暁の声 - 神楽の章4

「しょっ…尚隆……!」

 不意に姿を現した延王尚隆に、はがたりと立ち上がった。

「おや、猿王のご帰還か。流石は野獣の勘だねぇ……良いところで邪魔するで無いわ」
「夫のおらぬ間に新妻を口説こうなどと、性癖だけでなく、性根まで腐れた輩だな。範は礼儀も弁えぬ無粋の国らしい」

 今まで見たことの無いくらい不機嫌な尚隆と藍滌の様子に、はどうして良いか分からずにうろたえた。
 そもそも、声を掛けられるまで尚隆の気配に気づかなかったのも不覚だ。

「――尚隆も藍滌様も、とにかく少し落ち着かれて……」
「お前は黙っておれ!」

 尚隆にぴしゃりと怒鳴られて、は口を閉ざすしか無かった。
 その間にも二人の対立は溝を深めていく。

「このように麗しい細君に声を荒げるなど……なんとも野蛮だの。私ならばそのような非情はせぬ」
「貴様には関係無い。夫婦のことに口を挟まないで貰おう」
「まだ正式な夫婦では無いであろ。ここに来る途中、受け取った文にそう記されてあった故」
「文を見たなら話は早い。心当たりがあるならさっさと教えて、とっとと帰れ」
「品性も何も無いそなたに似合いの物言いよな。、今ならばまだ遅う無い。そこな猿王などやめて、私の元においで」
「生憎は俺に惚れている。男としても主としても自らが選んだ俺の元を去ることは無い」
「根拠も無いのに大層な自信じゃが、そこまで自惚れが過ぎると呆れて物も言えぬわ」
「根拠ならあるぞ、惚れてもいない男の為にこいつが自分から――……」
「――尚隆っっっ!!」

 また性懲りも無いことを言い出すと予感したは、大声でその言葉を遮った。
 赤くなっている頬を押さえて、荒くなった息を整える。
 いくら主の命であろうと、これ以上は黙っていられなかった。

「尚隆、お客様の前でいい加減にしてください! 氾王氾台輔は、文を見て来て下さったと仰ったではありませんか。こちらが請うてわざわざ足をお運びいただいたものを、そのように暴言でお迎えするなどあまりに礼儀に欠けます」

 の言は一応理に適っていると分別したのか、尚隆は不機嫌そうに押し黙った。

「藍滌様、我が主が大変失礼をいたしました。代わってお詫び申し上げます。――ですが、我が主……夫の前でそのような戯れを仰るのは、どうかお控えくださいますよう」
「――の一人勝ちだな、こりゃ」
「六太」

 尚隆に続いて入室してきた延麒六太は、椅子に座ったの背に回って後ろから抱きついた。

「氾王も、うちの王后にちょっかい掛けると、温厚な俺でも怒るぞ。そこの短気な莫迦殿はもっとだな。他国の王だろうと命の保障は無い。範と雁の未来を思うならあんま挑発すんなよ」
「………六太が温厚かどうかはともかく、主上の負けでございますわね。ごめんなさいね、。貴女まで苛めるつもりは無かったのよ、主上を許してくださいね」

 訳が分からないままも、は頷いた。
 勝ちとか負けとか、何のことだと思うものの、聞かない方が良さそうだと判断する。
 そして、これ以上ややこしいことになる前にという直感に従って口を開いた。

「藍滌様、梨雪様。小国の王も宰輔も揃いましたが、こちらにおいでくださったのは親書を見ていただけたからなのでございましょうか?」

 仕切りなおしとばかりに態度を引き締めたに些かつまらなそうな溜息をついて、藍滌は頷く。

「元々恭へ視察に出ていたのだけれどね、途中で使者と行き合って受け取ったのだよ。延王后に立つという海客の戸籍を作ることができないのだとあったけれど……」
は慶の斎暁君なのでしょう?」

