爽やかな風、穏やかな空間、高価な香の焚き染められた部屋の前で、は猛烈に引き返したい衝動に駆られていた。
慶国堯天・金波宮――その外宮にある賓客用の掌客殿。
そして、今この部屋の中には二人の王がいる。
一人はこの国の主である景王陽子――彼女は問題ない。友達でもある。
問題はもう一人だ。
<――失礼します>
突然足元から声が聞こえ、は飛び上がるほど驚いた。
<景台輔の使令です>
驚いた気配を察したのか、わざわざ自己紹介して貰って、ようやくは遁甲した使令なのだと理解した。
<主上が、お越しが遅いので様子を見てくるようにと――>
言外にこんな所で何をやっているのだと責められたようなものだが、そのせいで使令にご足労願った訳だから素直に申し訳ない。
「ごめんなさい。――伺います」
スッと足元の気配が遠ざかったのを確認して、は深呼吸の後足を進めた。
衝立の脇で深く叩頭する。
「遅くなって申し訳ありません。斉暁院、でございます――」
時間は一日遡る。
堯天・愁黄郭の一室。
賑やかな酒宴の席は一転し、もはやその形跡を残さないまでに荒れていた。
「……無事か、」
息を吐き、剣を収めながら風漢が振り返った。
「勿論」
軽く返したは、いま昏倒させたばかりの碇申とそのお仲間を縄で繋いでいる所だった。
「で、こいつらは何なんだ? ただの酔っ払いではあるまい」
「ただの酔っ払いです」
「……って言ったら信じます?」
クスクスと笑って振り返ると、風漢は目を見張った。
その反応がおもしろくて、は笑いを堪えるのに苦労する。
「あなたこそ、どうして助けに入ったんですか?」
からかわれたことに憮然としながら、風漢は溜息をついた。
「があんな素振りを見せていたから何事かと思ったら、部屋からやけに派手な音が聞こえたんでな。いらぬ世話だったか?」
「いいえ、助かりました。ありがとうございます」
はにっこりと笑って返した。
あの状況で一人だったら、誰か取り逃がしていたかもしれない。
あんまり素直に礼を言われ少々面食らっていた風漢は、はっとそれに気付いた。
「っ!!」
「キャ……!?」
いきなり腕を取って抱き寄せられ、は驚いた。
しかし、すぐにその気配に気付くと、素早く懐のものを投げつける。
「ギャァァッ!」
悲鳴が聞こえた方を確認すると、腕に金属の刺さった用心棒が苦悶に喘いでいた。
ひとまず息をつきかけただったが、すぐにぎょっと身を翻した。
「風漢……!」
「……心配無用だ。大したことはない」
そう言って苦笑いしてみせた風漢の鍛えられた肩口には、用心棒が投げたのだろう短剣が刺さっていた。
「充分大したことです! 私のせいで……ごめんなさい」
「なに、女を守るのは男の役目だ」
どこからか取り出した包帯で手当てしていたは、その言葉に手を止める。
「どうした?」
「な…なんでも」
すぐに手を動かしはじめたに大人しく手当てされながら、風漢は先ほどが放ったものを眺めていた。
「あれは……クナイか? は忍か」
「! 知ってるんですか!?」
久しぶりに聞く言葉に、思わず手当てし終わったばかりの肩を掴んでしまい、慌てて離した。
「俺の領内にはいなかったが、間者としてまぎれこんだ忍となら会ったことがある」
――信じられない。
今まで生きてきた中で、海客だという人には何人も会ったが、忍の存在を知っている海客に会ったのは初めてだ。
「本当に……? 陽子も鈴だって知らないって言ってたのに……」
の呟きにニヤリと笑うと、風漢は立ち上がって伸びをしながら尋ねた。
「その陽子というのは友達か?」
「え?……ええ、そう」
「そうか」
更に笑みを深くして、風漢は趨虞を呼び寄せた。
「奇遇だな。俺にも、陽子という友が金波宮にいる」
その言葉に、ははっと身を硬くした。
「あなたは……何者?」
「本名は小松尚隆。こちらでは尚隆(しょうりゅう)と呼ばれるがな」
「尚隆……」
どこかで聞いた名だ、とは首を傾げる。
「あちらでは一応小国の若様だったが、今はこっちで雁の王をやっている」
「!! 延王・尚隆――!?」
思わず指差して口をパクパクと震わせるに尚隆は声を上げて笑い、窓辺に寄ったたまに跨った。
「陽子に、後で行くから禁門を開けとくよう伝えてくれ」
無責任な伝言を頼まれ、その後、大急ぎで碇申らを引っ立てる手配を整え金波宮に上がり、陽子に謁見し……と怒涛の行程をこなしたは、今日ようやく愁黄郭の片付けも終わったところに王から呼び出された。
恨み言の一つでも言いたいが、相手は大国の王。昨日の非礼を詫びることからしなければ――……
「疲れている所に呼び出したりして悪かったな、」
陽子の言葉に、我に返って顔を上げる。
苦笑している陽子の後ろにはおもしろそうに笑っている王らしい格好をした尚隆がいて……
「お目にかかれて光栄だ、斉暁君」
その言葉に、はむっとしながらも足を進めて座に付いた。
「延王君におかれましては、どうぞとお呼び下さい」
「分かった、。では俺の事も尚隆と呼んで貰おう」
少し驚いている陽子を尻目に、明らかに楽しんでいるであろう尚隆。
「分かりました。尚隆――様」
くくっ……ははははは!
笑い声を押さえようともしない尚隆に、笑われて怒る。
その日の金波宮掌客殿は、いつになく明るい声に包まれていた。
030322