甘やかな香りと賑やかな音楽、そして笑いさざめく喧騒が、奥まった部屋から漏れてきている。
ふぅ……
その部屋と賄い場を既に何往復もしているは、新たな酒肴の準備をしながら溜息をついた。
「やっと…か……」
「いま何か言った?」
思わず呟いてしまった言葉をその場にいた同僚に聞かれてしまったらしいが、元より言葉が通じないので焦る必要も無い。
表情と身振りで誤魔化し、同僚が去って行ったのを確認するとも再び元の部屋へと歩き出した。
風漢と話している時に来た団体御一行。
その中の一人に、は見覚えがあった。
それもその筈で、ここに潜り込んだ目的――待っていた人物だったのだ。
「失礼します」
一応断ってから入室するが、騒がしいその場には誰も気付いた者などいなかっただろう。
はしばし、座をぐるりと観察する。
そこそこ身分がありそうな男が三人、用心棒風な人相の悪い男が三人の計六人だ。
用心棒の方はもしかしたら計画に加担する刺客かもしれない……相手の力量が分からない以上は、下手に騒がない方が身の為だろう。
「おーい、もっと酒を持ってこーい!!」
「……ハイ、只今」
呼ばれて、一番上座に座る男の元に酒壺を運ぶ。
(虎賁氏、碇申――)
「ひとつ、注いでくれ」
間違いない。ずっと待っていた人物である。海客のにも言葉が分かるのが、仙籍にある証拠だった。
はひと月前、ある人から密命を受けた。
公務時の王の身辺警護を担当する夏官・虎賁氏――その位にある碇申という男が、あろうことか王の弑逆を企てているというのだ。
は訳あって景王陽子とは面識もあり、友情も結んでいる。
その陽子が狙われているとあっては、例え陽子自身からの命令でなくとも自ら進んで動きたいくらいだったので、二つ返事で了承した。
(これだけ待ったんだから、必ず尻尾掴んでやる)
任務は、碇申の動向を探ること。
碇申が愁黄郭という妓楼の馴染みだというから、わざわざ下女として潜りこんでいたのに全く姿を表わさない――そろそろ見切りをつけようかと思っていた頃だった。
そんなタイミングに、しかもいかにも怪しい連中を連れてのご登場。
大きな成果が期待できそうだ。
ちょうど碇申の側に来たのを幸いに、何から探りを入れるか……そう考えを巡らせていると、不意に酌をしていたの手が強く引っ張られた。
「おう、お前もかわいいの~。名は何と申す? 今宵ワシが買ってやろうか」
近づけられた酒臭い顔を押しのけて、は舌打ちした。
「私はただの下女ですので、ご容赦下さい」
相手はよりによって碇申。言葉に不自由しなくていいが、はっきり言ってかなり不快だ。
「固い事を申すな。ワシはもうじき、王になる男だぞ?」
ピクリ。
の動きが止まった。
(どこの豚が王と? 聞き捨てなりませんね――)
「王? 今の主上は立派な賢君だとお聞きしていますが、どういうことです?」
「フン、あんな女王が賢君なものか。……ああいや、詳しくは言えぬが、直に天の裁きがくだるだろうということだ」
言い過ぎたと気付いたのか、そこまでで口を閉ざしたのと引き換えに、への絡み方はどんどん度を無くしていった。
ガチャァァン!
あまりにもしつこい碇申を押しのけて立ち上がった拍子に、傍らの膳が派手な音を立てて引っくり返る。
しかし周囲は怒るどころか、やんやと碇申に野次さえ飛ばす始末だ。
「逃げずともよいではないか~」
デレデレと追いかけてくる碇申から距離を置こうと逃げれば、また追いかけてくる。
部屋の中をそんな風に移動し、とうとう窓際まで追い詰められてしまった。
「もう逃げられぬぞ?」
(……ここでやるのはマズイかな……でももうさっき言ってた戯言で黒なのは確定だし……)
醜い顔を近づけられ、は開いた窓から落ちそうな体勢でそれを防ぐ。
我慢も限界に達しようとした時だった。
「――」
窓の外から掛けられた声。
は目を見張った。
趨虞を連れた風漢が、立っていたのだ。
しかも抜刀している。
2階であるこちらをじっと睨み上げていた。
「たま」
素早く、数虞に跨った風漢が飛び込んできた。
(やっぱり仲間!? 殺られる――!!)
「ヒィィィィィィィ!!」
しかし、反射的に目を瞑ったには痛みは訪れず、聞こえたのは碇申の悲鳴だった。
弾かれたように目を開ける。
の顔の真横から生えた大剣は、怯えて腰を抜かした碇申に突きつけられていた。
「風漢……?」
茫然と振り返ったに、趨虞から部屋に降り立った風漢はニヤリと笑った。
「なんだ、礼の口付けでもしてくれるのか?」
「あなた………こいつらの仲間じゃなかったんですか?」
風漢は一瞬きょとんと瞬きし、ついで盛大に笑った。
「折角助けたのに一言目がそれとは……。ずっと何を警戒してるのかと思っていたが、俺はただの旅行者だ」
旅行者というのは甚だ怪しかったが、取り敢えず敵ではないのだと知って、の中に波のような安堵感が沸いてきた。
本当は、海客だと聞いた時から思考がそっちへ向いてしまいそうで、忘れようとするのに必至だった。
一度取り付かれたら、今まで張ってきた虚勢も、仕事に必要な警戒も全て剥がされてしまいそうで……
もういい加減、あちらのことなど忘れるべきなのに、まだこんなに執着しているのかと見せ付けられたようで悔しかった。
それでも、同郷の人間が……風漢が味方してくれるだけでこんなに心強い。
「とりあえず、こいつらを片付ければいいのか?」
部屋で剣を抜いている男たちを見ながら余裕で笑っている風漢が、妙に頼もしく見えた。
気が短いらしく、既に斬り合いを始めた彼に、自分も敵の攻撃を受けながら叫んだ。
「殺さないで生け捕って! じゃないと後で陽子に怒られちゃうわ!」
「陽子……?」
丁度碇申を蹴り飛ばした所だったには、風漢のその呟きは届かなかった。
030322