目を開けて、まず最初に視界に飛び込んできた天井に、は大した違和感は覚えなかった。
太い梁の見える古風なアンティーク調のそれは、見慣れたものによく似ている。
ふかふかのベッドの感触も、馴染み深いものだ。
だが、もう一度目を閉じて、視覚ではないもっと感覚的な所で首をひねった。
ここがいつもの自室なら、どうして今日はあの慣れた嫌な感覚がしないのだろう…?
もう一度目を開け、ベッドの横に視線を向けて、はそのまま硬直した。
そこには、椅子に腰掛けたまま目を閉じている見覚えのある青年の姿があったのだ。
(……そうか、私は確か………)
ふと額に手をやると、幾重にも巻かれた包帯があった。
自分をモンスターから守り、そして返す刀を突きつけたこの人が、治療してくれたのだろうか……?
不思議な心地で男をまじまじと見遣る。
微かに聞こえる寝息……
恰好からして武人だろうに、人の気配に目を覚まさないなんてよほど疲れているのだろうか、とは少し笑う。
端正な顔立ちの中の、あの赤い瞳が閉じられていることに妙に残念な心地を覚えたが、深く考えないようにした。
そろそろと体を起こし、そう言えば足の怪我はどうなっただろうと体を見下ろして、自分の服が変わっていることに初めて気付いた。
夜着のような白いワンピースの下には、いつの間に傷つけていたのか背中にも包帯が巻かれており、上の下着も取り払われている。
それが意味する所に気付いた瞬間、は思わず叫んでいた。
「キ……キャァァァァァァァァァァァ!!」
自分でも驚くくらい大音量のそれに、傍らで眠っていた青年は飛び起き、屋敷の中からバタバタと人が駆けつけてくる音がした。
バタンッ! と派手な音と共に、部屋の扉が開かれて、鎧姿が飛び込んでくる。
「だっ…団長! どうかなさいましたか!?」
呆気に取られたように茫然とした団長と呼ばれた青年は、刀に手を掛けた姿勢のまま鎧姿を見遣り、次いでゆっくりとに振り向いた。
「………俺も知らん。元凶に聞け」
疲れたような冷たい声音に、思ったより大事になってしまったことを申し訳なく思いつつも、はぎゅっと自分の体を抱き締め、青年を睨んだ。
「ごめんなさい……でも、だって貴方が…………」
いかにも兵隊という人の前で言うのも恥ずかしく、続きを躊躇して俯くと、それをどう解釈したのか、鎧姿が大きな溜息をつく。
「団長……いくらなんでも怪我してる女の子相手に………………」
「! あ…阿呆もやすみやすみ言えっ! 俺は何もしてない!!」
微かに赤くなって怒鳴る青年に、「え…でも……」と鎧姿が言いよどみ、二人の視線がに向けられた。
説明を強いられたは、自棄気味に叫んだ。
「服を……私の服を替えたのは、貴方でしょう!?」
……………………
しばしの沈黙が部屋を満たし、しかしそれはすぐに鎧姿が噴出した声に破られた。
それを睨みつけ、苦々しい表情になった青年は、憮然としてに背を向ける。
「服を替え、治療をしたのはメイドだ!」
それだけを言い捨てて足音も荒く出て行った青年に、は呆気に取られ、やがて自分の勘違いに気付いて真っ赤になった。
団長と呼ばれていたあの人は、この鎧姿の人の上官に当たるのだろう。
それなのに、馬鹿な勘違いで恥をかかせてしまって申し訳ないことをした……
謝らなければ。
すぐにその考えが浮かんだが、はまだあの青年の名前さえ知らないことを思い出して、傍でようやく笑いを収めた鎧姿に話し掛けた。
「あの……すみませんでした」
「ん? ああ、いいんだ。それより、さっきの団長……いや、珍しいものを見せて貰った」
鉄兜の奥で微笑まれた気がして好感を持ちながら、は尋ねた。
「それで、団長と呼ばれていましたが、あの人は………」
「ああ、アルベル・ノックス様―――我がアーリグリフが誇る三軍の一、漆黒を統べるお方だよ」
「アルベル様……」
その名を呟いて、はアルベルが去っていった扉を見つめた。
その後、包帯の替えや食事を持って来てくれたメイドとの会話で、はいくつかの大まかな情報を得た。
ここがアーリグリフという国で、現在隣国シーハーツと戦争中であるということ、アーリグリフ三軍のことやここがその一つ漆黒の本拠地であるカルサア修練場だと言う事、そしてあのアルベルという漆黒団長が昨夜怪我をした自分をつれて帰ったこと……
この星で暮らす以上、情報は多いに越した事は無い。
