は、何が起きたのか分からなかった。
「よ、お前の覚悟を妾に――天に示してみや」
そう言われて、額を弾かれた。
そこで意識が途切れ……そして途切れたまま、はその場に佇んでいる。
「そんな……まさか………倭…?」
目の前に広がる海は、虚海のように暗くも、雁の内海のように黒くも青くも無かった。ただ、無色なそれは辺りの嵐と夜の色を映している。
何より、見覚えのあるその景色――
「、何をしている」
後ろから掛けられたその声に――びくりと震えて、はゆっくりと振り返った。
「兄…様……?」
そこには、記憶と寸分変わらぬ兄の姿があった。
片眉を上げて苦笑している。
「早く行かぬと、父上に叱られるぞ?」
「父様……?」
「? 本当にどうしたんだ? 精鋭集で初めてのお役目だから緊張しているのか?」
そこでようやく、見覚えのあるそこが最後にお役目で潜入した城であると――兄が裏切った大国の城であると気付いた。
何が何だか分からないまま、連れられるままに歩いていたを待っていたのは、兄の手に掛かって死んだはずの父だった。
(これは、夢……?)
は流された時に身に着けていた黒い忍装束を身に付け、忍刀を背負っていた。
懐のクナイも、冬器では無い。
騎獣のサクラの気配も感じられない。
(それとも、今までが夢だったの……?)
そのまま任務は滞り無く進められ、兄の裏切りも無く、父も傷一つ負う事無く、無事に役目は終了した。
は投げ出される筈だった嵐の海を通り過ぎ、自国の里に戻る。
里の忍の働きもあって、小さな自国は、近隣の小国と同盟を結ぶことによって戦を逃れることが出来た。
夢現のままかつての忍としての日常を過ごし、平和に数年が経った頃――
はお役目で瀬戸内の国へと来ていた。
今は村上の領地となった海辺に佇み、ぽつりと言葉を落とす。
「尚隆……」
――――
今まで、何百回も何千回も呼んだ名……思い出した声だった。
けれど、この時は違っていた。
記憶の中でを呼ぶその声が、耳元で呼ばれたように鮮明に頭に響く。
「流石は俺の妻――」
西王母の前で言われたこの言葉が、どれほど嬉しく、誇らしかったか。
想いを貫き通す為にと、女神の前で畏怖と戦いながら張っていた虚勢が、本物になった瞬間だった。
「が傍に無ければ、俺は忽ち天命を失うだろう」
ははっとして思考を止めた。
今までも、帰りたいと思うことはあったが、夢と現の境界が曖昧で、まして頭に霧がかかったようにその判別がつかなかった。
けれど、今にして強く思う。
「――帰らなきゃ」
が居る場所はここではない。
はっきりと思い出した……思い知った。
夢でも現でもどちらでも構わない。
ただ、が在りたいのは、尚隆の傍なのだ。傍にいなければ、お互いに生きていけないのだから。
「帰りたい……今すぐに……尚隆」
日本に戻ってから初めて、は涙を落とした。
潤んだ視界で、小松の海が消えていく……は再び、意識を失った。
「……………斎暁院…?」
次に気が付いたのは、慶の斎暁院だった。
朽ちかけたこの離宮を復興したのはだったので、細かな装飾などから見間違うはずは無い。
「――? どうかしたかい?」
「…………主上」
故国の父のことがあったので、今度はさほど驚かなかった。
目の前に佇む達王は穏やかに笑っており、その瞳にはかつて見え隠れしていた狂気の色が見当たらない。
(過去を、やり直している――?)
