暁の声 - 幸せの海神(わだつみ)

「ここは……似ていますね」
「……どこにだ?」
「瀬戸内の海に――」

 以前に愛しい人とそんな会話を交わした海を眼下に、は目を細めた。

「やり直しで戻った時に、お役目で小松の領地であった土地に行ったんです」
「………小松…に…?」

 驚きに目を見張った尚隆から返ったのは少し掠れた声で……あの遠い故郷…亡国が、未だにこの人の中を大きく占めている事実を思い知った。

「……穏やかな……とても穏やかな……海でした……まるで貴方のようだと……」

 自分の感想を述べたところで、尚隆にとって如何ほどの慰めになっただろう。
 いや、気休めにもなりはしない。
 後継者として、国主として、あの人は本当に小松を守りたかったのだから。

「……駄目だよね、こんなんじゃ……」

 自嘲気味に呟いて、は立ち上がった。
 しかし、目の前の海から離れがたく、その場から動くことが出来ない。

<――、そろそろ戻られませんと>

「……分かってるわ、悧角」
 
 穏行して同行していた延麒・六太の使令の言葉に、は一つ諦めの溜息を落とし、呼び笛でやってきた騎獣の背に跨った。
 クォン…と、自分を乗せた愛騎・サクラにまで促され、は苦笑する。

「うん――大丈夫よ、サクラ」

 安心させるように首の辺りを撫ぜて、高く上昇する。
 そう、大丈夫――どんなに心が揺れても、もう逃げたり投げ出したりすることだけは、決してしないと決めたのだから。







「なぁ、お前今度は何やらかしたんだよ」

 手頃な卓に腰掛け、傍にあった果物を齧りながら――不機嫌に言ったのは、入室してきたばかりの六太だった。
 王の執務机を囲むように立っていた朱衡・成笙・帷湍の三人は顔を見合わせる。

「何のことだ?」

 書面に目を落としたままで飄々と言った尚隆の台詞に、六太はむっと眉を吊り上げる。

だよ! ! 最近ずっと元気無いし、何か思い詰めてる。暗い表情で時々ふらりと出掛けたりして……何かあったらどーするつもりだ?」
「何かとは?」
「だから、何かだよ。……仮に本人が変なこと考えなくても、ぼんやりしてる所を後ろから襲われたりしたらどーすんだ」
「麒麟とは難儀な生き物だな。始終そんな心配ばかりしていてどうする? それとも、使令でも張り付けるか?」
「もう張り付けた」

 あくまで譲らない六太の言葉に、尚隆は処置無しと肩を竦めた。
 しかし、その後も余りにも六太が食い下がるので、困った餓鬼だと言わんばかりに溜息をつく。

「あれが何を考えておるかなど、あれが言わぬ限り知りようも無いでは無いか。大体、元気が無いというが、夜など別段変わりは無いぞ。いつも通り手強いからな」

 主の開けっ広げなのは今に始まった事ではないが、夫婦生活まで明け透けと語る尚隆に、帷湍は深々と溜息をついた。

「よくも抜け抜けと……。それは王后の台詞だろうが。正式に王后に叙してからもう何年だ? 未だに昼まで閨に篭ることもあるくせに、女のせいにするとは何事だ!」
「そうですよ。少しは自重ということを覚えていただきたいものですね」
「何時まで経っても青臭い童のようなまねをしていて恥ずかしいとは思わんのか」

 側近三人の容赦ない言葉に、しかし尚隆は怒ることもせずにくっと喉を鳴らした。

「お前たち、倭の忍というものを知っているか?」
「……殿が属されていた組織のことでしょう。主君の為に諜報活動をする組織だと伺ったことがありますが」
「まぁ、そうだな。だがそれだけじゃない。六太が嫌がるような血生臭い仕事も請け負う、まさに"影"だな」

 六太は嫌そうに顔を顰めたが、尚隆は気にした風も無く続ける。

「当然、危険な役目だ。忍は使えるものは何でも使って、役目を遂行することを第一に考える。そんな忍――特に女をくの一というが、それらの仕事の中に、房術というものがある」
「房……の、術?」
「そうだ。文字通り、自らの体を使って男を惑わせる術だな。もこれに精通していて、こないだ等は――」
「あ」

 尚隆が言いかけたのを遮る形で六太が声を上げた直後、キンッ!と高い音が響いて全員が硬直した。

「お…おう、……おかえり」
「――ただいま、六太」

 にこりと浮かべられた綺麗な笑みに悪寒を感じ取った六太は、そう言えば用事があったと言い残し、慌てて部屋を出て行った。
 六太が離れたのを見計らって、同じように逃げようとしていた残りの面々に何処か凄みのある笑みが浮かべられる。

