現実でもやり直しの世界で過ごしたのと同じくらいの時間――五十年間ほど眠っていたらしいは、目が覚めて以来の怒涛の日々を思い返して溜息をついた。
その日々を乗り越えて三ヶ月経った今日――ようやくは、雁の『王后』となる。
「なんだ、感動しておるのか?」
傍らで、王の正装・大裘に身を包んだ尚隆が問い掛けてくる。
それに見劣りしない派手な正装を纏ったは苦笑した。
「いよいよ逃げられないな、と思っただけです。やり直しの中で優しい達王を袖にしてしまったのは勿体無かったかな、とか」
「なに?」
おもしろい程に反応を示した尚隆に笑い、はその手を引いた。
「あっ、ほら、出番ですよ!」
「こら、待て! 今のは――」
笑いながら、はこの三ヶ月を思い出していた。
最も大変だったのは、なんと言っても初日である。
が目を覚ましたのは、深夜半過ぎだった。
そこから尚隆と牀榻に篭り、お互いの時間を埋めるように求め合って……恥ずかしいことに、ようやく眠ったのは一昼夜明けた後の翌日の朝方。
疲れ果ててぐっすり熟睡していた所の昼過ぎに、バタバタという騒がしい足音と共に牀榻に飛び込んできたのは、六太と陽子だった。
も尚隆も、普段なら近づく気配で目が覚める筈だが、共に深く寝入っていたので、目が覚めたのは不覚にも二人の悲鳴によってであった。
裸で抱き合っている所を目撃され――しかも寝屋は、何と言うか非常に乱れていた――は人生で一番恥ずかしい思いをした。
すぐにやり直しの世界に戻って消しさりたいくらいである。
「、おかえり…!」
仕切りなおしとばかりに身支度を整えた後の再会で、六太はそう言って泣きながら抱きついてきた。
尚隆からは終ぞ聞けなかった言葉でもあったので、は嬉しくて強く抱き返した。
その後に、どうして陽子がいるのかという話になって、陽子は動揺の残る顔で説明してくれた。
前日の政務中、陽子は以前作ろうとしたの戸籍の書面を眺めていた。
今までも何度かしたことがあるように、そこに御璽をぽんと押して押せないことに落胆する――それを繰り返そうとしていたらしい。
しかしその日、溜息をつきながら押した御璽を上げると、くっきりと景王御璽が押されていた。
驚きの余り凝視することしばし――その意味を解した陽子は、書面を握り締めて景麒の使令を呼びつけると、取るものも取りあえずその足で雁へ飛んできたという。
金波宮でのその光景が容易に想像できてしまい、は申し訳ないやら相変わらずの陽子がおかしいやらで、複雑な気分だった。
その後、その場で慶の戸籍からは削除――雁の籍に移し変えられ、その日の内に三公太傳に叙され、仙籍に入った。
しばらくは静養しろと部屋に押し込められたのは不満だったが、数日後に利広がふらりと現れて、各国の現状を教えてくれた。
この五十年の間に倒れた国は無し――空位であった国も、新王が起って復興しているという。
芳には月渓が正式な天勅を受けて登極し、巧は新王が起って太師の南鵜は朝廷を辞し、市井で天寿を全うしたと聞いた。
戴は正統な王が見つけられて偽王を退けた。
それらの嬉しい報の中で、一番愕然としたのは、自国――雁のことであった。
大国の名残を留めたままじわじわと沈みいく雁には今、病が蔓延しているという。
延麒失道も間近だったと聞かされ、言葉を失った。
「六太――体は大丈夫なの…?」
「聞いたのか……」
問えば、六太は苦い顔をした。
「今はぜーんぜん平気。むしろ冗談みたいに元気なんだ。だけど――ごめんな。が居ない間、絶対待ってようって決めたのに、俺じゃ尚隆を止められなかった。そのせいで、随分国も荒れて、民が犠牲になった」
麒麟の性によって胸を痛めている六太を、は抱きしめた。
「六太だけのせいじゃない。そもそも私が原因だもの……天に啖呵切ってまで最速で帰ってきたつもりだけど、私の遅れた分だけ、民を傷つけた――すみません、六太。これから、私も至らないけど頑張りますから……だから、一緒に国を立て直してください――台輔」