思わずにはいられなかった。
裏切らなかった兄、殺されなかった父、道を踏み外さなかった達王――
どれも、の心に後悔として残っている傷ばかりだった。
西王母は、覚悟を示せと言った。
過ぎ去った……二度と戻らない筈の過去をやり直して、何を示せというのだろうか。
「? ちょっとこれを手伝ってくれないか?」
「はい、主上――」
考えて、首を振った。
もうここで目が覚めてひと月――何度も考えて答えの出なかった問いだ。
「考えても分かんない時は考えるだけ無駄よね」
――「何が分からんのだ?」
かつてのやり取りと同じく、尚隆の声が聞こえた気がした。
は苦く笑う。
やり直しの時は、あっという間に過ぎ去っていく。
毎日尚隆のことを強く考えているのに、何事も起こらぬまま……平和に達王の政務を手助けしながら二十年が過ぎようとしていた。
こうしている間にも、尚隆はどうしているだろうと焦燥に駆られる。
が戻ったとき、天命を失って倒れていたりしたら――……そう考えるだけで、心が凍った。
「そうか、戻る――戻らなきゃならないんですね、西王母」
後悔した地点に戻り、後悔しないようにやり直して、そして訪れた穏やかな時に埋もれず……痛いほどのその誘惑に負けずに、覚悟を示さねばならない。
こうして目の前で幸福そうに微笑みかけてくれる達王を見ていれば、かつて心の全てを注いだ分、それを振り切っていくのはひどく辛いことに思われた。
けれど、そうしなければ尚隆には会うことが出来ない。
仮に二度と尚隆に会わないと考えてみて、息も出来ない自分に気付いた。
どうするべきかは、明らかである。
しかし、そうこうしている内に動きが無いまま三十年が過ぎ、は痺れを切らして達王の正寝を訪ねた。
「おや、――夜這い、という訳では無さそうだね」
「……違います。主上、水禺刀を見せていただけませんか?」
達王の言にちらりと笑い、はさらりと言った。
言われた達王の方は僅かに目を見開く。やり直しの世界では水禺刀のことを聞いたことが無かったので、当然だった。
だが、並外れた呪力を持ったこの方なら――そう思ったのだ。
やがて手渡された宝刀を達王に手を添えてもらって一気に抜くと、刃に燐光が宿って、今から五百年ほど未来の光景が映し出された。
西王母と対面する……一連の会話。達王が天から隠しとおしたというの戸籍。
「これは………」
「教えてください、主上……私は帰らねば……いえ、帰りたいのです。一刻も早く――五百年先に居る愛しい人の元へ」
全てを了解したような達王が切ない笑みを浮かべた直後、パリンと音を立てて、世界が割れた。
「尚隆――!」
必死に呼んで、また時を越える。
悔いたことを、やり直す。
どんな些細なことでも、が後悔したことをちびちびとやり直して進んでいく。
利広と出会い、更夜と出会い、範の主従と出会った頃……ようやく五百年の半分ほどを過ぎたところで、は――キレた。
「ふふふ……自分の人生が、どれだけ後悔まみれか良く分かりました」
そもそも、後悔の無い人生なんて楽しいのかと開き直る。
そしてこの頃になるとは悟っていた。
覚悟を示せと言った西王母。
その言葉ぶりだと、畢竟、示せた暁にはの望みを叶えてくれるということになる。
しかし、の望みをまかり通すには、天の摂理を変えねばならない。
条理を創り直すだけの対価――
長い人生をやり直すことで、見えてくる物事の側面――世界の別の顔。
それらを吸収した上で、に求めているのだ。
条理を変えた世界で、新たな条理を定着せしめよ――と。
「臨むところです、西王母……玉京の方々」
何度やり直したところで、という人間にとってそれはささやかな進歩しか生み出さない。なぜなら、いつだって自分なりに精一杯生きてきたからだ。
それならば、やることは決まっていた。
「もういいです……結構です。私が成すべきことは、全て未来に――本来の時間にこそ在るものばかり。愚かな過去の自分が悔いた出来事をやり直している暇などありません!」
意識を失ったままの世界で、は全速力で駆け出す。
足元で、一度過ごした筈の時間が次々に流れていく。
「少しでも早く……今すぐに! もう我慢の限界です! 尚隆に会わなければ、死んでしまいます!」
くつり、と誰かの笑い声が聞こえた気がした。
足元を、残りの半生が急流のように流れていく。
陽子や楽俊との出会い、赤王朝の金波宮での生活、尚隆との出会い――尚隆と心通わせる切欠になった霧枳の事件――そして………
「尚隆――!」
叫んで、は駆け抜ける。
待っている、愛しい人を目指して。
06.8.6