夜半も過ぎた頃だろうか……灯篭の灯も尽きた暗闇の中で、尚隆は不意に目を覚ました。
自分が突っ伏していた卓子に開かれたままの書簡を見つけて、あのまま寝てしまったのかと眉を顰める。
昨日は六太が頑張ってくれたものの、結局尚隆の方が全く捗らず、六太は見事放免、尚隆だけが引き続き見張りまで立てられて監禁続行されることになった。
夜くらい自分の部屋で休ませてくれても良さそうなものだが、今までで丸五日というのが朱衡による強制カンヅメ最長記録なので、今回はまだまだ序の口だろう。
とは言え、今回は一刻も早くに会いに行きたいという思いがある限り、尚隆とてのんびりしている訳にはいかない。
だから珍しく睡眠を削ってまで精を出していたのだが……
「…………」
尚隆は無言で傍らの剣を引き寄せると、気配を殺して立ち上がった。
そう、カンヅメ自体は馴れたものだったが、現在の問題は、見張りまで付けられている筈の部屋になぜか人の気配がするということだった。
こんな王宮の奥深くに侵入を許すなど、並大抵のことではない。
「――何者だ?」
素早く剣の鞘を払って相手の喉元に突きつけた筈の剣は、しかし空を捉えただけだった。
そして直後、今まであったその気配がよりによって自分の真後ろに現れた瞬間、ようやく尚隆は相手の正体を悟った。
「お静かに――」
しっと背後から人差し指を押し付けられ、尚隆は面食らって溜息をついた。
「夜這いとは大胆だな――」
名前を呼べば、相手は少し離れて手元の燭台に灯をつけた。
暗がりに浮かび上がったのは、藍色の髪をしたいつもとは雰囲気の違った――
「夜這いでなく闇討ちだったら、今頃雁は沈んでますよ――尚隆」
物騒な台詞と共に笑ったその仕草がひどく艶やかで、尚隆は自分を取り繕うように剣をしまう。
「流石にこういうことにかけては敵わんようだな。お前にもこの部屋にも武官が張り付いていたはずだが――」
「それこそ私の得手とするところです。ああ、でも、流石にこの部屋の周りにいた方たちには眠っていただきました。話し声までは忍べませんので」
生真面目に告げたは、ややあって悪戯が見つかった子供のように笑って見せた。
「お仕事部屋まで押しかけてすみません――待ちきれなかったので、来ちゃいました」
執務室は書簡で埋もれていた為に、場所を一時的に正殿奥の庭林に移して、と尚隆は夜の散歩をしていた。
お互いに沈黙を苦痛とするようなタイプでは無いが、今は非常に気まずい。
「月が――キレイですね」
何でもいいから切り出そうと思って言った言葉は、あまりにもカビの生えた文句だった。
しかし今更撤回も出来ず、自らフォローするように言葉を足す。
「月だけはあちらと同じなのだなぁと、こちらへ来たばかりの頃は毎晩思っていました」
あの時隣に居たのは達王だった……懐かしい感傷に浸っていると、それに気付かれてしまったのか、尚隆は些か不機嫌に口を開いた。
そしてその言葉は真っ直ぐ簡潔にの胸に切り込む。
「俺の妻になるのが、嫌だという話か?」
「っ違います!」
が慌てて否定すれば、尚隆は目を丸くして足を止める。
「お前は俺に仕える為にここに来たのだろう。勝手に王后にまつりあげたことを怒っているのではなかったのか?」
これには、の方が驚いた。
しげしげと尚隆を見るが、それが本気で言っているのだと分かってうろたえる。
「怒るなどと……確かに私は私の一命をもって尚隆にお仕えしたいと望み、ここに来ました。ですが、その……お后に…というのが、嫌な訳じゃ…ないんです…」
「……ならば、なぜ拒む?」
拒むという言葉を否定したかったが、かといって簡単に受け入れることもできないは言葉に詰まる。
けれど、逃げないと誓ったからには、自分ともきちんと向き合わなければならない。
