暁の声 - 想われ人

「ようこそいらせられました、延暁后」

 今や名前通りに光り輝くばかりの慶国金波宮に降り立ち、数刻――
 ようやく息がつけると安堵していただけに、は苦笑した。

「本日はお招きいただき、ありがとうございます、皆様」

 朝議を執り行う正殿で正式な賓客として型通りの挨拶を終えた後の、正寝の一角である。
 集う面々は、王・宰輔・冢宰・太師など錚々たる肩書きだが、にとっての内実は気の置けない知人ばかりだった。

「それにしても、ここでまで堅苦しいあだ名などやめてください、陽子」
「あだ名って……せめて通り名くらいに言ったらどうだ?」

 内々のお茶会の様相を呈しているのんびりしたその場で、陽子は今では慶の名産となった紅茶片手に笑った。
 は五十年の空白の間にすっかり大人びた友人に顔を綻ばせる。

「私が恥ずかしがるのを知っていてそうやってからかうんですから、陽子も性格が悪くなりましたね――誰の影響なんですか、楽俊?」

 が笑顔のまま視線を向けると、楽俊は鼠姿のまま髭をそよがせた。
 雁から慶の大学へ移籍し、そのまま慶で官吏になり、今や大宰の地位に就いているこの友人は、内殿では獣形でいることも珍しくないという。

「さあなぁ……だが、近頃『延暁后』が時の人ってのは事実だからなぁ」
「それに、が『延暁后』として正式に滞在してるのも事実ですものねぇ」
「それはそうよね。正式なお客様ですもの」

 楽俊に続いて祥瓊・鈴の援護まで加わって、慶はしばらく見ない間に随分強かに育ったものだとは苦笑する。

「………浩瀚様、何とか言ってください」
「何とかとは? 私としては殿にお会いできたのは嬉しいですが、慶の民も楽しみにしております故、ここで延暁后のご機嫌を損ねては一大事……出来る限りのお持て成しはさせて頂こうと朝一丸となって腐心しておりますが、暁后におかれましては何かご不快がおありでしょうか?」
「…………いいえ、何一つございません」

 もはやそう言うしか出来ないは、がくりと項垂れた。
 自国の春官長で慣れているつもりだったが、ここにもそれと同等の浩瀚が居るのを忘れていた。

「……このようなことを申しておりますが、皆、殿が来られるのを何日も前から楽しみにしておりました」
「景台輔……台輔だけです、そのように仰ってくださるのは」

 落ち込むに優しい言葉を掛けてくれたのは、昔から比べて幾分雰囲気が柔らかくなった景麒だった。
 半ば本気で感激していると、陽子は呆れた風に笑う。

「自分だけオイシイ所を持っていくなんて、ズルイぞ、景麒」
「主上、私は何もそのような……」
「分かっている、冗談だ」

 一言も口を挟めない景麒を置いて、陽子は綺麗な笑みを浮かべた。

「――、即位したばかりで忙しい所によく来てくれた。こちらの勝手な頼みだったのに……」
「いいえ、よろしいのです。私としても願ったりですので」
「うん。――まあ、今回は正式な賓客とは言え、好きなだけ滞在してくれ。その髪でも、以前のように隠れていなければならないという事もないし、宮も客に対して随分態度がマシになったと思う」

 天官長の楽俊も力を込めて頷く。

「何より、私の大切な親友に悪さはさせないと、この国の主として約束する」

 もう五十年以上も前、が大逆の疑惑で追っていた碇申の狙いが実はにあったことを気にしての言葉だろう。
 そんな陽子ににこりと笑い返すと、はしみじみと言った。

「松伯……」
「なんじゃな、
「いつの間にかこんなに立派な王におなりになって……真に感慨深いものがありますね」
「そうじゃの……長く生きておって、それを見るのがわしの生き甲斐じゃよ」
「陽子のような後継者なら、達王も事の他お喜びでしょう」
……」
「――達王が鍛えし、水禺刀が鞘、雁国王后のが誂えさせていただきます」







「お待ちください! ただいま暁后様は……!」

 段々近づいてくる騒ぎとよく知った気配に、は深々と溜息をついた。
 バン!と荒々しく扉が開けられた瞬間、衝立の影から複数の手裏剣を投げる。

「それ以上動いたら当てます」
「……………」

 何も返事が無いことに苦笑して着替えを終えたは、手伝ってくれた鈴に礼を言って衝立から顔を出した。
 入口で上下左右の八箇所の着物を壁に縫いとめられた恰好のまま憮然としている尚隆に近づく。

「他国の宮で何をなさっているのですか、主上」
「………いい加減、放せ」

 呆れて手裏剣を抜いてやると、人前にも関わらず荒々しく口付けられた。

「……何のつもりですか」
「それはこちらの台詞だ。勝手に宮を抜け出すとは何のつもりだ、?」

 突然金波宮を訪れた延王尚隆の言葉に――だけでなく、慌てて駆けつけた陽子も楽俊も硬直した。

「どういうことだ? は確かに親書を持って……」
「…………忘れてた」
「え?」

 愕然としていたは、これまでの経緯を思い出して引き攣った笑みを浮かべた。

 正式に雁の王后の地位についたは、実際は太傳とは言え、様々な権を与えられた。
 それこそ、王に匹敵するほどの権力である。
 独自に判断し、政策を指示する事さえ出来た。
 しかし、立ち直った尚隆はまた度々宮を空けることが多くなった為、御璽を待っていては仕事が進まない。
 その為、奏国の利広に聞いた話を真似してみたのだが……