 客人二人の疑問に今までの経緯を簡単に説明し、は何か知っていることがあれば教えて欲しいと結んだ。

「なるほど、そんな事情があったのだね。――原因は私にも分からないけれど……私が登極したばかりの頃に、少し似たようなことがあったのだよ」

 藍滌が登極した当時と言えば三百年ほど前である。

「その者は海客では無く山客だったのだけれどね、蝕でこちらに流されて、しばらく放浪し、範の役所で山客の届けを出した」
「今は主上のお陰で大分良くなりましたけど、当時の範ではまだ海客も山客も冷遇されていていたの。国がすることと言ったら、とりあえずの戸籍を与えるといった程度ね」

 梨雪の説明に、は一つ頷いた。
 自身、放浪している間にいろいろな国を見て回り、各国の海客への対応は熟知している。現在では、戸籍すら与えられないなどというのは、巧くらいのものだった。

「ところが、その者の戸籍を作ることができないと州府から国府に上がってきてね……私がたまたま大司徒と話している時だったから良く覚えているよ」
「……その人はその後……」

 は思わず身を乗り出した。
 今のところ、唯一の手がかりなのだ。

「お世辞にも素行が良いと言える者では無かったようでね。州府からの連絡を待たず野盗の真似事をして命を落としたらしいのだよ」
「本人が死んでしまったのではそれ以上の調査も出来ず、その件はそれまでになってしまったの。しかも、死体がすぐに消えてしまって、あれはもしかしたら妖魔の類だったのではないかという話にもなったみたい――の場合は最初に流された慶では仙籍に入っていたのだから少し違うかもしれないけど、似ているでしょう?」

 範での事例に、は考えに沈んだ。
 雁でも慶でも、戸籍を作ることができないというのは前代未聞の事柄だった。
 当の本人が戸籍を作る前にすぐに死んでしまったとは言え、範ではそれが確かにあったのだ。
 しかも、死体が消えたというのは一体……

「――その者の髪と目の色はどうだった? のように変わっていたのではないか?」

 突然そう問うた尚隆に、はっとして目を向けた。
 陽子の話によると最近の倭国や崑崙では、自ら髪の色を染めたりするものもいるようだが、三百年前であればそれも無かっただろう。
 もし"そう"なのだとしたら――……

「髪と目? そう言えば、思い出してから急いで取り寄せた報告書にその記載もあったの」

 カサリと藍滌が懐から取り出した書面に目を通すのを、は固唾を呑んで見守っていた。
 女装の麗人はやがて目を上げてその事実を告げる。

「白に近い薄い金色の髪に、濃い緑の目――」

 ――異人――
 それが告げる意味に、はしばし言葉を失った。







 範主従の来訪から半月後――
 各国からの返書が届くのを待って、と尚隆は雲海の上を駆けていた。
 目指すは黄海――蓬山である。

 親書を送った国々はそれぞれに手を尽くして調べてくれたようだが、目ぼしい情報は得られなかった。
 その中で、芳の仮朝国主月渓からの返答に助言がしたためられていた。

 曰く、芳の前王時代、常世の摂理、天の摂理を知る為に、幾度か蓬山に使いを出したことがある。
 今度のことも、常世では計り知れぬ天の摂理に関係するのではないか。一度、蓬山を訪ねてみてはどうか。とういう内容だった。

 範の話から、異人であることが関係している可能性が濃厚になっていたので、尚隆も近いうちに蓬山の碧霞玄君を訪ねるつもりだったという。
 最初は反対されたものの、も強引に同行していた。
 自分のことなのに、任せてばかりなのは到底納得できない性格なのだからしょうがない。

「………尚隆、怒ってますか…?」

 乗騎のサクラをたまの横に並べては聞いた。
 口論して『大嫌い』発言してからというもの、範主従の来訪や各国からの返書などで、ほとんどろくに顔すら合わせていなかったのだ。
 避けられていたといった方がいいかもしれない。
 深く考えると怖くて、今まで気にしないようにしていたけれど、黄海へ行くというのにこんな状態では不安だった。
 天の摂理が関係しているのかもしれないという心許なさ――
 そして何よりも、尚隆の心が離れてしまうのが怖い――

