「何ですって?」
手に持っていた巻物を取り落として、彼――朱衡はそう聞き返していた。
常は物腰柔らかで冷静な彼らしくない驚きように、報告を携えてきた部下は狼狽する。
「あ…あの……?」
戸惑ったような部下の様子に不覚にも気付かなかった朱衡は、片手に持っていた筆を握り締めたまま詰め寄った。
「本当にあの馬……いえ、主上がお風邪を召されたのですか?」
可哀相に、ただコクコクと必死で頷いた部下にようやく我を取り戻し、朱衡は溜息をついて謝ると、退室を促した。
一人になった部屋で改めて大きな溜息を一つ。
「あの方が風邪だと……何やら嫌な予感がする……」
呟いて見遣った雲海は、いつもの凪が嘘のように荒れていた。
「おっ、朱衡じゃん。こんな時間に珍しいな」
「台輔……それはこちらの台詞ですよ」
急ぎの仕事だけ片付けて王の寝室に足を運んだ朱衡は、そこで王の半身・麒麟である六太に出会った。
どうせこの麒麟のことだから、常日頃は見れない主の弱ったところを見物にでも来たのだろう。
「俺はただこいつをからかいに来ただけだって。弱ってる尚隆なんて滅多に見れねぇからな」
やっぱり――そんな思いと共に溜息をつく。
「台輔……仮にもこの雁の王であるのですから、少しは労わってさしあげなくては」
「仮にもとは何だ、仮にもとは」
寝台で眠っているかと思った王はしっかりとこちらを睨んでいたが、朱衡は片眉を上げただけだった。
「普段ろくろく朝議にも出ずにサボってばかりのお方がちゃんとした王と呼べるとお思いで?」
しかし、朱衡の嫌味にも尚隆はほとんど表情を動かさず、ごろりと背を向ける形で寝返りを打った。
これには朱衡も六太でさえも目を丸くする。
反論してくるでも無く、鼻で笑うでもなく、こうやって背を向けるなどあまりにも尚隆らしくない。
「……ますます良くない兆候ですね」
「朱衡…?」
訝しげに眉を寄せた六太を置いて、朱衡は手にしたものを掲げて王に一歩近づいた。
「さあ、主上! この薬湯をお飲みなさい!」
ずいと差し出したそれをちろりと見遣ったが、尚隆はまたすぐに顔を背けた。
青筋を立てた朱衡とは反対に、六太は顔を輝かせる。
「朱衡、お前何だかんだ言って、イイ奴だなー。わざわざ薬持ってこいつを見舞いに来るとは」
「当たり前じゃないですか、台輔。主上には早く良くなっていただかなければ……でないと……」
「そうじゃないと、政務が捗らないってか?」
「いいえ」
冗談めかした六太の言葉に否を返して、朱衡は額を押さえた。
「考えてもご覧なさい、台輔。主上が風邪……風邪ですよ!? こんな非日常なことが今までありましたか!?」
朱衡の言わんとしていることがようやく六太にも見えてきたのか、やや困惑気に顔を顰めた。
「そう言えばそうだ……神籍で風邪なんて普通ひかねーよな」
頷いた六太と顔を見合わせて朱衡は薬湯を握り締めた。
彼と六太がこうも騒ぐのにはれっきとした訳がある。
この五百年の間、この尚隆と王は退屈を一番厭って来た。常々、自分が国を滅ぼす時は退屈しきった時だなどと軽口を叩くくらいである。
そんな次第だから、退屈しないくらいがこの王には丁度良く、朱衡ら官吏も普段の放浪癖には目を瞑っているのだが……問題は、退屈とは間逆の非日常な出来事が起こった場合である。
隣国の慶の内乱時然り、泰麒捜索時然り、非日常の度合いが強いほど、この男はとんでもないことをしでかすのだ。
今回は肝心の尚隆が病に臥せっているのだから流石にとんでもない事は起こらないとは思うが、災いの芽は早い内に摘んでおくが良策だ。
そう思っていた矢先だった。
天官の一人が慌てて駆けつけてきたかと思うと、信じられないことを告げた。
「ただいま、慶国より飛仙・斎暁君がいらせられ、主上の招待に応じて来られたと仰せに…!」
