31.夢のお告げ

 温かい……

 全身で感じる心地よさに、ほぅとため息をついた。

 暖かなものに包まれ、とても満ち足りた気持ちだった。
 何の不安も心配も無く、それでいてどこか泣きたいような。

 ふと、これが<幸せ>という感覚なのかと思う。


 突然、温もりが離れて、感じた寂しさのままに顔を上げる。

「…………………」

 温もりの持ち主――今まで抱きしめていてくれた彼が何事か囁いた。
 彼の声は、彼の言葉は、何よりも安心する響きを持っている。

 ふと間近に見詰め合った赤い瞳が細められた。
 顎に手をかけられて、促されるまま目を閉じる。 

 そのまま目の前の気配が近づき、そう時を置かずして柔らかな感触が唇に……触れた。






「――――ッ!!??」

 目が覚めて、寝台から飛び起きたはしばし呆然とする。
 そして、すぐに今見た夢が思い出されると、一瞬で顔を真っ赤にして口を覆った。

 反射的に枕の下に手を入れると、覚えのある感触が触れる。
 そこには、昔のように硬い銃身ではなく、柔らかく脆い一輪の花があった。

「嘘でしょ………?」

 呟いた言葉は、早朝の部屋にこだました。
 ようやく平常に戻った漆黒本拠・カルサア修練場での穏やかとは言い難い目覚めだった。








 長く続いた戦争の終結、敵であった隣国シーハーツとの国交回復は、が思っていたよりもずっと大変な事柄だった。
 モーゼル古代遺跡の円卓の広間で停戦協定が為されてまだ十日ほど――はクロセルを従わせる為にバール山脈にこもっていたが、その僅かな間にも国はめまぐるしく動いていた。

 戦争が終わったのだから軍の存在意義も大きく変わり、編成や任務面において漆黒も大きな変動期にあった。
 けれども、一番大きく影響したのは民一人一人の生活である。

 アーリグリフは昨年大規模な飢饉に見舞われ、戦時中は人々の暮らし向きも貧しかった。
 しかしシーハーツとの国交が回復し、隣国から豊富に食料や物資が流入し始めると、その生活は大きく変わり始める。
 物の需要が高まり、商売を興すものが増え、町や人々が活気づいていく――
 雪が溶けて春が訪れるように、国が端々から息を吹き返していく様は、ずっと地球で暮らしてきたにとってまさに目を見張るものがあった。

 そのような中で修練場に帰還した翌日、は病み上がりにも関わらず早くも溜まりに溜まった仕事に取り掛かっていた。


「――失礼します。アルベル様、こちらの書類に目を通して早急な指示を――それからこちらとこちらに決済を、これらにはサインをお願いします」
「……おい」
「あれ、先ほどお持ちした書類がまだ手付かずじゃありませんか。まだまだお仕事は後に控えているのですから、早く処理して頂かないと」
「おい!」

 書類の山に埋もれた執務机の前で、その主――アルベルは溜まりかねた様に声を上げた。

「何か?」
 笑顔を崩さぬまま返事をして、は新たに持ってきた書類の山をドンと机の山に加えた。

「私より二日も早く帰国されていたのですから、今さらこれくらいの書類が増えたところで当然処理していただけますよね?」

 そう言うの笑顔は有無を言わさぬ迫力を持っていて、アルベルはぐ…と言葉に詰まった。


 そもそも昨日唐突に帰ってきたに言ったアルベルの第一声がマズかった。

「―――なんでお前がここにいる」

 目いっぱい驚いた顔で言われた言葉。

 ――「アルベルは、の好きなようにすればいいって言ってたよ」――フェイトが言った言葉に少なからず傷ついていただけに、この第一声には悲しみを通り越して怒りが沸いた。

 アルベルの真意は分からないが、の機嫌は問答無用で悪化する。

「ここは私にとっても家ですから!」

 睨み付けるようにして言った一言に珍しく笑ったアルベルに一瞬ほだされそうになりながらも、の怒りは収まらなかった。
 そして今日に至って、優秀な副官の機嫌を損ねるということがどういうことか、アルベルは身を持って知ることになったのである。

 自分の言葉や、病床のを置いて先に帰国したという事実に流石に少しは罪悪感を覚えているらしいアルベルが言い返せないのをいいことに、はこの日ずっとこの調子で書類の山を築いていた。
 しかし、元来気が短いアルベルがいつまでも大人しく座っている訳は無い。
 対バンデーンで倒れて以来久しぶりに顔を合わすというのにずっと怒りっぱなしのに、アルベルはつい声を荒げた。

