暁の声 - 神楽の章5

「黄海に入ったことは?」

 騎獣に乗って黄海の上空に入ってすぐ、はそう問われた。
 問い掛けた尚隆に逆に問い返してみると、「流石に門から入ったことは無い」と返されて、安堵して良いのかどうか判別に迷った。
 門からでなければ入ってうろついたことがあるという意味なのだろう。
 王でなければ度々足を運んでいそうでもある。
 黄海は、真実条理も摂理も無い世界――仙籍にあろうが、命の危険性は大して変わらない。
 は溜息を堪えて質問に答えた。

「十年くらいでしょうか」
「十年?」
「はい。黄朱の民に混じって里で生活していました」

 驚いた尚隆の表情を確認して、予想通りのそれに笑う。

 尚隆が驚くのも無理は無かった。
 黄海で暮らす黄朱の民は、元は内海沿いを移動しながら生活していたが、数百年前に犬狼真君によって里木が与えられ、そのお陰で黄海の中にも安息の里を作って定住出来るようになった。
 だが、黄朱以外の者がその里木に触れると枯れてしまう為、里は厳重に秘されている。
 そこで暮らしていたというのだから、驚かれても無理は無いだろう。

「何か騎獣が欲しくて、門から入ったんですけど、妖魔にやられた怪我が元で行き倒れてしまって………」

 尚隆が渋面になったのを察して、はすぐに言葉を継いだ。
 あの頃は我ながら無茶をしていたと思うので、何を言われても反論できない。

「そこを、犬狼真君に助けていただいたんです」
「犬狼真君……」

 先程よりも大きく見開かれた尚隆の目に首を傾げ、自分を乗せているサクラの首元を撫でた。

「その時に真君からこのサクラを貰ったんですよ。生まれたばかりで親を失ったこの子を育ててくれと言われて……それで黄朱の里に連れて行かれました」

 まだ人間の子どもくらいの大きさしか無かったサクラを必死に育てていた日々が懐かしい。
 荒涼とした地――この世界で最も過酷な土地で、親とはぐれた吉量の子を育てるなど最初は全く自信が無かったが、半ば生を放棄していたあの頃のに、サクラの存在がどれほど支えになったかしれない。

 犬狼真君はきっと知っていたのだと思う。
 あれから幾度か会う中で、聞いてみたことは無いけれど……

「更夜か……」

 ちょうど頭の中で思い描いていた名が尚隆の口から漏れて、ははっと顔を上げた。

「更夜を――真君を知っているんですか?」
「ああ、雁の民だからな」

 それはどういうことかと聞きかけて、はとっさに手綱を引いた。
 すぐ近くを小さな鳥型の妖魔が掠める。

「上に抜けるぞ」

 尚隆の言葉に頷いて、も一気に高度を上げた。
 雲海に入ると、集まり始めていた妖魔の姿が遠くなる。
 雲海の下の黄海は、人の条理も天の条理も存在しない土地――それを改めて目の当たりにし、その後は雲海の上から一路蓬山を目指した。







「よう参られた」

 雲海の上を飛び、ようやく辿り着いた蓬山の頂には、白く壮麗な廟堂が建っている。
 その門前に佇んでいた女性が、開口一番にそう言って出迎えた。

 碧霞玄君・玉葉だ、という尚隆の説明を受けて、は跪礼した。

「お初にお目にかかります、碧霞玄君。と申します」
「延王の想い人であられるの」

 は驚いて顔をあげた。
 美しく微笑んでいる相手に毒気を抜かれたのだろうか、赤くなって笑みを返す。
 尚隆も苦笑した。

「流石は玄君。何でもお見通しと言う訳だ」
「延台輔のお言葉を借りれば――妾はそれが身上故」
「相変わらず礼儀を知らぬ童子で申し訳ない」
「延王にもお変わりなく、何よりじゃ」
 
 鈴を鳴らすように笑った玉葉に案内されて、尚隆とは白い階段を降り、どこかの宮の一角に通された。
 何度来ても、相変わらず蓬山の構造は良く分からない。
 初めて訪れたは物珍しそうに辺りを見回している。

 女仙が茶の用意を調えて去るのを待って、玉葉が口を開いた。

「いつもながら突然のお越しじゃが、今日はその想い人のことかえ?」

 尚隆が一つ頷くと、が巻いていた頭部の布を外した。
 薄い金色の髪がさらりと零れ落ちる。
 驚くことは無かったものの、すいと僅かに目を細めた玉葉に、尚隆は言葉を重ねた。

「俺はを雁の王后にするつもりだが、そもそも戸籍を作ることが出来ぬ。以前は慶の戸籍を持ち、飛仙として仙籍にあったにも関わらず――だ」

 しかし、望む答えを知らぬでも無かろうに、問い掛けには別の答えが返ってきた。

「以前延台輔に申し上げたが、伯位以上は王の近親者と冢宰・三公諸侯のみ。ただし、新たな官位を設けることは出来ぬ」
「承知している」

 尚隆は焦る胸中を抑えて慎重に答えた。

「王になった時に既に婚姻している場合以外は、王后の官位は与えられないというのだろう。王后と同じ公では無いが、三公の太傳に叙す。丁度現太傳が隠居するというのでな。朝では王后と同等の権を与えるが、籍上では太傳なのだから問題無かろう」

 玉葉がややあって頷いたのを確認して、黙って聞いていたが口を開いた。

「私は海客ですが、この身の半分は蓬莱とは別の国の血が流れております。この髪や目の色は、それ故のこと――それが問題なのでしょうか………天にとって」

 戸惑うように添えられた最後の台詞にが震えたのが分かった。
 膝の上で握られた手に自分のそれを重ねると、少し力が抜けて安心させるように微笑んでくる。
 それを見ていた玉葉は、悲しげに溜息をついた。

「そなたらも多少気付いているようだが――厳密に言うと、蓬莱・崑崙以外の要素ということではない。問題は、色彩――それを構成する因子そのものにある」
「それは――…」

 一体どういう意味だと問おうとした尚隆の言葉は、玉葉の真剣な視線によって遮られた。
 そして、明確な言葉を告げられる。

「事実だけを申せば、この常世には麒麟以外に金の色彩を持つ者は存在し得ない。天の理が、それを認めない」

 ――天の理が認めない。

 それは、尚隆が危惧していた最悪の言葉だった。
 口には出したことが無かったが、もその可能性を考えなかったはずが無い。
 この世界において、天の理は絶対――それに存在を否定されるということは、どれほどの苦痛だろう。

 倒れることさえ想像していた尚隆はの様子を窺った。

 顔色が悪く、俯いて唇を噛み締めていたが、先程のように震えてはいない。
 覚悟を決めるかのように、重ねたままだった尚隆の手を強く握り返して、見上げてきた。

 その瞳が強い光を湛えていたことに、尚隆ははっと息を呑む。
 何よりも美しいと思うその光を慈しむように、強くその肩を抱いた。

「玄君――」

 尚隆を見上げたままそう言葉を発して、は玉葉に視線を向けた。
 強く脆い眼差しが、蓬山の主を真っ直ぐに見据える。

「それでも……それでも私は、雁の民として…尚隆の妻として…、延王の最期まで添い遂げたいのです」

 強い想いがこめられた言葉は、尚隆の胸だけでなく、玉葉のそれも打ったようだった。
 言葉も無くただその目が見開かれた直後、唐突に、ちりんちりんと石を打つような音が部屋中に響き渡った。






06.8.01
CLAP