「――通せ」
固まっている朱衡と六太を差し置いて、寝ていたはずの尚隆が身を起こして返事をしていた。
「ちょっ…待て、尚隆。一体どういう……!」
我に返った六太が王に食って掛かる暇もあらばこそ、すぐに部屋の外から声が掛けられ、衣擦れの音と共に見知った人物が入室してきた。
「です。御文を頂き、急ぎまかりこしました。――お加減はいかがですか、尚隆!?」
部屋の入口からは尚隆しか見えなかったのだろう。入口で簡単な挨拶だけして尚隆に駆け寄ろうとしたは、部屋の中ほどまで来て初めて六太と朱衡の存在に気付いた。
両者は顔を合わせて驚きに目を瞠る。
は二人の存在に気付いていなかった為に。六太と朱衡は、の格好故に。
「これは――気が付かず大変失礼申し上げました。延台輔、朱衡様」
「――だよな?」
「はい?」
返事をしたのはいつも通りの彼女だったが、その衣装はと言えば、仙女の如き華麗な重ね衣に、見事な装飾品の数々……髪の色が分からぬように薄手の布さえ被いていたが、その上からでも薄化粧された可憐な花かんばせが見える。
「その……失礼ながら、本日の御衣裳は一体どうなされたので?」
見惚れていた自分を叱咤しつつ聞いた朱衡は、聞いた瞬間背後からの気配に悪寒が走った。
は自分の格好を思い出したのか、頬を赤らめ、衣の裾を軽く摘み上げた。
「これは、尚隆が……。重い病にかかられて動けぬ故、私に会いたいと言われてこの衣装一式と共に文を……陽子や祥瓊たちも、それは一大事と着替えを手伝ってくれたんですが……えっと……取り敢えず急いで来たので、どこかおかしかったでしょうか? 尚隆の…延王君のお加減はいかがですか!?」
尚隆の手紙を鵜呑みにして顔色さえ悪いと、それを満足げに寝台の御簾内から見遣っている尚隆に、朱衡は眩暈を感じた。
一体いつの間に慶にそんな手紙や贈り物を送ったのだろう。
しかも事もあろうに、景王と慶の女官まで共犯とは……一体尚隆は何を条件に付けたのだろうかとますます頭が痛くなった。
「ああ、。わざわざすまんな……大したことは無いのだが、典医らが大騒ぎしてな」
「御典医が!? それは大変なのでは……」
「ああ……それで俺もすっかり弱気になって、無茶を承知でお前を呼んだ。許せ」
「そんな……私などのことは構いません。それより早く横になってください。熱は……かなり高いですね。何か食べられそうですか? 汗をかかれているようですが、お着替えは?」
芝居がかった尚隆に気付かず、頭の被り物を取っただけの格好で甲斐甲斐しく看病し始めた。そして、至極幸せそうな尚隆。
《……台輔、主上が台輔と朱衡殿にただちに退出せよ、と》
「なっ、あのエロジジイめ! めかしこんだの看病を独占しようって腹か……!」
六太の使令・悧角の言葉に、六太は激昂したが、朱衡は溜息と共に六太を引っ張って素直に退出した。
「何すんだよ、朱衡! あのまま放っておけるか…!」
「やめておきなさい、台輔。いかな台輔と言えど、今の主上を邪魔すれば……」
悪い想像をしたのか、血に酔ったように真っ青になった六太の背を同情を込めてさすって、朱衡は執務室へと戻り始めた。
災いの芽は早めに摘むべきだと思った自分の考えは間違っていなかった。
ただ、その災い=王の策略の方が一枚上手だったというだけで。
ふと王の寝室を振り返って、朱衡は祈るような心地で思った。
(どうか、斎暁君が無事にお帰りになられるように――)
病で理性の細った尚隆が暴走などしようものなら、まさしく傾国の事態だし、慶も黙ってはいまい。
新たな厄介種を抱え、キリリと痛む胃を抱えながら、朱衡は自身にも医者が必要だと気付いて行き先を変えた。
それもまた、非日常の種の一つ――
CLAP