「すみません、尚隆。アレを使って親書を書いちゃいました」
「別にそれは構わぬが……」

 アレとは、御璽を押した白紙のことである。尚隆の筆跡を練習し、ほぼ同じように書けるようになったのは最近……今回が初めての実用であった。
 しかし、それを前もって報告するのを忘れていたのである。

「それ以外のところを説明してもらおう」

 はい、と項垂れたに同情したのか、助け舟を出してくれたのは楽俊だった。

「申し訳ありません、延王。オイラたちが呼んだんです。慶の国宝・水禺刀の鞘が、急ぎで必要になりまして――」
「在位六十年の節目として、今度の郊祀で水禺刀の披露を行うのだそうです」

 楽俊、に続いて、陽子も尚隆に頭を下げた。

「水禺刀は鞘を失くした――鞘が無いままでは、呪力が暴れる。私はそれでも構わないと思っていたが、民の前で披露するとなればそうも言っていられなくなったので、に助力を願いました」
「鞘……確か最初に鞘を作ったのは……」
「小国の太師・松伯です」
「松伯が鞘を作られた時、呪力は達王が補佐されたそうです。そこで今回は私がお手伝いすることに……」

 冬至の祭礼である郊祀は、王の祭礼のうち最も要となるものである。
 首都の郊外に古墳のような霊台があり、そこに王が自ら赴き、天を祀り、地を鎮める。
 霊台に向かう行列が、民にとっての一大イベントとなっており、その途中で水禺刀の披露を行うということであった。
 は自国の郊祀があるので当日は同席できないが、その前夜祭として金波宮の正殿で一般公開の鞘作りを行うことになっていた。

 鞘自体は松伯の指導の下に冬官が用意しているから、当日はそこに呪力を注ぎ込むだけである。

「『延暁后』は最近呪師としても広まっているようですから、良い機会でした。陽子たちに無理を言って一般公開にしていただいたのです」

 の王后とは別の役目は、世界に金の髪が特別でないことを広めること――自身としてはこの数年で随分知名度も上がったと思うが、人間というものは実際に自分の目で見ないと信じられない生き物だ。
 他国の宮で大勢に姿を見せる機会は貴重だった。
 それで一も二も無く飛びついたのだが――問題は、それが尚隆の留守中であり、更にその直前に派手に喧嘩していたことにある。

「――事情は分かったが、玄英宮も郊祀の準備で忙しかろう。よく朱衡が許したな」

 自分のことを棚上げしている言葉にも、はぐっと我慢した。

「今回の訪問は、段取りの打ち合わせだけです。流石にこの時期に宮をほったらかすほど私は責任感の無い王后ではありませんから」
「……ほぅ、それは俺が責任感の無い王だと言いたい訳か?」

 途端に怪しくなった雲行きに、慶の面々が半歩引いたのが分かった。
 は理性を総動員させて笑顔を作る。

「そんなことを言っているのではありません、主上。ここは仮にも他国の宮なのですから、この話はまた後日……」
「そうやって逃げるつもりか? 五十年前にもう二度と逃げぬ、離れぬと言ったのは何処の誰だ?」
「あれは……! そういう尚隆こそ、私が眠っている間に正気を手放そうとしていたじゃありませんか」
「もう時効だ」
「こちらの方がつい最近の話ですよ! 大体ここに来たのも、私が貴方に愛想尽かして実家に戻ったと思ったからなんじゃないんですか?」
「何をたわけたことを……宮に戻ったら后はおらぬ、その上慶で延暁后が祭祀に出ると噂で聞いた俺の身にもなってみろ!」
「放蕩癖のある主の尻拭いのために政務に囲まれながら、条理の勤めも果たそうとしている私の身にこそなっていただきたいものです!」

 いつの間にか痴話喧嘩になってきている二人を止められる者は慶国にはおらず、気が付けば周りは呆れたように退室しており、その場にはと尚隆の二人だけが残されていた。

「………………………いつの間に。もう恥ずかしくて皆様に顔向けできません」
「だったら、郊祀などにも出ねば良い」
「まだ言って――」

 再び声を荒げようとしたの台詞は、尚隆の抱擁によって塞がれた。
 驚いている耳元に声を落とされる。

「噂では今回のことが何と言われているか知っているか?」
「……呪など使うのは、やはり麒麟と関係しているのでは無いかとか言った邪推ですか…?」

 後ろ向きなの考えに、尚隆は笑った。

「それもあるかもしれぬし、純粋に呪師として力を振るう延暁后が注目を集めているのもあるが――」
「それ以外にも何か……?」
「延王を狂わせる程の想われ人――」
「え……?」
「慶の民の間ではそう言われておるらしいぞ」

 慶は陽子が玉座についてから、随分と大国・雁の援助を受けてきた経緯がある。
 その大国が衰弱するほど……大国を五百年支えてきた名君が狂うほどに、想われている姫君――

「…………想われ人だなんて、何と言うか……その………」
「俺の想われ人と言われるのは不満か?」
「とんでもない! そうじゃなくて、少し恥ずかしいだけで……」
「………衆目にを晒すのはあまり気持ちよくないと思っておったが、気が変わった。あれが延王の想われ人よ、と見せびらかすのは悪くない」
「尚隆……!」

 真っ赤になったは口付けを受けて更に赤面した。

「………今回は、いろいろごめんなさい…」
「いや、俺も悪かった」

 すんなり出来た仲直りにほっと安堵して、は目を閉じた。

 ここが慶国の宮だとようやく思い出すのは、自分が想われ人であることを十分に自覚した翌朝のことだった。







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