玉葉は、呆然としてその成り行きを見守っていた。
禁色の髪を持つ海客――。
存在は、玉葉も知っていた。
彼女の生い立ちや、達王の呪で隠されていた慶の飛仙であった頃のことは分からないが、慶の籍から抜けて以後の遍歴は知っている。
なぜなら、それによっての存在を知った玉京が、その同行に気を留めていたからだ。
玉葉は天に属しながらも、長年地との窓口を務め、自分が情に脆いという自覚はあった。
という娘にしても、個人的には好意を感じたし、心情的には力になってやりたかったが、天の代弁者としてそれは出来ない相談だった。
ただ、天の摂理を述べることしか出来ない自分――それはいつものことだったが、それにも関わらず、玉葉はたかが五百年生きた人間の想いの深さに言葉を失った……呑まれた、と言っても良いだろう。
その時、不意に西王母に召喚され、驚きを隠せなかった。
玉葉でもよっぽどで無いと目通り出来ず、まして自ら人間の前に姿を現したことなど皆無の西王母が、招かれざる人間を呼んだのである。
そこからは驚きの連続だった。
想いの強さ故か、は西王母の前で一歩も怯まなかった。
流石は、あの勇猛果敢にして飄々とした延王が伴侶に選んだ娘だけはあると感心した。
しかし、天の条理が動かないと断言され、は間違いなく暴言といえる発言をした。
思わず止めようとした玉葉だったが、あろうことか西王母自身がそれを許した。
延王までが大胆な発言をした時には、一国の命運を思って肝も冷えたが、その時になって玉葉はようやく、西王母がいつに無く憂えていることに気が付いた。
人間に情など持たないはずの女神(にょしん)が、招かれざる者の心を憂い、苦しんでいる――
「雁の王よ、がお前を想う心は強く、覚悟は本物――故に、試練を受け、示さねばならぬ」
玉葉は悟った。
西王母は、条理を動かす気なのだと。
が流されてこなければ、
尚隆と出会わなければ、
これほど想いを傾けなければ、
想い故の覚悟が本物でなければ、
西王母が心を動かせられなければ―――
どれか一つでも欠けていたならば、成立しえなかったこと。
条理を動かすことは、即ち天の玉京を動かすこと。
それにはそれなりの代償と説得材料が必要になり、それ故には試練を受けなければならなかった。
試練の具体的な内容は、玉葉にも分かりかねるし、西王母も答えを持たない。
の魂が旅立った瞬間、延王のあんな姿を、玉葉は初めて見た。
後日、彼の麒麟である延麒六太が訪ねて来て言っていた。
雁に居ても、あの瞬間の尚隆の叫びが聞こえたと。
それほどの執着、それほどの慟哭――
しかし、愛しい半身をもがれた彼も、そして六太も玉葉も、西王母も。
出来るのは、ただ待つことだけだった。
試練に旅立ったの魂が帰還するのを、ただ祈るような心地で待つことしか出来ない。
そうして日々が過ぎて、間も無く五十年の歳月が流れる――
雁は、緩やかに沈み行こうとしていた。
――狂っている。
自覚したのは、いつからだっただろうか。
延王尚隆は、雲海を臨む露台に腰掛け、ぼんやりと波を見つめていた。
最近、こうして何も考えない時間が多い。
その代わり、宮を空けることは極端に減った。
「――――五十年……よく持った方か」
呟いて、室内に足を向けた。
五十年間何度もそうしたように、北宮の一室にある牀榻に足を向ける。
「……」
そこには、西王母の前で倒れた時と何一つ変わらないが横たわっていた。
相変わらず、血の気は無く、体温も無く、脈も呼吸も無い。
死体と同じである――けれど、腐ることも無くただそこに在る。
あの後――西王母が姿を消した後、どうやって戻ってきたのか、尚隆は全く覚えていなかった。
気が付けば、冷たいを抱えて禁門に降り立っていた。
色を失くした六太や朱衡たちが掛け付けて来て、を見るや否や六太が卒倒した。
それにつられたのか尚隆自身も倒れたらしく、その辺りの記憶は曖昧だ。
それからは、ひたすら空虚な日々だった。
しばらくは何も手につかず、数日を動かないを見て過ごした。