もっと文化や風土、習慣について聞きたい所だったが、メイドはアルベルの話ばかりをして出て行ってしまった。
若き漆黒の団長――つまり、この砦の長でもある彼は、中々異性にも人気があるらしい。
そのアルベルが次に姿を現したのは、日も暮れた頃だった。
「――すみませんでしたっ!!」
入ってくるなり頭を下げられて気勢を削がれたのか、アルベルは渋面で溜息をついて今朝と同じ椅子に腰掛けた。
「馬鹿なことでぎゃぁぎゃぁと騒ぐんじゃねぇ、このクソ虫が」
――クソ虫……
流石にそんな事を言われたのは初めてだったが、今朝飛び込んできた鎧姿――名をラドフといった――からアルベルの口の悪さを聞いていたので、は苦笑いで受け流した。
「本当に申し訳ありませんでした、アルベル様」
名を呼ばれたことに片眉を上げて、アルベルは昨夜と同じ質問をした。ただし、今度は刀は向けられなかった。
「貴様は何者だ?」
思えば、当然といえば当然の質問だ。助けてもらったというのに、まだ名前さえ名乗っていない。
「――私は、・……、……………と申します。助けて頂いてありがとうございました」
ファミリーネームは、名乗れなかった。名乗りたくなかったというべきか。
あの生活から自由になった今、名前まで縛られたくは無かった。
この国の文明ならば、苗字を持たない貧民が居てもおかしくは無い。
案の定、アルベルは次の質問をした。
「どこから来た? あの服装から見て、この国の人間ではあるまい……」
やはり、気付かれていた………
一番突っ込まれたくない質問に、は冷や汗をかいた。
宇宙から来ましたー。などと馬鹿正直に言ってもこの星で信じてもらえる訳が無い。
だが、近隣の住人だなどと、適当な嘘を言っても、騙しきる自信も無かった。
最後の手段……仕方なく、起きてから今までに考えあぐねて出した答えを言った。
「私は、その……記憶喪失なんです」
「…………………」
自分で自分のことを記憶喪失と言う人間がいるのか……冷静な頭なら分かったことだが、この時のにその余裕は皆無だ。
全く自慢ではないが、は嘘という物がつけない。
内心を隠すことやポーカーフェイスは得意中の得意だが、そこに真実の一欠けらも無い嘘をつく時はすぐに見破られてしまった。
この時も声は上ずり、目は泳いでいた。
そのあからさまな嘘に、アルベルは刀に手を掛ける事もせず大仰に溜息をついた。
呆れ果てて、抜く気も起きなかったのかもしれない。
「……まあ、何でもいい。とにかく、怪我が治り次第ここを出て行け。弱いクソ虫の分際で、うろちょろすんじゃねぇ」
それだけ言って、素っ気無く踵を返したアルベルに、の手は自然に伸びていた。
「っ!?…………………おい、殺すぞ」
絶対零度の怒りを漂わせて振り向いたアルベルに、はようやくその原因に気付く。
――自分の手の中に、アルベルの尻尾のような髪束がしっかりと握られていることに。
「え……うわっ! あのっ、これはっ……!!」
今にも刀を抜きそうな勢いのアルベルに、は焦って髪を握ったままその手を振り回す。
更に髪を引っ張られる形になり、アルベルはバランスを崩した。
「っ……!」
ボスンッ! という音がして、倒れ掛かった先は、ベッドのの上。
押し倒されたような形のは、悪態をつきながら身を起こしたアルベルと期せずして間近で見詰め合う恰好となった。
少し驚いたような無防備な赤い瞳が、を見つめている。
――ああ、この瞳だ。
思った瞬間、疑問に感じてみたことを聞いてみた。
「どうして、昨日私を助けてくれたんですか?」
一度は刀まで向けて殺気を放っていたのに、おめおめと気絶したをここまで運んで介抱させてくれた。
それに、は覚えている。
目を覚ました時に、傍に居てくれたこと………独りじゃないことにあんなに安心するなんて、今まででは考えられなかったことだ。
が余りにじっと見つめ続けたせいか、アルベルは視線をふいと逸らして体を離した。
「俺は弱い者イジメはしない主義だからな」
無表情で言われた言葉に、はきょとんとし、心から微笑んだ。
何に驚いたのか、少し目を見開いたアルベルに微笑んだまま更に爆弾発言を投げ掛ける。
「私を、漆黒に入れて下さい!」
――この人は、優しい人だ…
そう実感した瞬間、そう口走っていた。
それがとアルベルの、初めの一歩――
04.3.14