「おもしろいお話をされていたようですね、主上、皆様?」
「いや、王后、俺たちは……」
「何処ぞの莫迦殿はともかく、よもや太宰ともあろうお方があのような慎み無いお話をされるとは嘆かわしい……そう思いませんか、帷湍?」

 真正面から言われた帷湍だけでなく、朱衡と成笙までもが背筋を震わせた。
 王后であるは、普段は穏やかな人物だが、怒らせると一番怖いのではないかというのが三人一致した見解だ。
 彼女の夫のことも、常は「尚隆」と呼んでいるが、怒ると「主上」と他人行儀な言い方をする。だが「莫迦殿」呼ばわりするのは、今まで一度も聞いたことが無かった。

 尚隆も真剣に危険を感じたのか、やや引き攣った声で妻を止めようとする。

「……待て、。六太も混ざっていたのに、なぜアイツだけ逃がす」

 しかし、その質問はむしろ逆効果だった。
 妖しく微笑んで言われた内容に、一同は青…を通り越して白くなる。

「あら、だって麒麟は血に病むでしょう? これ以上ここに居ては、体に障りましょうから」

 つまり、流血沙汰になることを暗に示している訳で――
 ここへ来て、先ほど響いた高い音の意味に、朱衡と帷湍はようやく気付いた。
 あの時、尚隆はとっさに剣を抜いた。
 それに弾かれた小刀のようなものが発した音だったのだが――今までも怒ったが刃物を投げつけることは何度かあったが、尚隆が剣を抜くことは無かった。
 それは、危険ではないという表れであり、逆に今回は抜かなければ当たっていたということに他ならない。

「お覚悟はよろしいですか?――ああ、心配なされずとも、皆様一応はこの国の要職にある方々……お命までは取りません。目に付くような場所にも残しませんから、ご安心くださいね?」

 何の覚悟? 何の安心?

 考えたくないことを考える時間も無かったのは幸いだったのか――その日、玄英宮正寝の一角で、悲痛な悲鳴が上がったのだった。








「そんなに怒るな」

 の『お仕置き』を他の三人より念入りに受けて冷や汗をかきながらも、尚隆はあっけらかんと言ってのけた。
 悪びれないその様子に、は思わず愛刀の鯉口を切る。

「貴方という人は……反省という言葉を知らないんですか? それとも、私が十年ほど諸国見聞の旅に出てくれば、思い出していただけるんでしょうか?」

 その言葉が冗談では無いことを知ると、尚隆はようやく今まで口にしなかった言葉を告げた。

「――俺が悪かった」

 『お仕置き』よりも、が傍を離れることを厭うその態度に、もようやく笑みを零す。

「全く……困った人ですね、尚隆」

 武器から手を離して苦笑し、お茶を入れる為に茶器に手を伸ばした。
 朱衡・成笙・帷湍らは先に開放したし、六太もしばらくここへは寄り付くまい。
 自然二人きりになった室内に溜息をつきたくなるのを耐えて、は自然な動作を心がけて茶器を調えた。

「喉が乾いたでしょう」

 室内であれだけの攻防をすれば当然とばかりに差し出したお茶を、尚隆は手に取らずに見つめて首を傾げたを真っ直ぐに見上げてきた。
 そして、一言――

「言葉が足りぬ」
「え?」

 驚いているの手を取って強引に引き寄せ、尚隆はきつく抱擁したまま言葉を継ぐ。

「俺には言葉が過ぎると言うが、は圧倒的に足りぬ。お前が言わねば、俺には気付いてやれん……それとも、俺には言えぬことか? 他に好きな男でもできたか、それとも……」

 何を馬鹿なことを、と言おうとしたを遮って尚隆は声音を落とした。

「……達王や蓬莱に関係することか」

 はっと身を固くして、しまったと後悔する。
 抱きしめられた今の体勢では、肯定したも同じことだ。
 相変わらず周到な尚隆の策に嵌まったのが悔しく、それでも誤解だけは解かなければならないと、は軽く息を吸った。

「全く違う訳ではありませんが……昔を懐かしんだりしていたんじゃありません」
「では、何だ? 何がお前の顔を曇らせる?」
「……そんな顔をしていますか…?」
「己の妻の表情に気付かぬほど、俺は無頓着では無いぞ。六太も心配していた」

