暁の声 - 神楽の章6

 ――ちりん…ちりん…

 高く澄んだ鈴のような音が室に響き渡る。
 尚隆はかつて、一度だけその音を聞いたことがあった。
 今のように大反響していた訳でもなく、場所も雲海の上であったが、なぜか一度聞いただけですぐに記憶に甦るその音――

「王母――!」

 玉葉が驚いて立ち上がったのとほぼ時を同じくして、気が付けば目の前には以前見た大瀑布が轟音を立てていた。
 水煙のけぶる玉座の一方に、以前と全く同じように表情の無い女神(にょしん)が腰掛けている。

「王母……西王母………?」

 の小さな呟きが聞こえたが、慌てて礼を取った玉葉に倣って尚隆とも跪礼した。

「招かれざる娘」

 唐突に掛けられた相変わらず無機質な言葉に、の体がぴくりと震えた。
 しかしすぐに顔を上げて、気丈に言葉を返す。

「私のことでございましょうか、西王母。拝謁至極に存じます。と申します」

 前回――蓬莱から連れ帰った病んだ泰麒を運んできた時とは、全く状況が異なっていた。
 あの時は、自分の手に負えないと判断した玉葉が、西王母の助力を乞うて、対面を求めた。
 しかし、今回は全くの予想外である。玉葉にしてもそれは同じ。現に脇に退き、頭を垂れたままただ控えている。
 西王母が、呼び寄せたのだ――――を。

「天には、地と同じように、天の理がある。だが、蝕はそのどちらにも関与せぬ」

 唐突な言葉は、ただ淡々と事実を紡ぐ。

――お前は、自らが招かれざる者だと自覚があるか」
「――私が条理の関与しない蝕によって流された海客で、本来この世界にあってはならない色彩を持っているから――そういうことでございますか」

 こちらは感情を抑えたように淡々と語られるの言葉に、尚隆の胸が痛んだ。
 は遠い故国でも、異人として虐げられていた筈だ。
 異国の血を引いているのは、の罪では無い――それなのに、今またこの世界でもそれ故に存在を否定される。

「蝕は――蓬莱と崑崙との界が交わる現象は、玉京にも如何とし難いもの。それ故に、麒麟の持つ唯一無二の色彩を、双方の民が持たぬものと定めた」

 それが、金色だったのだろう。
 が蓬莱の地で、持って生まれた色彩。

「本来は、その禁色を持つ人間は流れ着かぬ筈――だが関与せぬ事象によって稀に渡ることがある。天の理は、この招かれざる存在を認めぬ」

 認めないから、戸籍も作ることが出来ない――そういうことなのだろうか。

「……ですが私は、この五百年間、慶で仙籍に身を置いておりました」
「お前を呼んだは、そこじゃ」

 西王母が言うや否や、水煙から一つの球体が浮遊したまま飛来し、の目の前で止まった。
 透明の玉の中に、何やら書簡が映っている。
 そこには、の名と、卿伯の位、そして斎暁院の文字が並んでいた。

「慶の仙籍簿か――」

 尚隆の呟きに、がはっとしてそれを見つめる。
 五百年前、達王が叙したその官位――

「特殊な呪がかかっておる。時の景王は、よほど徳高い力を持っていたようだ。永い時を、よくも玉京から隠しおおせたものよ」
「あの方が………」

 絶句したの前から玉が消える。
 西王母の言は淡々と続いた。

「あの籍から動かねば効力は続いたようだが、削られた時点で天も知った。再びの目零しは無い」

 しん、とその場が静まった。
 一瞬、瀑布の音も遠くなったようだった。
 しかし、それを裂いたのは、凛としたの声だった。

「恐れながら西王母――聞くところによりますれば、近年では蓬莱も崑崙も、異人の……禁色を持つ者との混血も増え、また交流も頻繁になっているといいます。今後、蝕によってそういった者たちが流される頻度も増えるのでは」

「不本意ではあるが、詮無きこと。禁色を認められぬという条理は動かぬ。籍はどこの国にも属すること適わぬが、仮の籍ならば問題ない。黄海に住む者は皆そのような者ばかり。あれなれば、蝕と同じく天地の関与外の地――お前もそこに住まうがよかろう」

(勝手な言い草だ――)
「勝手な言い草にございます、西王母」

 心中で唾棄した台詞と全く同じことを言ったに、尚隆は目を見張った。
 玉葉も驚いて顔を上げる。
 ただ西王母との表情だけが変わらず、お互いを見据えていた。

「天の予想外で歓迎できない人間だから、一人の人間として十二国のどこにも迎え入れぬと仰いますか。仮の籍しか認めぬと――人とは認めぬと? ならば、蓬莱・崑崙からも弾かれた人間は、どこからも弾かれることになります。それは、仁道に反するのでは無いのですか。理に反するのでは?」

