暁の声 - 神楽の章9

 夜半過ぎに目覚めて、尚隆はかぶりを振った。
 愛しい…もう五十年も聞いていないあの声で呼ばれたような気がしたが、気のせいだろう。

「ふ…いよいよか。ついに幻聴まで……」

 そこまで呟いて、尚隆はその場に凍りついた。
 目の前の牀榻からが姿を消している。

「馬鹿な――」

 滑稽なくらいうろたえて、転がるように室を出る。
 人を呼ぼうとして、露台に何かの気配を感じた。
 そっと近づいて、そこにあった光景に、尚隆はようやくそれが夢であることに気が付いた。

 雲海にせり出した露台で、満月の月光を浴びていたのは、他でもないだった。
 しかも、最近尚隆が用意した金に映えそうだと思った暁色の襦裙を纏っている。
 それが金の月光を浴びて金の髪に照り返し、この世のものとは思えないほど美しいと思った。

 夢の中のは、尚隆に気付かないまま、暁の襦裙を揺らして舞を踊っていた。
 どこか懐かしく、神聖なそれは、舞う度に花開くような可憐さを持ちつつも、何かに挑むような凛々しさに満ちていた。

 やがて一通りが終わったのか、は動きを止めた。
 ほぅと息をついた尚隆にようやく気付いたのか、弾かれたように顔を上げる。

(ここで消えて、終わり……か)

 夢なのだから、良いところで目が覚めると相場は決まっていた。
 しかし、それでも今まで一番良い夢だったと思う――が消えてしまう悪夢とは比べるべくも無い。

「尚隆……」

 しかし、気が付けば暁を纏ったが目の前に居て、尚隆の名前を呼んだ。
 その…柔らかい響き………

「随分窶れ……ましたね。そんなに寂しかったですか…? 遅くなっちゃいましたけど――ただいま…です」

 照れたようにはにかんだその表情に、尚隆はくらりと揺れた体を必死に押し留めた。

「前言撤回だな、これは悪夢だ」

 夢の中で抱いたとて、現実に戻ったときに空しさが何倍にもなって押し寄せるに決まっている。そしてまた加速度を付けて狂っていくのだ。

「尚隆……?」
「――失せろ。夢など要らぬ」

 の目が傷付いたように見開かれた。
 勘弁してくれと尚隆は思う。
 狂気というのは、こんなにも尚隆の心を揺さぶるものなのだろうか。

「夢……? 尚隆は、私が戻ってきたことが悪夢だと……?」
「そんなに俺を弄んでおもしろいか!」
「人が……あんなに苦労して……恥をかなぐり捨ててでも戻ってきたのに……」
「夢の癖にその顔で文句を言うな!」

 それ以上はいたたまれず、振り切って背を向けた時だった。
 びゅん、と風圧が駆け抜けて、頬に痛みが走る。
 反射的に手を当てると、ぬるりと血の感触がした。

「……あら、この体は久しぶりですから、少し的を外してしまいました。本当は頭を狙っていたのに、残念ですね」

 条件反射でさっと青褪めた瞬間、ふわりと体が宙を舞った。
 そのまま背から落下して息が詰まり、投げられたのだと理解する。
 襟元をぐいと捕まれたまま、が腹の上に乗っていた。

 夢なのに、痛みがある――?

「これでも、まだ夢だと思いますか……?」

 ぽつりと、尚隆の顔に雫が落ちた。
 それは温かい――の涙だった。

「尚隆の莫迦! 莫迦殿っ!」

 ぽつぽつと落ちる涙は温かく、胸を叩く拳も、腹の上に乗る体も温かい。
 尚隆は目を瞠って、の腕を掴んだ。

「………夢では、無いのか?」
「違うって言ってるじゃないですか! 人の話も聞かないで、尚隆が勝手に………」

 尚も紡がれようとした言葉を尚隆は封じた。
 噛み付けるように口付けて、その熱さに震えた。

「んっ…尚隆………」

 口付けの合間に名を呼ばれ、それだけのことが信じられないほど尚隆を満たす。

――………」
「尚隆……尚隆………!」

 ただお互いの名前だけを連呼して、渇きを癒すかのように必死で抱き合った。
 温もりが、尚隆の心に巣食っていた狂気を祓っていく……

 雲海の水平線から登った朝日が腕の中のを染め、尚隆を呼ぶその声は、まるでその日の暁のように心を照らした。

 生まれ変わるとは、こういうことを言うのかもしれなかった。

 尚隆もも、六太も雁という国も、この日を境に新たに生まれ変わる――
 それは図らずしも、"やり直し"の朝であった。






06.8.8
CLAP