 少し怒ったように言った尚隆の言葉に、はくすりと笑って泣き顔を隠すように広い胸に抱きつく。
 ぎゅっと強く抱きしめれば、遠い祖国の海のにおいがした。

「……あの海を見に行ってました」
「海……?」
「瀬戸内の海に似ていると言った、貞州の海です」

 青海沿岸の里から程近い山を、尚隆は思い出していることだろう。
 しかし、故郷の話を出されて何を感じているかまでは、に知る術は無い。
 例え痛みを感じていたとしても、和らげることすら出来ないのだ。

「……自分が歯痒いんです。何も出来ない自分が」
……?」

 それ以上は聞かれたくなくて、は誤魔化すように口付けを落とした。








「サクラ、ごめんね……ちょっと強行軍になるけど」

 翌日の夜、はサクラの背に跨ってひたすら南へと駆けていた。
 目指すのは、あの瀬戸内に似た海が見える小高い山だ。
 頂に小さな廟のようなものがあり、その路亭から見渡す海は、本当にかつて見た場所に似ていた。

 感傷は感傷として在り、自分を不甲斐なく思う気持ちも消えた訳ではないが、それでも尚隆や六太に心配を掛けているとなれば話は別だ。
 しばらくは寄り付かないようにしなければならない。
 だから、もう一度訪れて気持ちの整理をしようと、夜中にこっそりと抜け出してきたのだ。
 流石に夜明けまでに戻るのは到底不可能だろうが、急げば一日半で往復することが出来る。
 最近は仕事が溜まっていると言っていたから、上手くすれば尚隆に気付かれる前に戻れるかもしれないと思っていた。

 しばらく無言で駆けて、夜が明ける頃、ようやく目的の場所が見えてきた。
 しかし、高度を下げ、サクラを着地させたは、背後から掛かった声にびくりと肩を竦ませた。

「遅かったでは無いか」
「そうそう、俺たち待ちくたびれたぞ?」
「尚隆…! 六太まで…!?」

 目的の路亭に陣取って、持参したのか、酒やら菓子やらを広げている主従に、は大きく目を見開いた。
 抜け出す時に隣で寝ていた尚隆が、なぜ先に着いているのか――

「……たまととらを隠して来るべきでした」

 落ち着いてきた頭でようやく傍で横たわる趨虞を見つけると、はそう言って溜息をついた。
 吉量であるサクラよりも速い趨虞で、ここまで先回りしてきたのだろう。
 元忍として、その気配に気付かなかったのは不覚としか言いようが無い。
 しかし、それにしてもなぜ――……

「どうして、分かったんですか?」

 ここに来ることは、誰にも告げていなかった。
 六太の使令にも、見張られていなかった筈だ。
 先回りを許した自分に腹を立てていたが眉を寄せて問うと、尚隆と六太は顔を見合わせて笑った。

「愛しい妻の考えていることくらい分かる」
「俺たちの間で隠し事なんて、水臭いぞ。尚隆も入れてやるのは不服だが、俺たちは家族のようなもんだろ」
「家族――……」

 笑って差し出された二つの手に、は笑った。
 そして駆け寄って、その手を取り、勢い余って二人に抱きつく。

「――熱烈だな」
「お…おい、…?」

 はははと笑う尚隆と、照れる六太は対照的で、思わず微笑む。

「素敵な夫が二人も居て、私は果報者です」

 子ども扱いされることを厭う六太のことを思ってそう言い、二人の頬に口付けを贈ると、今度は六太が笑顔になり、尚隆が憮然とした。
 相変わらず対照的な二人に、は声を立てて笑う。

 これからも、時に自己嫌悪したり、時に過去に振り回されたりすることもあるだろう。
 三人ともの過去が過去だけに、相変わらず感傷に浸ることも、闇に侵食されることだってあるに違いない。
 けれど、は故郷から遠く離れたこの地で、確かな居場所を得た。
 尚隆と六太の居る場所――それが、の『家』だ。

「――――夜明けですね……綺麗……」

 きらきらと眩い陽が水平線の彼方から昇り、胸が痛いほどに懐かしの海を染め上げる。

「暁か……の色だな」
「雁を照らし……俺の古傷ごと包む光……か」

 六太の…尚隆の言葉に、は海を見つめたまま大きく目を瞠った。
 次第に涙でぼやけてきた海が、幸福と共に瞼に焼き付く。

「泣きたくなるくらい、幸せです」

 泣いているのは誤魔化せないので、言い訳のようにそう言えば、二人の手は乱暴な仕草で頭を撫でていった。
 ふふと微笑んで、は一つ深呼吸する。

 これから全ての時間と共に在る、幸せの光を見つめて――







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