――」

 堪らず嗜めようとした玉葉を、西王母が片手を上げて制した。
 それは、尚隆が初めて見た表情以外の西王母の動作だった。

「今後、禁色を持った者が流れ着く可能性が増えるならば……それが天には関与できないことならば、禁色を廃せば良いのではないですか?」
「――――ならぬ。条理は動かぬ」
「なれば、自ら禁色を捨てるのではいかがです。髪を剃るか、染めるのでは?」
「ならぬ。火種は見過ごせぬ。お前も巧で和を乱したことを忘れたわけではなかろう」

 やはり、西王母は巧で起こった一連の出来事も把握しているらしい。
 はあのことを気に病んでいた。
 尚隆の求愛にも、まさに自分が火種になることをずっと懸念していた。
 そこを突かれて挫けるのではないかという尚隆の心配は、しかし杞憂だったようだ。
 隣に跪く瞳は、辛そうに歪められはしたものの、光は揺らがなかった。

「あれはまさに私の不徳の至り――ですが、私は呪で髪の色を変えることが出来ます。他の禁色を持つ者にも、そういった呪が働くようにするというのはいかがでございますか」
「――――くどい。条理は、動かぬ」

 ぴくりと西王母の眉が上がり、ゆっくりとその言は紡がれた。
 勘気とも取れるその言葉に、は何を思ったか、跪拝を正座に変え、その場に三つ指をついた。
 西王母にも、玉葉にも分からないだろうが、生まれ育った蓬莱での真摯を貫くときの自然な姿勢――

「それでも、私も譲れない想いがあるからここに参りました。私が在るべき場所は、既に定まっております」

 そのどこまでも真っ直ぐな物言いに、尚隆は思わず声を上げて笑った。
 こんなに気分が高揚したのは初めてだった。
 これで惚れ直すのは何度目だと思うと自然に口の端が弛む。

「流石は俺の妻――天晴れだぞ、

 絶句する玉葉を尻目に、尚隆もその場に胡坐をかき、両の拳を床に付いた。

「西王母――延王としても言わせていただこう。脅迫する訳ではないが、このが傍に無ければ、俺は忽ち天命を失うだろう。天にとってはすぐに次の王が起って何ら問題無いのかもしれぬが、命を落とす何万という民――防げるものならば防いだ方がよかろう」

 真っ直ぐに見つめたと尚隆に視線を投げ、西王母は重い口を動かすかのようにゆっくりと言った。

「――――覚悟は如何ほどか」

「私にはかけられるものは何もございませんが……例え、天に背いたとしても、譲れない想いにございます。私の存在は、どちらの世界からも弾かれた曖昧なもの――けれど、この想いだけは、確固としてここに在ると断言できます」

 はっきりと即答したに、西王母の目が細められた。
 そのままの瞳を見つめて微動だにしない。

 どれくらい経っただろうか――実際には僅かな時間だったかもしれないが、瞳から内実を推し量ろうという視線が不意に途切れた。

よ、お前の覚悟を妾に――天に示してみや」

 つい、と西王母の片手が上げられ、に向けて弾指する仕草を取った。
 遠く離れた場所にあったが額を弾かれたようによろめき、その体が後ろに傾く。

!」

 思わずその体を抱き留めた尚隆は、冷たいその感触にぎくりとした。

……? っ!!」

 恐る恐る手を当てた首元からは、脈が感じられない。
 呼吸が……止まっている。

「西王母っ……!!!!」

 自分でも驚くほどの焦燥感は、怒りとなって玉座の西王母へと向かう。
 殺気にも近いものを込めて睨んだその先で、西王母はついと立ち上がった。
 相変わらず無表情だったが、その瞳が哀切を湛えているような気がして尚隆は目を瞠った。

「体も心も、死んではおらぬ。雁の王よ、がお前を想う心は強く、覚悟は本物――故に、試練を受け、示さねばならぬ」
「試練……?」
「既に魂は旅立った。無事戻れば、体も心も動き出そう」
「……戻らない時は……?」

 答えを聞くのがこんなに怖いことは無かった。
 体が震えているのに気付いたが、どうしようも出来ないまま西王母は尚隆に告げる。

「――妾が出来るのは、これが限度じゃ」

 瞬きをする間に、気が付けば、元の蓬山の宮に戻っていた。
 卓の上に出された茶の湯気もそのまま――ただ、だけが死人のように冷たく、動かない。

「………延王、急ぎ室を調えさせる故、本日は泊まっていかれるがよろしかろう」

 玉葉の言葉も、尚隆の耳にはほとんど届かなかった。
 ただ、を繋ぎとめるように――強くその体を抱きしめていた。






06.8.02
CLAP