「ほぅ、珍しや……」

 霧の覆う風光明媚な異界の地で、溜息のような呟きが漏れた。
 ころりと零れたその言葉は、玉のごとく転がって主の眼前にあった池に落ちた。
 澄んだ水面が揺れて、鏡のようにごく自然に、異界の風景を映し出す。

 そこには、金の髪をした少女が映っていた。

「招かれざる娘……よくも今まで隠しおおせたものよの」

 再度呟いて、声の主はついと硬質な動作で手を伸べた。
 水鏡に触れた指先から、淡い光が波紋として水面に広がっていく。 

「天の条理を侵し、地の和を乱すか」

 一拍の後には霞のように消えたその人物の、遺した言葉だけがその場に落ちて池に沈んでいった。

暁の声 - 神楽の章1

「王后見習いの、と申します。以後お見知りおきくださいませ」

 にっこりと微笑んで、はこの日だけでも何度目になるか分からない自己紹介を繰り返していた。
 対する目の前の官は、今までのご多聞に漏れず、の髪を些か呆然と見つめ、面食らったように曖昧な返事を返す。
 もうそれも、慣れた反応だった。

「――、こんな所に居ったのか」
「主上」

 官たちとの何気無い会話に如才無く応えていたは、背後から掛けられた声に顔を上げた。
 王気というものは分からなかったが、愛しい人の気配くらいは見分けがついたので、近づいてくるそれに、少し前から助かったと思っていたのだ。

「盛り上がっているところをすまぬが、いい加減俺の妻を返して貰うぞ」

 延王――尚隆は、前に居た面々に向かってそう言うと、の腰を片手で攫った。
 呆気に取られていた彼らは慌てて次々に叩頭する。
 尚隆はそれらをそのまま振り切って歩き出し、事もあろうにを片手で抱き上げたまま外殿の回廊を通って内殿へ入った。

「ちょっと尚隆、いい加減降ろしてください! それに、私はまだ妻ではありません」

 ここまで来れば、人目を気にしなくていいと抵抗しただったが、ようやく降ろされたのは執務室に入ってからのことだった。

「まだそんな妙なことを言っておるのか?」

 呆れたように言う尚隆の背後に、彼を待っていたいつもの側近三名を見つけて、まずはそちらに拱手する。

「妙ではありません。大切なことです」
「もうやることはやってる間柄で冷たいことを言うな。昨夜も………」

 ――ビュッ…
 とんでもない事を言い出した延王にして想い人の頬ギリギリを掠めて、の放ったクナイがその後ろの壁に突き刺さった。

「――ご無礼を。小虫がいたもので。……で? 何か仰いましたか、主上?」
「………それも冬器だと言っていなかったか、?」

 生々しい風圧まで感じて青くなった尚隆とは対照的に、側近三名は壁のクナイを見て口々に感嘆した。

「冬器をこのように鍛え上げるとは……実用的でございますね。この技術はもしや範のものですか?」
「うおっ、本当に虫が串刺しになっているぞ!」
「………全く持ってお見事です。王后などにしておくには勿体のうございますな」

 かつて冬官に居たことがあり武器類に造詣の深い朱衡、純粋に驚いている帷湍、武人という視点から手放しで誉めてくれる成笙――実質的に延国朝廷を支えている王の側近たちに、は満面の笑みを返した。

「お褒めいただき恐縮です。確かにそれは範で鍛えていただいたものです、朱衡様。よろしければ、他のものも後でお見せ致しますね」

 にこやかに会話する四人に隠れて溜息をついていた尚隆……そこに反省の色無しと判断して、は一度かわされた矛先を向けた。

「ところで尚隆……いい加減、ああいう発言はお控えくださいと再三申し上げた筈です」
「ああいう発言とは?」
「つ……妻などと、どこでも吹聴して回ることです!」

 その響きがいまだ慣れず、思わず赤面してしまったを、尚隆の手が引き寄せた。

「真実なのだから良いではないか」
「実質はどうあれ、婚儀も行っていないのですから公には出来ないでしょう!」

 そのまま自分の膝の上に座らせ体を寄せてきた尚隆を必死で押し返していると、不意に衝立の向こうから六太が姿を見せ………絶叫した。

「あーーーーーっ!!! 尚隆てめぇ何やってんだ! を離せっ!!」
「俺の妻だ。お前にどうこう言われる筋合では無いぞ、馬鹿」
「その名で呼ぶなって言ってるだろうが! そもそもが嫌がってんだろ!」
「なに、これは照れておるだけだ。寝屋では意外に大胆な癖に……」
「――尚隆、それ以上馬鹿なことを言えば、本気で寝首かきますよ」

