「…………私、病気かも…」
茫然と呟いた言葉は、怪我人の看護の為に始終人の出入りする教会の中では誰も耳を傾ける者はいなかった。
シーハーツ領・アリアス――戦禍の跡生々しいこの村に、が潜入したのは今朝のこと。
ヴォックスの命を受けて、アルベルの許可を取り、昨日から早速アリアス周辺を探ってみたのはいいが、長引く戦況にシーハーツも気が立っているのか同行したラドフでも村の中の様子まではわからなかった。
そこで、実際にアリアスの中にまで潜入しようということになったのだが……
「離れれば大丈夫だと思ったのに………」
尚も紡いだ独り言は、神様どころか教壇にさえ届いてはいなかった。
辺りでは呻く怪我人と看護人の声、そして一心に祈る村人の声が絶え間無く溢れている。
いくらなんでも少しは悪目立ちするかと思っていただったが、いつもの動きやすい丈の短い衣装をシーハーツでは一般的な長いスカートに変えて髪の毛を下ろしただけで、誰からも気に止められることはなかった。
隠密行動に慣れていないは、一番目立たないでいられそうな教会で待ち、ラドフが村の様子を見に行っている。
ただ待機しているという空白の時間……
この惑星に紛れ込んだ異星人としても、漆黒団長の副官としても、考えなければならないことは山ほど有り、何もすることが無いこの時間を有意義に使おうと思っていたというのに……
――もうすぐラドフさんも帰ってきちゃうよ……
入口の方をちらりと見やって溜息をついた。
昨日は村の外で動き回っていたので何も考えずに済んだが、こうしてゆとりが出来た今、頭に浮かんでくるのは今後の対策ではなく、アルベルのことばかりだった。
これ以上近くに居れば、余計な感情を抱いてしまいそうだと思って守ると誓った彼から離れたというのに……本当に自分は病気じゃ無いかと溜息をつきたくなる。
――「――勝手にしろ」――
素っ気無く言われた言葉、鋭く睨みつける眼差し――
それを思い出す度に痛む胸は、いつも思考の邪魔をする。
(……アルベル様に危険が無ければそれでいいじゃない。大丈夫……カルサアに居れば何の問題も無い筈)
アルベルは安全だと……そうはっきりしていることだけが唯一の救いだった。
「――失礼します」
そう声を掛けて隣に腰掛けた男に、ははっとして軽く会釈する。
村の男――変装したラドフが軽く首を横に振ったのを見て、も吐息して目を閉じた。
ラドフも、修練場の一件でフェイト達の顔を知っている。
その彼が村を一回りしてきても、フェイトたちの姿は無かったようだ。
本当にもうこの村にはいないのかも……
そう思った時、不意に村人の会話が耳に入って来た。
「――まあ、それじゃ、ネル様たちが銅を?」
(銅…? ……『ネル』……)
どこかで聞いた名だ……と思った瞬間、フェイトたちと同行していたシーハーツの隠密を思い出した。
カルサア修練所で、確かフェイトは彼女を『ネル』と呼ばなかったか…?
お祈りしている振りをして、はその話に聞き耳を立てた。
「だけど大丈夫なのかねぇ…。ベクレル鉱山はアーリグリフ領内な上にドラゴンの巣になってるっていうじゃないか」
「大丈夫さ。いつものようにタイネーブ様とファリン様も一緒だし……それにほら、この前から見かける何だかヘンテコリンな男二人も連れて行ってるみたいだから」
そこまでで充分だった。
念のためにもう少し情報収集をしてくるようにラドフに目線で合図し、は足早に教会を後にした。
村人の目を盗み、アリアスから脱出したは、随行の漆黒兵数名が待機している洞窟を視界に捕らえてはっと身を強張らせた。
アイレの丘の、街道から外れた目立たないそこには、三頭のドラゴンが休んでいた。
その傍らに、特徴のある甲冑――疾風兵が三人。
はその内の一人に見覚えがあった。
「これは………デメトリオ様…」
走りよったに、その男――疾風副団長のデメトリオは振り向き、ややあってから納得したようにに向き直った。
「確か……と言ったか。漆黒団長殿の副官だとか」
揶揄するような響きと、上から下ヘ値踏みするような視線に嫌悪を覚えながら、は軽く礼を取った。
このデメトリオとは、以前にアーリグリフの三軍会議に付き添った際に一度会っている。