「何が気に入らねぇのか知らねぇが、はっきりと言え! さもなきゃ嫌ならどこへなりと出て行くんだな」

 いつものように勢いで憎まれ口を叩いてしまったアルベルだが、気付いた時には遅かった。
 の反応が気になって視線を向けてぎょっとする。

 口をきゅっと引き結んで瞳を潤ませたに、アルベルは柄にも無くうろたえた。

「おい………」
「――失礼します」

 アルベルが固まっている隙に、は腕で顔を覆って部屋を飛び出した。

 こんなことで逃げ出してきてしまうなど、馬鹿みたいだと思う。
 些細なことで傷ついている自分に一番腹を立てながら、無我夢中で廊下を走った。

 しかし全く前を見ていなかった為、当然のことながらすぐに人にぶつかってしまう。

「きゃぁっ!」

 相手から高い悲鳴が上がって、そこでようやくはっとした。
 自分も腰を打ちながらも、は自分が体当たりしてしまった人物に目をやって声を上げる。

「マユ!」
「いたたたた……ー!?」

 にぶつかられて尻餅をついていたマユは、久しぶりに会うに驚いてきゃーと悲鳴を上げながら抱きついてきた。

「一体いつ戻ったのー!? ずっと連絡もしないで!」
「わわわ、ごめんマユ……昨日戻った所で……」
「団長と二人でカルサアに行ってると思ったら団長は反逆罪で捕まったっていうし、そのまま始まったアイレの戦いでは重症負ったって……容態も危ないって聞いてたのにそのままドラゴン捕まえに行っただとか星の船と戦うとか、何がなんだか分かんなくて私たちがどれだけ心配したと……!!」
「まぁ、その辺にしといてやれ、マユ」
「ラドフさん!」

 息もつかせぬ勢いで詰め寄ってきたマユと、それに苦笑しながらマユを宥めてくれたラドフ。
 昨日帰還した時は国王も一緒だった為に何かと立て込んでいて、挨拶さえまだ出来てなかった二人には嬉しそうに顔を緩めた。

「何だか分からんが、どえらいことに巻き込まれてたみたいだな。まっ、団長やお前が言わないんなら何も聞かないけどな。聞いても俺には手出しできなさそうだし」
「もう、ラドフはに甘すぎるわ! この子は目を離したらすぐに無茶するんだから、私たちがちゃんと釘を刺しておかないと!」

 この二人の掛け合いを聞くのも久しぶりで、自分が責められているにも関わらずどこか楽しそうなに、マユは苦笑して言った。

「全く……無事で帰ってきたから、今回は許してあげる――おかえり、

 ちょっと目を見張っては嬉しそうに答えた。

「――ただいま」



 その後、すぐに仕事に戻ろうとしただったが、二人によって食堂に連行され、そこにたむろしていた連中に囲まれて強制的にの復帰祝いが行われた。
 祝いと言っても、漆黒の彼らにかかってはただの酒宴の口実である。

 途中からは主役であるはずのをほっぽりだしての騒ぎになったが、はそれも楽しみながらマユと他愛も無い話をしていた。
 その席で、マユは嬉しそうにその話を持ち出したのだ。

「ねぇ、。これ、知ってる?」

 マユが差し出したのは、青い花びらが美しい一輪の大きな花。
 見たことも無い花に、は首を横に振る。

「昔からシーハーツに伝わるおまじないらしいんだけど、いま若い娘たちの間で有名なのよ――オラクルドリーム…『夢のお告げ』って言うの」
「シーハーツのおまじない?」

 国交の回復は、こんなところにも影響しているらしい。新しい文化が流入して、こういった日常にも様々な変化をもたらすのだろう。 
 感慨深げに相槌を打ったに、それを興味だと受け取ったマユが身を乗り出す。

「朝一で摘んで一日自分の胸元にしまっておいたこの花を、夜眠るときに枕の下に入れて寝るの――すると、気になっていることの未来が見えるんですって」
「未来……」

 にとって最も感覚の薄いもの――普段のなら実行する気も起きなかった筈だ。
 だがこの時、アルベルと諍いがあったことで弱気になっていたは、翌朝こっそり抜け出して朝一で花を摘みにいった。
 そしてその夜―― 一日懐に入れていた花を枕の下に入れて、期待もせずに眠ったのだ。






ー、ー? まだ寝てるの? ……入るわよー」

 寝台の上で呆然としていたは、起こしにきてくれたらしいマユの入室に気付くのが遅れた。
 気付いて、慌てて顔を隠した時には既に遅かったようだ。

!? どうしたの、顔が真っ赤よ? 熱でもあるのかしら…」
「だ…大丈夫よ、マユ。すぐに食堂に行くから、先に行ってて」

 やっとそれだけ言ってマユがいなくなると、は寝台から脱け出して顔を洗った。

 ――「気になっていることの未来が見えるんですって」

 未来? あれが?

 夢のことだというのにやけにリアルな唇の感触まで蘇ってきて、は冷たい水で何度も顔を拭った。
 それでも頬の火照りは、一向に収まらなかった――








05.2.5
CLAP