「……私は倭国で、影として生きる忍でした。その性質はこちらに来てからの五百年の間にも変わっていません。尚隆にも何度か言われましたが、私は確かに無謀で無鉄砲なのでしょう……それは私の背中が軽いからです。何も背負うものなど無く、例え失敗して命を落としたとて周りには何の影響も無い。けれど、雁の后妃となれば話は別です」
「重い……ということか? 俺と同じもの――雁一国を共に背負うことは嫌だと?」
「嫌じゃなくて、私なんかには務まらないと……」
「それこそ今更だな」
淡々とした言葉とは反対の強い眼差しに、は射すくめられた。
「が死ねば、俺も王などやってる場合ではなくなるだろう。その命は、お前が望む望まぬに係わらず、既に雁という国を背負っている。今更王后という肩書きが増えたところで何も変わらん」
言われた言葉が信じられず、は思わず赤くなった頬を押さえた。みっともない表情を見られないように隠しながらも、頭の中にあることを吐き出す。
「私の髪の色はきっとまた騒乱を呼びます……后妃となれば尚更……」
「まだそんなことを気にして術を使ったのか。……俺がお前を連れてきた折にそれを隠さなかったのは何の為だと思っておる」
「分かっています。ですが少しでも……!」
「分かっておらん。慶は新王が立って日も浅く、国の端まで盤石な態勢を整えるにはまだ時がかかる。だが、雁は違う。伊達に大国などとまつりあげられてる訳では無いからな。そう易々と付け入れられはせぬ」
「それは……そうかもしれませんが……」
「お前のその術……常に気を張っておく必要があると言っていただろう。これから先、ずっとそんなままで生活するつもりか?」
――「もうの住処でもあるがな」
ここに来た最初に尚隆が言った台詞が甦る。
が自分の家として心から穏やかに過ごせるように……その為だけに、尚隆は『金髪の人間』の存在を隠さなかったのだ。
嬉しさに涙が零れそうになって、慌てて俯いた。
あれ程迷い、定まらなかった心が次第に凪いで固まっていく。
「……私はただ人です。せいぜい後50年程しか生きられない。それに――すぐにしわしわのおばあさんになっちゃいますよ…?」
の心の変化に気付いたのか、尚隆も表情を和らげていつもの皮肉な笑みを浮かべた。
「それもおもしろそうだが、やはり若いままの方が俺としても有り難いからな――お前には、雁の仙籍に入ってもらう」
「私は望んで仙籍を削って貰ったんですよ?」
「冷たいことを言うな。それとも、お前が年老いた後、俺が若い女に心を移しても構わないか?」
「それは………嫌ですね。そうなったらきっと私は黙っていられませんから、尚隆も覚悟してくださいね」
「ははははは! 相変わらず物騒な奴だ。だが、そんなところが可愛いんだがな」
「なっ……尚隆っ!」
からかいを含んだ言葉に思わず振り上げたの手は、尚隆によって捕まえられた。
「――何も心配するな。慶では無理だったと言うが、物事には必ず理というものがある。お前を仙に戻す方法も絶対に見つけだしてみせる……俺の愛しい妻だからな」
「っ……」
「そう言われるのは…嫌か?」
理屈よりもお前の気持ちを聞かせろ――そう間近から迫られたは、真っ赤になった頬の熱さを感じながら、簡単な印を組んだ。
ざっと小さな音を立てて術が解かれ、本来の色彩を取り戻したの髪が夜風の中に燐光を伴って舞う。
「……嬉しいです。貴方を…愛していますから――尚隆」
「………言ってくれる」
深く重ねられた唇の熱さは、ぐるぐると頭を占めていたお互いの悩みを霧散させるかのような熱を持っていた。
「…もう逃がしてやれぬぞ、」
「逃げません――いいえ、私こそ絶対に逃がしませんよ、尚隆」
忍を甘く見ないでくださいね、とにっこり微笑めば、今夜の襲撃を思い出したのか、尚隆の顔が僅かに引き攣った。
それに一頻り笑って、は尚隆の腕の中にその身を委ねる。
泡沫の夢のように幸福な夜は、二人の新しい生への第一歩だった。
06.6.24