 途端に騒がしくなった室内で、朱衡の海より深い溜息が聞こえて三人はぴたりと動きを止めた。
 に言わせて貰えば、朱衡は王と麒麟に容赦が無い分、怒らせたら慶国冢宰よりも恐ろしい。

様の仰ることは尤もですよ、主上。五百年も空いていた王后の地位を埋めようというのです。それなりの慣例に則った儀を示さなければ百官は納得しません。ですから今の内から様にもコツコツと足場を固めていただいているというのに……」

 が玄英宮に入って既に二十日近くが経過していた。
 熱を出して意識が無いまま王自らの手で王の寝室に運びこまれたは、その時点で朝廷内では「王の妃」として認知された。
 ただの妾妃ならばそのままでも大した問題は無いが、正式な王后となると話は別である。位は麒麟に次いでの公となり、様々な権限を有することになる。

 だからこそ、きちんとした手順を踏んで公に示すために叙位の儀を執り行わなければならないのだが、そこがそもそもの問題だった。

「……地官から何か新しい報告は来たか? まだ原因は分からないのか?」

 六太の質問に、長く地官長大司徒を務めていた帷湍は苦い顔をした。

「慶の地官府にも協力してもらい、うちも総力を挙げて究明しようとしているが、まだ成果は上がっておらん。そもそも戸籍そのものを作れんなど聞いたことがないからな」

 ――という人間の戸籍が作れない。
 慶で潜入捜査のために一旦仙籍を削って貰い、戻す段になって発覚した事柄だった。
 雁に来てからもそれは同じで、二国の地官府が手を取り合って原因を探ろうとしてくれているが、いまだ手がかりは無しのようだ。

「……朱衡、奏と範、恭、才、漣、内密に巧にも、それぞれ過去の事例に似たようなことが無かったか問い合わせよ。親書は今日中に用意する」
「尚隆!」
「おい、それって……」

 と六太が、何の関わりもない他国にまで協力を求める尚隆に驚きの声を上げる傍ら、側近たちはうむ、と簡単に頷いた。

「それしかあるまいな」
「早いほうが良かろう。使者と騎獣を見繕っておく」
「それでは主上、手配が整いましたら参りますので――」

 取り敢えずの方策が決まった途端、あっさりと退出していった三人を見送って、はおずおずと口を開いた。
 
「尚隆……そこまでしていただかなくても……私はこのままでも構いませんし」

 その言葉に、尚隆は呆れた視線を返した。

「まだあいつらの方が分かっておるぞ、
「まあ、そこがのいいとこなんだけどさー」
「え…?」

 ますます意味の分からないはただ首を傾げるしかない。
 露台に座って足をぶらつかせていた六太が、溜息一つと代償に説明してくれた。

はもう雁の民だ。民の戸籍を作れないなんて重要な問題を放っておけば理に悖る。次に同じような事が起こらないとも限らないからな」

 それに、と六太は尚隆を呆れたように睨みながら言葉を接いだ。

「ただでさえ、この馬鹿殿はに骨抜きだからな……五十や六十の人間の寿命で死なれちゃ、その時点で雁も終わりだ」

 言われたは目を見開いた。

 ――「が死ねば、俺も王などやってる場合ではなくなるだろう。その命は、お前が望む望まぬに係わらず、既に雁という国を背負っている」

 玄英宮に来て、尚隆に言われた言葉だった。
 逃がさないと、逃げないと言った言葉に、今更ながらには赤面する。

「まあ、そういうことだな。あと付け足すならば、このまま公に妻と呼べぬままでは俺がつまらぬ」
「しょ…尚隆!」

 ますます赤くなったに、尚隆は呵々と笑った。

「分かったら、も手伝ってくれ。宋王とは別に卓朗君にも動いていただいた方がよかろう」
「……承知しました。利広と巧の南鵜殿、それから芳の月渓公とも面識がありますのでそちらにも文をしたためましょう」
「ほう、先代の芳は法治国家だったからな。それは期待できそうだ。朱衡あたりを連れて行けば喜ぼうな」
「あ、朱衡様と言えば……」

 思い出した事柄に、はばっと顔を上げた。

「尚隆に攫われたせいで忘れていました。私は部屋に戻ります。文は朱衡様に直接お届けしますので」
「俺のせいとはどういう意味だ?」
「……朱衡様から宿題を出されているのです。地盤固めとして、一日に卿以上の高官を含む十人の官と面識を得るようにと」

 今日はまだ六人までしか会っていない。
 今から優先して文を用意した後では日が暮れてしまう。――急がなければ。

「失礼します」

 尚隆と六太が呼び止める暇もあらばこそ、真面目なは急いで自室へと向かったのだった。







06.7.25
CLAP