暁の声 - 神楽の章3

 入室の許しを得て室内に進んだは、その場に跪礼して挨拶の辞を述べ、顔を上げて絶句した。
 絶世の美少女である氾麟の傍らに、臈長けた麗人が佇んでいた。
 紛れも無く男性なのに、女性用の衣裳と装飾をどこまでも品良く纏っているその人物と氾麟とが並ぶと、本当に完成された絵のようだった。

「ほう……これはこれは……ここは本当に雁かと思うほどの麗しい姫君だの」

 氾王の言葉に我に返って、は自分も呆然と魅入っていたのに気付いた。一度立ち上がり、改めて軽く拱手する。

「これは失礼を――わたくしは、この度雁国王后を拝命することになりましたと申します」
――?」

 驚いたように繰り返した声は、両者から漏れた。
 は逆に驚きながらもそれを抑え、まずは美しい少女に微笑む。

「氾台輔、耀伽様におかれましてはお久しゅうございます――覚えておいででしょうか」
――本当に? 大昔にあたしを助けてくれたあのですか?」

 懐かしいはきはきとした氾麟の口調に、はくすりと笑った。

「ちょっとした通りがかりに、運良く耀伽(ようか)様の遭難に行き当たってお助けした者であれば、確かに私です」
「でも、あれは確かもう二百年以上は前でした」
「もうそんなになるのですね……私は当時仙籍に入っておりました故」
「延王后は、慶の斎暁君だとお聞きしました」
「はい。今回のことに先立ち、慶からはお暇をいただきました」

 興奮している氾麟の質問に一つ一つ答えていると、その傍らでほうと優美な溜息が聞こえた。

――名を聞いてまさかとは思っておったが、真にそなたであったとは………私のことを覚えておらぬか?」
「は………」

 隣の氾王から突然そう振られ、は硬直した。
 こんな特殊な美人を一度見たら、いくら何でも忘れたりすることは無いと思うのだが……
 そんなの思考を読んだのか、氾王はちらりと笑って、見事に結い上げていた髪の飾りを悉く外していった。
 最後の簪を抜いて頭を軽く振って髪を梳り、それを背に流して苦笑する。

「あの時は世話になったね、私があげた得物は少しは役に立ったかえ?」

 はその言葉の意味するところに、思い切り目を見開いた。
 反射的に服の袖下から両手にクナイを四本ずつ取り出し、目の前に掲げる。
 部屋の隅に控えた天官らがぎょっと腰を浮かしたところに、氾王がにこやかに笑った。

「蘭螢(らんけい)さん――!」

 信じられない思いで、もう二度と会うことは無いと思っていたその名をは呼んだ。
 昔の知人であり氾王でもある彼は、ただ上機嫌に笑んでいた。






「しかし、梨雪もと知り合いだったとはねぇ」
「あ、梨雪というのは今の字です。主上はご気分でころころ私の字を変えるから、次に会った時にはまた違うかもしれないけれど」

 卓に並べられた、本当にどこから仕入れてきたのだという程素晴らしい茶器でお茶をしながら、範主従の言葉には始終苦笑していた。
 氾麟――梨雪とは面識あるのを理解していたが、まさか氾王までが知っている人物だったとは。

「私も驚いています。再会叶うまいと思っていた方々に、まさか一度に見えることができようとは」
「あら、私は範の麒麟だと名乗っていたのですから、もっと早くに会いに来てくれたら良かったのに。ちゃんとお礼がしたいとずっと探したのですもの……薄情ですわ」
「申し訳ありません」

 膨れる梨雪に、は謝るしかない。
 間に入ってくれたのは、氾王だった。

「先程の話によると、は梨雪の恩人だということだったね……恩人にそのようなことを言うでないよ、梨雪。仮にも一国の宮に、軽々しく台輔に面会を求めて来れるべくもないのだから」
「………分かっています。ただも仙籍にあったのだと知って、もっと早く再会できたのにと悔しく思っただけです。困らせてごめんなさいね、
「いいえ、梨雪様の仰る通り、私も薄情でした。この髪を見られる前にと、何も言わずに御前から消えるようなことをいたしましたので――」
「事情があったなら仕方ありません。主上、覚えてらっしゃいます? 登極して五十年頃かしら……私一人でお忍びで町に下りた時に、謀反に巻き込まれたどさくさでお馬鹿な匪賊(ごろつき)に攫われそうになったことがあって……」
「――ああ、確か通りがかりの侠客に助けられたと……なるほど、それがだったのだね」