「天に啖呵って……はは、らしいよ、全く」
笑って、六太は手を差し出した。
「よろしく頼む、王后」
しっかり頷いて、もその手を取った。
尚隆の半身である麒麟は、の半身でもある。もはや三人で誰か一人欠けても一蓮托生だ。
そう言えば、六太は複雑な表情になってを笑わせた。
仙籍に入ったことで外出禁止が解けたは、お世話になった国々、見舞いに来てくれた人々の元へ、挨拶回りをしていった。
髪を隠さないまま、雁の王后として堂々と他国の宮に出入する。
髪には殊更敏感だった頃のを知っている利広や、逆に金髪だと知らなかった月渓らに驚かれたりもしたが、初対面の人々も含め、皆快く出迎えてくれた。
巧の翠篁宮ではの顔を知っている者も多く、その正体を知って複雑な顔をする者も居たが、新王はおっとりとした柔和な女性で寧州の州宰を務めていた人物だった為、霧枳の乱を止められなくて申し訳なかったと逆にに深々と頭を下げたほどだった。
そして、蓬山では――
以前と同じように雲海の上で出迎えた玉葉が、西王母からの伝言を携えていた。
「天理未だ定まらず。天命と違わぬものぞ知れ」
はやや目を瞠って、対面叶わぬ西王母に深く礼を取った。
「碧霞玄君、どうか西王母にお伝えください――ありがとうございました、と。そして、必ずやご期待を超えるだけの想いを貫いてご覧にいれます――と」
「………つくづく俄かには信じられません。これ、本当に尚隆が……?」
「正しくはほとんど、だな。氾も幾らか持ち込んでおった。………改めてみると、我ながら節操が無いが」
部屋に溢れた色とりどりの装飾品を眺めながらの会話である。
付きの女御・香扇から、尚隆が自ら意匠を考えて細々と冬官に指示し、頻繁に作らせてはこの部屋へ贈っていたと聞かされた時は、出来の悪い冗談だと疑わなかったものだ。
しかし、それが真実であると……その上、一日の大半を死体と変わらないの元で過ごしていたと聞いて、再会した時の尚隆の様子に納得がいった。
「狂っておったからな」
「ただいまと言った私を悪夢だと呼ぶくらいに?」
「……だから、それは悪かったと………」
弱り果てたように眉を下げた尚隆を、は抱きしめた。
この輝くほどに強い人が、たかが自分と言う存在のせいで狂うなどと、信じられない。あれだけ国を思い、民を思い、王であることに全てを注いでいた尚隆が――
しかしそれと同時に湧き上がる愛しさはどうしようも無かった。
「不謹慎ですが……狂うほど想われていると言われて、喜ばぬ女子はいません」
尚隆は呆れたように笑って、を抱き返した。
「次第にお前が悪女に見えてきたぞ。傾国の美姫にでもなるつもりか?」
「美姫……? それは私には荷が重すぎるようです」
冗談だと思って笑ったのに、尚隆は真面目な顔で臆面も無く言ってのけた。
「そうか? 俺は十分美しいと思うが………お前が目を覚ました晩、露台で何やら舞っておっただろう。見たことの無い舞だったが、かぐやと見紛うほどの美しさに思わず見惚れた。夢だと思ったのは、そのせいでもあるな」
「それは……すみません」
恥ずかしすぎて取り敢えず謝ったに、あの舞は何だったのかと尚隆が問い掛けた。
「あれは、神楽(かぐら)です。倭では一応長の娘として巫女の真似事もやらされておりましたので……こちらのものと掛け合わせた、勝手な創作ですけど」
五十年ぶりに現実で目が覚めた時、会いたくて堪らなかった尚隆は、牀榻の傍らに伏して眠っていた。
顔色が悪く、窶れた印象を受け、起こすのは忍びないと抱きつきそうな心をぐっと堪えた。
牀榻から出て起居に入ると、色とりどりの衣裳が風に揺れていた。
その内で一際目に付いたものを手に取った時、ふと舞を踊りたくなった。
西王母を初めとした天に捧げる、覚悟を示す奉納の神楽を――
「天理未だ定まらず。天命と違わぬものぞ知れ」