「……私のことが嫌いになりました?」
「――大嫌いと言ったのはだろう」

 素っ気無い返答に、は目を見開いた。
 慌てて趨虞より少し前に出て、尚隆の顔を覗きこむ。

「あれはっ……違うんです、私は……」
「氾とも随分親しそうだったな。言い寄られて満更でも無かったようだし、行きたければ行っても良いんだぞ?」
「――――……」

 冷たいその言葉は、鋭い刃物のようにの心を薙いでいった。
 ズキリと痛む胸元を押さえて、尚隆から顔を見られないように遠ざかる。
 声が震えないようにするのが精一杯だった。

「…貴方が何と言おうと、私は尚隆の近くに居たいんです――王后じゃなくても、夏官の末席でも構いませんから、どうか…お傍に――……」

 最後まで言葉を紡ぐ前に、ぐいと強く腕を引かれ、気が付けばたまの上に引き上げられていた。
 乗り手を失ったサクラが心配そうに後をついてくる。

「――すまぬ」

 後ろから抱きしめられ、耳元にその呟きが落とされた。

「尚隆……?」
「俺の知らないを知っていた氾に、嫉妬したのだ」
「え……」

 驚いて振り返ろうとした体は、強く抱きしめられていて身動きできない。
 尚隆は自嘲気味に笑って続ける。

「全く厄介なことだ――目の届く場所に居らぬと不安になる、六太にまで嫉妬する、挙句誰にも見せずに宮の奥に閉じ込めてしまいたいとまで考える」

 あまりに予想外のことを言われてしばらく固まっていたは、ようやく頭が動き出すとふっと力を抜いた。
 不安だったのが自分だけでは無かったということが、こんなにも嬉しい。
 喜びは笑みとなって口にのぼり、やがておかしさと愛おしさがこみ上げてきた。

「ぷっ…くくくくく…!」
「――

 少し気分を害したように名を呼ぶ尚隆に、はだって、と言葉を継ぐ。

「六太にまで嫉妬したんですか? だから、ますます籠の鳥のように閉じ込めると?」
「……がそういうことを嫌うのは分かっている」

 そこに至って、ようやくは理解した。

「…もしかして、だから私が嫌いって言ったと思ってます…?」
「ただでさえ、王后などに祭り上げられたことは気に食わなかっただろう。その上閉じ込められたのでは、俺とて嫌気が差す」
「……確かにそれも、嫌なことは嫌ですが………」

 はぁ、と深い溜息をついた。
 自分のことを子どもじみていると反省していたが、尚隆も十分大きな子どものようだ。
 一体自分たちは、五百年以上生きてきて何をしているのかと思ってしまう。

「私が嫌いと言ったのは――……私も嫉妬したんです。尚隆が…妓楼に行くと思ったから。例え想いをくれるのが私だけだとしても、私以外の女性には触れて欲しくない――……ただの我侭なんです。…あんなことを言ってすみませんでした」

 それに、と赤面した顔を隠して付け加えた。

「慣れないですけど、妬かれるのも、束縛されるのも……嫌じゃない…何だか嬉しいです」
「………くっ」

 後ろでくつくつと笑い声が聞こえたと思った瞬間、は顔を引き寄せられ、唇を奪われた。

「可愛いことを言ってくれる。我が妻は、今更夫を口説いてどうするつもりだ?」 
「なっ……尚隆…!」

 赤くなって怒るに構わず、尚隆はからからと笑った。
 の好きな曇りの無い笑顔――

(この人が傍に居てくれるなら、大丈夫――)

 そっと向かう先を見つめて、は穏やかな心地で目を閉じた。
 例え何を否定されても、自分の想いだけは本物だと――そう、確かな証を抱きながら。






06.7.30
CLAP