主人のヴォックスと似た……いや、主人に追従するが故に同じであろうとする、が尤も嫌う人種だと感じたのを覚えている。
「大人しい格好なのでどこの小娘かと思ったぞ。こんな所で何をしている?」
「――我らは疾風団長殿の命により、先日脱獄した捕虜を捕らえる為にアリアスを見張っております。お疑いならば、”ヴォックス様に”確かめられては如何ですか?」
ヴォックスの名を出されて、デメトリオは幾分たじろいだが、すぐに威勢を取り戻してを見下ろした。
「なるほど。だが、それならばここに居るのは無駄骨かもしれんな」
「!? ……どういう意味でしょうか」
が興味を持ったのを見て取ると、デメトリオは部下の二人に声をかけ、エアードラゴンに跨った。
ドラゴンが翼を広げ、バサリと羽ばたいて空気が震える。
「……デメトリオ様!!」
風圧に耐えながら必死に呼びかけたに、デメトリオは勝ち誇ったように言い放った。
「先刻、お前の探している者たちをベクレル山道で目撃したと情報が入ったのだ。王都からすぐに増援も来ようが、それまでにこの私が捕らえてくれるわ!!」
言うだけ言って飛び立っていったドラゴンを見送りながら、は拳を握り締めた。
「増援……」
何だか、無性に嫌な予感がする。
「――ラドフさんが戻り次第出発します! 行き先はベクレル鉱山!!」
待機している仲間に告げて、はデメトリオたちが去って行った空を振り仰いだ。
悪い予感が的中しないように、本当に祈りたいような気分だった。
アルベルにとって、その報せは恰好の餌のようだった。
が単独任務でアリアスに経った翌日、本拠地をそんなに留守に出来ないと、アルベルは数人の部下だけを連れてカルサア修練場へと戻る所だった。
ウォルターには止められたが、アルベルは聞く耳を持たなかった。
それもその筈。本当の理由は、ただじっとしているのに我慢ならなかったからだ。
と別れて以後、アルベルの機嫌は最悪だった。
別れ際……そして、今までのの言動が、ふとした拍子に脳裏に甦る。
自分を主だと言い切った……どこから来たのか、何者なのか、何一つ素性を明かさなかったが、それでもいいと思えるようになったのはいつからだったか……。
だが、どうやらはあのフェイトとかいう捕虜の彼らと同質の人間らしい。
同じ故郷なのか、それとも似た様な境遇なのか、そんなことは知らないが、アルベル達とは一線を隔した人種であるというのは何となく分かる。
――「捕虜の…彼らのことも少々気懸かりなのです」
――「もう一度会いたい……会って話をしたいと思うのです」
そう言ったに、言いようも無い苛立ちと憎しみを覚えた。
会って、話をして……それでどうしようと言うのか。
最初はどうか知らないが、今ではフェイトたちは確実にシーハーツ側の人間だ。
その彼らと、アルベルと……が同胞の方を選ばないと、どうして断言できる?
ダンッ――!!
近くの壁を叩いて、アルベルは呼吸を整えた。
たった一人のクソ虫のように非力な小娘の為に、なぜこれほど心を乱されなければならないのか……
――「それとも、お前にはそれ以外の何かがあるのか?」
「馬鹿な……」
甦ってきたウォルターの言葉をかぶりを振って否定した時だった。
ルムに跨った風雷兵が慌てて鍛錬場を通って屋敷の横に止まる。
厩では無く屋敷まで直接ルムで来るのは、緊急の時だけと決まっていた。
「どうした、何かあったか?」
「アッ…アルベル様!?」
意外な場所でアルベルと鉢合わせ、風雷兵は慌てて膝を折った。
身なりからして、周辺の斥候に出ていた者だろう。
「先ほど手負いの疾風兵が近くを通りまして、その者の話によれば、ベクレル鉱山にシーハーツの手の者が入り込んだと……!」
「ベクレル鉱山……」
アルベルにとっては、嫌な記憶の眠る地である。普段ならば気にも留めようとしなかっただろうその報告に、しかしアルベルはニヤリと笑った。
「おもしろい……丁度退屈していた所だ。憂さ晴らしにはなるだろう」
そう言って、アルベルはカルサアの町を出た。
胸に巣食って離れないこの苛立ちを消してくれるなら、何だって構わない。
剣を振るうことがその唯一の方法だと自覚しているアルベルは、刀に手を添えて、ベクレル鉱山へと足を速めた。
04.4.12