ふと、西王母の言を紡いだ尚隆は、に問い掛けた。
「どういう意味だ?」
「――――私への天綱でしょうか」
天の条理は動いた――がそのままで仙籍に入れたということは、恐らくは、金を禁色では無くしたのだろう。
だが、その天の理は、まだ確実に定まった訳ではないのだと。
そしてその理を常世に定着させるという役目がには課せられた――それを怠れば、王に対する天命と同じく条理は失われるのだと。
「今後、私のように異国の血故に世界から弾かれる人間を無くす為に、私にもお役目が与えられたということです」
「………それで積極的に王后と名乗るようになったのか」
落胆したような尚隆の言葉に苦笑する。
金色が麒麟だけの禁色では無いと――そういう人間も居るのだと世界に知らしめることが、の役目。
実際それには、延王后という地位はうってつけだったのだ。
やがて朱旋で演じられる物語にでもなれば、新たな条理は世界に浸透していくだろう。
雁の王后が金の髪をしている人間だと知れわたるだけでも、十分な効果がある。
「不満ですか? 尚隆は、私が条理を失わないように――ずっと尚隆の傍に居る為に努力するのは、気に入りませんか…?」
「………お前、性格が悪くなったのではないか?」
「ひどい」
くすくすと笑って、は自ら尚隆に口付けた。
「尚隆が呆けていた五十年分、ちゃんと成長しただけです」
「………どこでこんな悪いことを覚えてきた?」
「どこでも。ずっと尚隆のことを考えていましたから、きっと歯止めが利かないのです」
「利かせなくとも良いぞ?」
「ご冗談を」
にこりと笑って、は尚隆の目の前に書簡の山を積んだ。
「今は、国を立て直すのが一番の急務。私が条理を失わずとも、尚隆が天命を失っては元も子もありませんから」
私の為にも頑張ってください――そう言えば、いつも尚隆は苦い顔をしながらも筆を取った。
それに微笑みながら、も傍らで手伝う。
そんな日常を見て、六太や陽子が苦笑しているのも知っていたが、恥ずかしくても幸せなので、は深く考えないようにしていた。
そして、ようやく、正式な王后として起つ日が来たのだ。
「もういい加減に覚悟は決めただろうな、?」
宮中での叙位式を終え、二人は正殿へと移動していた。
の役目の為にも、即位式のように一般の参賀を受ければ良いと言い出したのは尚隆だった。
即日国中に触れが出され、この日、正殿前は多くの人でごった返していた。
落日の中に差した暁――いつしか、民の間でのことをそう呼ぶようになったという――を一目見ようという国民で溢れ返っている。
その例えは、斎暁院からも来ているのだろうか。
それとも、髪の色だろうか。
暁の王后、暁后などとも言われるらしく、何やら気恥ずかしい。
「それとも、我が暁は、まだ俺を苛めるつもりか?」
顔を覗きこまれて、は笑った。
「覚悟――では、お見せしましょう」
一般の参賀の始めに、は雁の国母として、神への舞を――神楽を奉納することになっていた。
名実共に延王尚隆の后として、雁と条理を支えていくことを誓う、証の舞――
「尚隆を想って舞います。篤とご覧あれ」
冗談めかしに微笑みかけて、は壇上へと上がった。
一段近くなった天を仰いで、腕を上げ、音に乗せて最初の拍子を踏む。
動くに合わせて金の髪が舞い上がり、の心も天地に溶けていく。
過去に惑わされず、世界に乱されず、現在と未来こそを生き抜く覚悟。
どんなことがあっても――いつか本物の狂気に呑まれる日が来ても、最期まで尚隆の傍に在り続ける覚悟。
尚隆を愛する――この想いを貫き通し、心を捧げる覚悟。
「確かにここに在る想い――これをもって、覚悟と為します」
紡がれた言葉は、風に乗って天へと舞い上がり、地へと降り注ぐ。
暁の声は、愛しい者への想いに染まり、永く天地を照らしていた――
了
06.8.9
長編にお付き合い頂き、本当にありがとうございました!