで行ってるよ。相変わらずあの人も大人気ないよねー……で、。今日こそ旦那に勝ちを譲ってあげるわけ?」

 それなりのスピードで馬を走らせていると併走するなどというこちらも大概化け物じみた迷彩柄の忍に、は心中で自嘲した。
 普段から幸村にも佐助にも心配をかけているのに、彼らは、がこうやって時々物思いに沈んだ時にまで必ず気付いて力付けてくれる。
 その度に心配を掛けたくないと思うのに、それでも何度も繰り返してしまうのは、きっとの中に彼らに対する甘えがあるからだ。

「……冗談。まだまだ若いものには負けぬわ!――なんてね」

 父親の口ぶりを真似て、強く馬の腹を蹴る。
 近づいていく赤い背中と、傍に感じる忍の気配に挟まれながら……はふとした時に凝りそうになる憂いを笑い飛ばした。








 日の落ち始めた林の中を、はほくほくとした上機嫌で馬を走らせていた。
 背中では、新品の美しい弓が揺れている。

 城下の武具商に紹介された弓専門の職人に出会ったのは一ヶ月ほど前のこと。
 自分の使いやすいように特注で作って貰う相談をして、何度も微調整を重ねてきた。
 そうして無事完成品として出来上がってきたのが今日だったのである。
 臣下として初めての武田の禄で買った弓――恐らく武田での初陣を共にするだろうこの弓には思い入れも強く、は待ちかねてわざわざ山裾の集落に住むその職人の元まで足を運んだのだった。
 出来上がりはとても満足の行くもので、試し射ちをした感触も抜群だった。
 それが楽しくてついつい長居してしまったのは計算外だったが――

「遅くなっちゃったな……」

 そう一人ごちてため息をつく。
 信玄も幸村も心配性で、暗くなっても戻らないなどとなれば自ら捜索に乗り出さないとも限らず、その後で待っているお説教はにとって苦痛以外の何物でもない。
 背の高い木々で覆われた林の間道に闇が迫り始め、本格的に不味いと思い始めた頃だった。

 間道の前方から異様な気配を感じて、ははっと顔を上げた。
 人の気配には違いないが、何だか妙に禍々しい闇を帯びた歪んだ気配だった。

 ただならぬそれに、新品の弓に手を添えて警戒心を強めただったが、その気配の元に佇むのが一人の女であることを認めると目を瞠った。

 その場にそぐわない美しい女性だった。
 背中に流れる黒く艶やかな髪と、風変わりな戦装束にも見える桜色の着物は遠目にも上質であるのが見て取れて、一体どこの姫君かと思わせる。
 足を痛めたのか、道の脇にある岩に腰掛け蹲るその佳人から漂うのは、匂い立つような色香と間違えようもないあの闇の気配だった。

 闇の降り始めた林の中で蹲る麗人は、浮き出た存在のようにも風景に同化した存在のようにも思える。

「――どうかされましたか?」

 は微かな逡巡の後、近寄った馬上からそう問いかけた。
 ゆっくりと見上げてきた黒曜石のような瞳には特別な感情は見受けられない。

「足が…痛い……でも心も痛いのは、どうして……? ね……貴女、知ってる……?」

 一瞬、の苦手な幽霊の類をにおわせるような不思議なことを言う人だとは思ったけれど、その異彩を放つ存在感に対して怯むことは無かった。
 相手を引き込むように揺れる瞳の奥に、どこか自分と通じるものを見たせいかもしれない。

「心が痛いのは――きっと独りでいるからですよ」

 するりと出たの言葉に、相手は虚を突かれたように視線を揺らした。

「誰かを……大切な人を、待っているんでしょう?」

 戸惑うように逸らされ、辺りを彷徨った視線は、やがて止まって首が縦に振られた。

「そう……市は、長政様を待ってるの。でも、中々戻ってこない……市が怪我をしたせいで、長政様を怒らせてしまった……」

 どうやら市という名前らしい女性は、先ほどまでの闇の気配は薄れ、どこか途方に暮れた子供のようにを見上げた。
 彼女に対する警戒心が薄れた訳ではなかったが、放っておくことも出来ず、は小さくため息をつく。

「それじゃあ、近くの村まで馬で送ります。『長政様』もそこに居るかもしれませんしね」
「長政様に……会える……?」
「きっと、大丈夫です」
「良かった……市、もうずっとお会いできないかと思ってたの……」
「……市さんは……その人のことがすごく好きなんですね」

