暁の声 - 神楽の章2

 この日は、牀榻で不貞腐れていた。
 自室にと与えられた、王后の居室である燕寝北宮の豪奢な一室を何気無く見渡して大きな溜息をつく。

 ――「尚隆なんて嫌いです!」

 思わず言ってしまった自分の言葉に後悔する。

「なんて子どもじみた台詞……」

 呟いて、再び嘆息した。
 そもそも、この北宮の場所も問題だと思う。

 は玄英宮に入って以来、尚隆より内宮から出ることの一切を禁じられていた。
 玄英宮の外に出るなど問題外である。

 これは、五百年の放浪生活を送り、陽子の元に身を寄せてからもあちこちへ飛び回っていたにとっては非常につらいことだったが、仙籍に無い身を案じてのことだと思えば堪えるしか無かった。
 そもそも巧へ攫われた時も仙で無かった故に尚隆には多大な迷惑をかけてしまったし、自分が死ねば一国が滅びるなどと脅されては尚更である。

 の与えられた北宮と外界との境である禁門は目と鼻の先……禁門にはの相棒である騎獣のサクラも居る。
 そんな誘惑の多い場所で、日がな一日官への挨拶回りしかすることが無くても我慢して大人しくしていたというのに……

「サクラに会いたい?」

 せめて騎乗できずとも、会って世話をしてやりたい……そうすればの気晴らしにもなって一石二鳥だと思い尚隆に言ってみたのだが、返答はにべにもなかった。

「駄目だな」
「なぜです!? ただ会うだけじゃないですか!」
「そのまま飛んで逃げるかもしれんだろう。門番ごときでは、王后を止めることは出来んだろうからな」

 冗談めかした物言いだったが、鬱憤の溜まっていたは聞き流せなかった。

「私のことが信用できないと? 私が貴方から逃げるというんですか?」
「俺からは逃げずとも、宮からは逃げそうだ。籠の鳥は気に入らぬらしいからな」
「当たり前です!」

 言ってからははたと止まった。
 は籠の鳥のことを言ったのだが、今の流れでは、逃げ出そうとしていたと認めたようにも取れる。
 そうではないと言おうとして、尚隆の人の悪い笑みにぶつかった。

「まあ、もうしばらくの辛抱だ。土産を買ってきてやる故、今回は大人しくしていろ」
「………………どこかへお出かけですか?」
「なんだ、それを聞いたから来たのでは無かったのか」

 悪びれもしない言い方に、わなわなと体が震えた。
 が内宮から一歩も出られずとも我慢しているのに、尚隆は度々ふらりとどこかへ消える。朱衡が言うには、それでもが来る前からすれば格段に減ったらしいが、そんなものは気休めにならなかった。

「それはそれは……今度はどこのお店ですか? 関弓では、尖閣楼か遊松楼、添蘇郭あたりでしょうか? それとも、堯天の愁黄郭まで出向かれるんですか?」
「……いつの間に。随分詳しいな。だが、残念ながら今回は別の河岸だな」

 醜い悋気だと自分でも分かっていたが、それに対する尚隆の言葉があまりにもあけすけだったので、思わずその一言を叫んで飛び出してしまったのだ。

「分かりました、どこへなりと行ってください。――尚隆なんて嫌いです!」

 それが昨日のことだった。
 言われた尚隆は、の元に来ることもなく、急ぎの仕事だけ片付けると昨日の内に慌てて宮を出たらしい。

 恐らく、関弓でも堯天でも無い別の河岸へ向かったのだろう。
 あの尚隆のことだ。
 言葉通り向かう先が娼館だとしても、目的は何がしかの情報を得る為なのだろう。
 そして、その"ついで"に、当たり前のように妓女を抱くのだ。

 分かっている。信じたい。しかしそれでも………不安だった。

「贅沢……なのかな」

 の戸籍を作るため、仙籍に入れるため、尚隆は他国に協力を要請してまで動いてくれている。
 日々の生活の中でも、愛されている――そう感じる。
 しかし、実際は外に出られない以上、は自分では何も出来ない。
 今もこうして、他国からの返事を待ち、地官の成果を待ち、尚隆の帰りを待つことしか出来ない。
 一方的に与えられるだけということに慣れていないは、そうしてじっとしていると余計なことまで考えてしまうのが堪らなく嫌だった。