ろくに説明もしない尚隆に焦れて六太が蓬山へ赴き、玉葉から詳細を聞いてきたのだろう。
が試練とやらを必死に終えて戻って来た時に、肝心の尚隆が倒れていたらどう言い訳するつもりだと諌められ、それもそうだと納得した。
それからようやく政務に戻り、気力が無いままも朱衡たちにせっつかれて最低限の執務はこなしていた。
だが、そんな状態で大国となった雁の状態を保てるべくも無い。
荒廃は、緩やかだった。
民の誰もが気付かぬほど、緩やかに雁は沈んでいっている。
それに伴って、麒麟である六太もほんの少しずつ体調を崩していった。
まだ政務も執れるようだが、もういくらかすれば失道の報が入るのではないかと他人事のように思う。
尚隆自身、王として非道を行っている訳ではなかったが、日に日に何も考えられない時間が増えている。それは政から離れる時間を指しており、その分、天意が目減りしていく。
五十年前から、ちょくちょく後宮に訪れる奏の風来坊が言っていた。
「こんな例は私も見たことが無いよ。普通の国が1~2年で沈む距離を、雁は何十年も掛けている。全く、変わり者の延王らしい」
全く同感だと返して笑った。
まだ様々な国で利広とかち合っていた頃は、自分でも、まさかこんな沈み方をするとは夢にも思っていなかった。
どこからどう広まったのか、利広の他にも、様々な国から見舞いの客は絶えなかった。
陽子を初めとした金波宮の面々は度々訪れるし、元州の乱から一度も戻っていなかった更夜までが訪れて六太を唖然とさせていた。
そしてその中でも、を気に入っていた氾王は来る度に色とりどりの襦裙や装飾品を持参した。
に似合うものをとわざわざ冬官に作らせたという品々は、王后の正装としても見劣りしない逸品ばかりで、なるほどにも似合いそうなものばかりだった。
それらが似合いそうだと思考している間は、のことを穏やかに考えられることに気付き、いつ頃からか尚隆も様々なものを冬官に依頼した。
お陰で今では、収納しきれなくなったそれらの衣裳・装飾品が、北宮の牀榻に続く起居に溢れ、色とりどりの色彩が舞う衣裳部屋のような様相を呈していた。
「――」
いつものように呼びかけ、冷たい唇に触れるだけの口付けを落とす。
その度に胸が軋んで闇に一段近づいたような錯覚を起こす。
碧霞玄君・玉葉が言ったという。
の想いが深い故に、それが西王母を動かしたが故に、は試練を受けねばならないのだと。
試練とは何かという問いには答えられないようだった。
魂だけがそれを受けるために体から抜け出たということだったが、それでは今この時、はどうしているのだろうかと思う。
試練と言うからには、大変な想いをしなければならないのだろう。
辛いそこに一人で立ち向かっているのかと思うと、尚隆は身が裂かれるようだった。
泣いているのではないか、傷付いているのではないか。
出来れば変わってやりたい。
それでも、尚隆に出来るのは、いつか目覚めるかもしれないをただゆっくりと狂いながら待つことだけだった。
「……早く起きぬと、浮気してしまうぞ?」
言ってすぐに自嘲する。
かつては、尚隆にどこの妓楼に行くのかと言って悋気を見せたことがあった。
全く馬鹿だと思う。愛しい女をこの手に抱いているのに、他の女を欲するはずが無い。
以外は目に入らないというのに、不安だと言って可愛い表情を見せる。
「……馬鹿は、俺か」
なぜ、その時にもっと言葉を与えてやらなかったのか。想いを伝えてやらなかったのか。
どうして、蓬山などへ行ったのか。
誰が悪いわけでも無く、後悔も無いと思う。それでも、時折そうやって過去を悔やむ念が沸き起こる。
様々なことが痛くてたまらない。
無力な自分。無意味な時間。無駄な足掻き。無関心の国。王に捨てられた哀れな国――
はっと我に返って、尚隆は顔を覆った。
「」
ただ、その名を呼ぶ。
何度も、何度も、想いを込めて。
狂う自分を繋ぎとめる唯一の光を求めて――
「――」
06.8.4