 馬にも協力してもらい、何とか自分の後ろに市を乗せたは、ゆっくりと進みながら感じたことを口にした。
 市は僅かに身動ぎし、嬉しそうに頷く。

「市は長政様が好き……長政様の為に、少しでもお役に立ちたいの……」
「…………」
「貴女には、そんな人が…いる……?」
「え……?」

 頭に過ぎったのは、父の顔と……その向こう側に青い面影。
 傲慢で自信家で、十分強いくせに、それでも尚僅かな弱い部分さえ人には見せようとしない不器用な男。

「――居ま…すよ。私も、市さんと一緒です……」
「市と同じ……」

 市は反芻するように呟くと、ふわりと破顔した。
 『居ました』と過去形に出来ない自分に顔を顰めたは、その闇の陰りが無い笑顔に目を奪われる。

「嬉しい……貴女も、市と同じなのね……みんなみんな、市のせいだもの……貴女も、自分のせいだと思ってるのね……」

 市から出た思わぬ言葉に、目を見開いた時だった。
 斜め上後方からの殺気に、はとっさに反応して馬の手綱を引く。

 意外な程軽い身のこなしで市が馬の背から飛び降りたのを確認すると、も転がるようにしてその横に着地した。
 足を怪我している市を庇うように前に出る。

「誰……!?」

 殺気と共に仕掛けられた攻撃は、正確にたち二人に狙いを定められたクナイだった。
 何とか避けたものの馬に当たってしまったそれらを引き抜き、張りつめたまなざしで相手を振り仰ぐ。

 の視線の先に現れたのは、目の覚めるような金色の髪をしたくの一だった。

「なるほど少しはやるようだ……お前が虎の娘だな?」

 大きな手裏剣を構えて臨戦態勢を取ったくの一の台詞に、なぜか隣の市がびくりと体を奮わせた。
 それを気にかける余裕は無く、も弓を構えながら頷く。

「――そうよ。私が武田信玄が娘、です」
「ならばあのお方の為、お前には死んで貰う……!」
「!……駄目っ……!!」

 横に飛んで避けようとしたの目の前に、突然市が飛び出した。
 驚く暇もなく、くの一の光を纏った手裏剣と、市の闇を纏った薙刀の斬撃がぶつかり合う――

「――――ッ!!」

 眩い光と闇の衝突に、思わず閉じた目を開けると、の前の地面はクレーター状に抉れていた。

「なっ……お前は、魔王の妹……!?」
「え……?」

 くの一の発言に驚いた直後、背後の繁みが大きく揺れて、実直そうな声が傍らの女性を呼んだ。

「……市ッッ……!!」
「あ……長政様……!」
「浅井長政……!」

 近江の浅井長政――織田信長の妹である市を娶り、一大勢力として近江に座して信玄の上洛を阻んでいる筈の大名である。
 は一瞬耳を疑ったが、市がぎゅっと手を握って来たことで現実に引き戻された。

「長政様……武田を攻めるのは止めて……?」

 は驚愕して市を振り返った。

 浅井が武田を攻める――?
 まさに寝耳に水だが、他ならぬ市本人が言うのだから嘘では無いだろう。
 しかも、長政と市の二人ともが既にこの武田領内に居るということは、浅井軍本隊もすぐそこまで迫っているということだ。

 市はの手を握って震えたまま、真っ直ぐに夫の長政を見つめている。

「何を申しておるのだ、市! 戦を繰り返し、徒に世を乱している武田と上杉は悪! 悪は即座に削除するのみっ!」
「なっ…何だと……!?」

 腰から何やら西洋風の剣を引き抜き、高々と掲げ、朗々と宣言した長政――
 それに対して反応したのは、では無く、金髪のくの一だった。

 このくの一は上杉の忍なのか――それを確認しようと口を開き掛けたは、軽快な足取りで近づいてくる馬の蹄にさっと顔を強張らせた。
 それは躑躅ヶ崎館とは逆の北側からの気配……つまり、また敵側の新手ということだ。

「あぁ……いらっしゃる……!」

 しかし、突如恍惚とした声を上げたくの一に注意を奪われた隙に、その新手は林の中を片手を上げながら騎乗して颯爽と現れ、走っている馬の背から高く跳んだ。
 ほとんど日も暮れた中でその人物の背後に後光が見えたのは目の錯覚か……。

「さがりなさい、わたくしのうつくしきつるぎ」
「あぁ……っ、謙信様……っ!!」

 ――上杉謙信…!?

 その場に居た全員が寄り添い合った新手とくの一の二人に呆気に取られたのは、全員が二人の後ろに真っ赤な薔薇を見たせいかもしれない。
 しかしその直後、新手の男が振り返り、ひたとを見つめた。

「そなたが虎のむすめですね」
「――何!? 武田の虎姫とはお前のことか…! 武田と上杉! 悪と無駄口、削除なりっ!!」
「長政様……は殺さないで……ね……?」
「謙信様の邪魔をするなっ……!」

 もはや呆然と立ち尽くすしか無いは、上杉と浅井に挟まれてその場に固まった。






070120

信様のかな言葉は、非常に読みづらいので、一部の固有名詞だけ意図的に漢字にしたいと思います。

CLAP