「はぁ……」

 深く溜息をついた時だった。
 バタバタと後宮ではほとんど聞かない騒がしい足音が聞こえ、数人の気配が近づいてくる。
 何やら嫌な予感がして、牀榻を出て身なりを整えたところに、付きの女官に先導された朱衡と、更に十人はいるかという別の女官たちが現れた。
 女官たちは、手に手に様々な箱を抱えている。

「朱衡様、一体どうされたのですか?」
「北宮まで立ち入ったことをお許しください、火急の事態ですので」

 後宮へは王と身の回りの世話をする天官以外の立ち入りは許可されていない。
 驚くの前で、朱衡が拱手してそう言い、その間にも女官たちがしずしずと部屋に入って箱を広げ始めた。

「実は先程、主上に急な賓客がありまして――」
「お客様? でも尚隆は今出掛けているのでは……」
「そうなのです。いつものことながら、いつお戻りになるやら分からないような有様で……ただいま台輔にもご協力いただいて探してはいるのですが……」

 いつに無く歯切れが悪い朱衡とこの状況に、は嫌な予感が当たったことを悟った。

「まさか、その間に私に王后としてお相手せよと……そういうお話ですか?」
「……はい、その…『延王に嫁ぐなどという酔狂な姫君を是非見てみたい』との仰せで……」
「酔狂……」

 仮にも一国の王后になろうというを捕まえてものすごい物言いだった。
 しかも五百年の治世を誇る大王朝の延王に対してそんなことを言うとは……
 雁よりも治世が長いのは奏だが、利広は旧知であるし、その家族は利広の話を聞く限りそんな人柄では無い。

「……お客様というのは一体……」
「――氾王君、氾台輔であらせられます」
「は…ん………ですか……」

 脳裏に甦るのは、数百年前に出会った美しく元気な少女。
 氾麟とは、少しだけ面識がある。
 それに、範主従については、陽子と祥瓊から聞いたことがあった。
 氾王は美形で恐ろしく趣味も良いが、なぜか女装をしていたと……そしてそれが非常に似合って美しかったと言っていた。
 滞在中は、着る物や宮の装飾にとても五月蝿く、大変な思いをしたと………

「さあ、様、急ぎお召し替えを――」

 傍らを見遣れば、いつの間にか香扇がそこに控えていた。
 手には、それは夢のように美しい薄い紗のかかった桃色の着物が乗っている。

「……………分かりました、朱衡様。お相手させていただきますが……ですが、何も張り合わなくとも……」

 顔を引き攣らせての精一杯の拒絶は、香扇に一刀両断にされた。

「何を仰います! これまでは主上も台輔もいつも通りのお召し物で饗応なさって、わたくしたちはいつもいつも涙を呑んで参りました。……ですがそれも今日までのこと! 玄英宮後宮の名に掛けて、今までの雪辱雪いでみせますわ!」
「…………お手柔らかにお願いします…ね……」

 気圧されるようにそれだけ言ったに、朱衡は気の毒そうな視線だけ残して素早く退出していった。
 香扇たちは、意気揚々と煌びやかな装飾品の箱を開けていく。

(そう言えば、陽子も登極前に玄英宮に来た時は着飾られそうになって大変だったって……)

 思えば、あの延王延麒なのだ……五百年間、用無しだった装飾品も女官の腕も、ここに来てやっと出番を得られたのである。
 今までも大人しくされるがままで大分好き勝手に弄られていると思っていただったが、それはまだ序の口だったということを知った。

(金波宮よりもすごいかも……)

 達王の朝は、王の人柄故か朝廷も穏やかな気質で服装もそこまでうるさく言われることは無かった。
 は、次々に並べられていく膨大な量の飾り紐や簪を見て、少し気が遠くなった。

(五百年分の生贄ってわけね……………最悪)

 範主従の前に立てるのはいつだろう。そしてその時に気力は残っているだろうか。
 呆然とそんなことを考えながら、遠い空の下に居る尚隆を呪ったのだった。






06.7.25
CLAP