暁の声 - 宵舞の章2

 その日、利広は長旅から久しぶりに自国に戻ってきたところだった。
 雲海の上からでも、奏南国首都・隆洽の灯りが見え始め、そのままいつものように清漢宮の燕寝まで騎獣を乗り入れようとしていたのだが――

「ん……? あれは……人……?」

 利広は一瞬、遠目に見えたその影が、ひどく美しい獣のように思えた。
 しかし近付くにつれ、それが騎獣に乗った人間であることが分かる。
 そう言えば、ここは雲海の上なのに、とぼんやりと思った。
 凌雲山を登らずして雲海を越えられるのは、神仙と妖魔・妖獣のみ。

 まっすぐに近付いていくと、月を見上げていたその人物はこちらに気付き、口を開いた。

「こんにちは、良い夜ですね」

 ひどく場にそぐわないようで、それでいて周囲に溶け込むような…心地良く高い声だった。
 声でその人物が女性だと分かった瞬間、月にかかっていた雲が切れて、月明かりが彼女を照らした。
 利広は思わず息を呑んだ。

 強めの風になぶられた髪は深藍……色とりどりに重ねられた美しい衣裳と宝飾に身を包んだその姿は絵から抜け出てきた仙女のようであるのに、纏う雰囲気はひどく孤独だった。
 髪と同じく闇色の相貌が、動けない利広を射る。
 その場だけ現実離れしたような空間に一石を投じたのは彼女の方だった。

 ふわりと重たげな衣装が軽やかに舞ったと思うと、利広の喉元には刃が突きつけられていた。
 いくら呆けていたとは言え、腕に覚えのある自分が簡単に後ろを取られてしまったことに利広は絶句する。

「失礼します――かなりの使い手とお見受けしますが、見ず知らずのそのような方と立ち話など出来ませぬ故」
「――それは……失礼したのはこちらのようだ」

 ようやく我に返った利広はそう言って、大人しく待っていた彼女の騎獣・吉量のところへ丁重に彼女を降ろした。

「折角の月見を邪魔してしまったようで申し訳ない。私は利広という者です、姫君――」

 君は――? 視線だけで問うた言葉に、彼女は吉量に落ち着くと優雅な動作で馬首を返した。

です――私はこれで失礼しますね、利広」

 吉量を駆って颯爽と去っていく後姿に月光が射して、たなびく藍色の髪を黄金色に染めていた。
 利広はそれを見送りながら、楽しそうな笑みを浮かべた。
 それが、と利広の出会いだった――。






 その日から一ヶ月――利広はようやく溜まりに溜まっていた太子としての仕事を片付けて、隆洽の町に降りていた。
 当時、既に300年もの王朝を築いていた奏国――その一助を担っている利広は隆洽の妓楼や酒場には面が割れている。
 数年毎に河岸を変えてはいたが、毎度その度に何処の店にしようか迷うのが常だった。

 その時も、店を決めかねてぶらぶらと往来を歩いていた利広は、町の外れで賑やかな一角に出くわした。
 聞けば、朱旋の一座が来ているという。
 それ自体は珍しくないが、目玉の舞姫が評判の原因らしい。

「へぇ…"宵の舞姫"ねぇ……」

 他の客から聞いた通り名に思い出されるのは宵色の髪をした仙女だった。

 日が落ちてから予感を持って公演を見に行くと、果たして舞台の上には、利広が思っていた通りの人物――が居た。
 演目は一人剣舞のようだったが、色とりどりの重ね衣装を重たさを感じさせぬ動作で軽々と舞う動きは、今まで見たことがないものだった。
 冴え渡る舞と静かな美貌……そして何よりその深い歳月を感じさせる瞳が、人々を魅了するのだろう。

 大いに興味を引かれた利広は、その日の公演を最後まで見届けると、翌日まだ陽も高い内から一座を訪れた。
 機材の影に身を隠し、が通りざまに出会った時と反対のことをしてみる。

「――何のつもりですか、利広」

 剣を突きつけられながらも微動だにしない反応は本物だと思った。
 こちらを見もせずに犯人を当ててみせるそれも。

「覚えていてくれて嬉しいよ。また会えたね――
「昨日も来ていましたね。何か御用ですか?」

 徹底した警戒振りに、利広はおやと目を瞠った。
 朱旋の一座にはとりわけ訳ありのものが多く集まるが、は見るからに謎だらけだった。
 雲海の上に居たのだから仙籍にあることは間違いが無い。それはその瞳から見ても、見かけ通りの年齢でないことは明らかだった。
 今はひどく質素な身なりをしているから、初めて会った時のアレは、舞台衣装だったのだろう。
 見た所、実用重視のようだから、あのような動きにくい衣装は嫌いそうだが、あの時はそれを押してまであの場所に行く必要があったのだろうか。
 吉量を持っていることからしても、どこかの王宮でそれなりの身分を持っていそうだと思うが、何かしら追われているようでもある。
 しかし、現在十二国には全ての王と麒麟が揃っているし、不穏な噂も耳にしない。