 もしみじみと思い出した。
 世話になっていた朱旋の一座に別れを告げて、行く当ても無くふらふら彷徨っていた時のことだ。
 範の州都に程近い町の外れで、いかにも何も考えて無さそうな十人ほどの匪賊たちが、金色の髪に豪奢な服装をした美少女を抱えて逃げてきたのだ。
 しかも見かけは絶世の美少女であったその麒麟は、キンキンとそれは元気に叫び続けていた。
 は髪のことがあったのであまり麒麟と係わり合いになりたくなかったのだが、生憎まわりに誰もおらず、使令も出てくる様子が無かったので、見るに見かねて助けたのだった。
 後から聞けば、使令は町で起こった謀反の際に足止めとして残り、氾麟が一人で逃げようとしたところをたまたま居合わせた別口の匪賊に捕まったということだった。
 梨雪の口調から、これは間違いなく宮城へ連れて行かれると悟ったは、迎えの者が来るや否や、こっそり姿を消したのである。

「お礼も受け取らずに颯爽と姿を消したと、しばらく梨雪は騒いでいたものねぇ」
「主上! 余計なことは言わないでくださいな!」

 はははと乾いた笑いを落とすに、咳払いした梨雪が話題を変えるように言った。

「それで、と主上はどんなお知り合いなんですか?」

 話を振られて、と氾王は顔を見合わせた。

「氾王君にお会いしたのは確か梨雪様にお会いするよりもずっと前でしたし、範の州都でも無かったように思いますから、登極前でしょうか」
「そうだねぇ、私が架戟で腕を振るっていた頃だから……梨雪が迎えに来る少し前ということになろうね」
「まぁ、ってば、私よりも前に主上にお会いしていたの?…何だか悔しいわ」

 頬を膨らませた可愛らしい反応に、は微笑んだ。
 氾王も梨雪の頭を撫でて笑む。

「山で妖魔に襲われておった所を、助けて貰ったのだよ。あの時は驚いたねぇ、空から降ってきた小柄な娘があっという間に馬腹を仕留めてしまったのただから……言わば、私にとってもは命の恩人ということになるね」
「騎獣で通りがかったのでお助けしただけです。その後、いろいろと武器を鍛えていただいたのですから、幸運だったのは私の方です」

 卓上に置かれていた、が先程取り出したクナイを手に取り、氾王は息をついた。

「随分と使い込んでくれているようだね。手入れも十分行き届いている。……本当に懐かしいねぇ……あの頃はまさか王になるなどとは思ってもみなんだから、から蓬莱の武器の話を聞いて夢中で冬器を打ったものだよ」
「ええ……今のように女性の衣裳こそ着ておられませんでしたが、蘭螢さん…いえ氾王君は、空位の国とは思えないほど身だしなみに気を使っておいででしたから、そのような方が力強く刀剣を打つのを見て驚いたのを覚えています」
「その名も懐かしいね、自分で付けた別字だったのだよ。今は使っておらぬが、号というのはあまりに堅苦しいし…名で呼んでくれて良いのだよ?」
「御名というと……藍滌…様?」

 呼ぶと、氾王――藍滌は、魅惑的に微笑んだ。
 間近で見て思わず赤くなったの手を取り、自分の口元へ運ぶ。

「天女のごとき艶姿のに名を呼ばれるのは、中々に良い気分だねぇ。……このまま範に連れ帰ってしまおうか」
「――これ以上その化粧塗れの手で触れるな」

 指に口付けが落とされそうになった時、不意に衝立から地を這うような不機嫌な声がかかった。
 部屋の中に居た全員がそちらを振り向く。
 足音荒く入室してきた主の姿に、はさっと血の気が引くのを感じていた。







06.7.30
CLAP