、君は――何かから追われているのかい? それとも、余り人とは関わりたくない?」

 これには素直な動揺が返ってきて、利広はくすりと笑った。
 笑われたことが悔しかったのか、は思ったよりも幼い仕草で顔を背ける。

「あなたには関わりないことです。この国にも迷惑はかけませんので!」

 投げ捨てるように言われた言葉に、利広は目を瞠った。
 こうも簡単に正体を見破られるとは。

 この時点では、まだ興味本位の方が勝っては居たが、それから連日、利広は一座に通いつめた。
 





 は、朱旋の一座に身を寄せてから初めてという程に、ここ数日頭の痛い日々を送っていた。

 それというのも、ある日を境に毎日のように昼も夜も一座に押しかけてくる青年が原因だった。
 奏の卓郎君が何と言う名前かなどと知りようも無かったが、利広と名乗った青年がまさにその人物であろうことはほぼ確実だった。
 達王にも劣らないほどの剣の技量と深い年齢を重ねた理知的な瞳を持つ者など、自ずと限られてくる。
 現在、百年以上続いている大王朝は奏と雁だけだし、ここは宋王のお膝元だ。初めて会った時の旅慣れた様子から、放浪癖があるという宋王の次男に間違いあるまい。

 その利広が何を思ったのか、やたらとの元に通ってくる。
 別段何をする訳でも、男女の関係を要求する訳でもない。
 けれど、度々核心をついた質問をされれば神経は磨耗するし、頭も痛くなろうというものだ。
 更に、今では一座の用心棒のような扱いになって、食客として泊まって行く日も多い。
 つまり、昼も夜も寝ている時でさえ気が休まらず、は半ば本気で姿をくらますことを考え始めていた。

 ある時、利広に言われたことがある。

、君が何を探しているのか知らないけれど、それはここでは見つからないものなのかい? 君さえよければ、我が家に来てくれてもいいのだけれど」

 我が家――つまり、清漢宮のことだろう。
 は答えられなかった。
 初めて利広に会った時だとて、他人の中に紛れ込んだ異質な自分に耐えられず、静かな月明かりを求めて逃げて来たのだ。
 時々そのように、無性に意味の無い焦燥に駆り立てられる自分がこのまま別の王朝に迎えられたとしても、事態は何も変わらない。
 達王を想う心も、意味も無く彷徨い続ける心も、何も――



「……………」
「………………………………」
「……………えぇ~っと………?」

 そのくだりで、声をかけられたのは陽子一人だった。
 当の利広さえ二の句が告げないようだ。

(……それもそうか)

 陽子は激しく利広に同情した。
 求愛をそれと理解されていなかったのだから、不憫に過ぎる。

 尚隆でさえ、ひどく複雑な表情をしていた。
 昔とは言え、利広がに想いを打ち明けていたのには腹が立つが、この結末には男として同情を禁じえないといったところだろうか。

「えー…、それで…?」

 陽子は、もうその場は流そうと豪快な決断を下した。

「はい、その後も利広はしばらく一座に居座っていたんですけど、……まぁ、いろいろありまして、数ヶ月ほど利広も一緒に一座にくっついて各地を回りました。しばらくして私が一座を出たのが、最後ですね」
「最後って……それから……えっと…三百年ぶり?」
「? はい」
「そう――」

 この金波宮でも、事ある毎に、冗談めかしながらも「ずっと会いたかった」と言っていた利広が本気で哀れになってきた陽子は、この話はもうここで打ち切ることにした。
 友人の色恋への疎さは、浩瀚への態度を見ていて重々承知しているつもりだったが、昔からこれほどに男を泣かせてきたとは……。
 本人が気付いていないの五百年の恋愛遍歴たるや、女性には百戦錬磨であろう尚隆をも上回るのではないかと思うと、あちこちに同情が沸いてきて涙が出てくる。



 その翌日、は予定通り、慶の親しい面々だけに見送られて、尚隆と共に雁国へと旅立っていった。
 昨夜、あの話の後で遅くまで利広とが語らっていたのは知っているが、それで利広が少しでも報われたことを祈るばかりだ。

「――さあ、例の草案でも纏めるか。浩瀚、手伝ってくれ」
「……はい」

 が去って気落ちしている浩瀚に発破をかけながら、陽子は北の空を見た。
 雁に行く前に、斎暁院に寄っていくと言っていたから、今頃は瑛州の境目を越える辺りだろうか。

 昔のことはともかく、今は大事な友が延王と一緒に幸せになってくれることだけを祈りながら……

(ん? そう言えば、の雁での立場って……)

 ふと頭に浮かんだ不吉な考えに、陽子は頬を引き攣らせた。
 てっきり、尚隆の求愛に応えての転身だと思っていたが……もしや……

「……いや、考えすぎだよな、ウン」

 深く考えることを放棄して、陽子は身を翻した。

 たちが発っていった空は、どこまでも高く澄んでいた。







06.1.5
CLAP