「弱った身体で、夜更かしなんぞするからだ」
妙に厳しい尚隆の言葉に、は返す言葉も無く寝台の中で項垂れた。
「すみません……」
慶国・建州の凌雲山に建つ、斎暁院――
達王の勅命により、以来他の主人を迎えられなかった離宮は、五百年という歳月に晒されて、見る影も無く荒れ果てていた。
陽子の下に身を寄せてからずっと気になってはいたが、中々ここに来る決心がつかなかった。
しかし、達王との因縁も断たれた今、慶を去る前にどうしても一度立ち寄りたい――のたっての希望で、尚隆まで道連れにしてやって来たのだが……
「まさか、来て早々熱を出すなんて……」
吉量・サクラに乗っている時は何ともなかったのに、斎暁院に降り立った瞬間、懐かしさを感じるよりも先に眩暈に倒れてしまった。
仙籍に入って五百年の身体は、いまだ普通の人間の体力というものに慣れていないらしい。
倒れたの為に何とか寝床を作り、携帯食で看病してくれた尚隆にはいい迷惑だろうと思う。
それでも、傍に誰かのぬくもりがあるという事実が――それが尚隆であるという現実が、体調のつらさより何倍も嬉しい。
「お前は謝ってばかりだな。……いいから、黙って寝ておけ」
「はい、すみませ……あ」
思わず謝ってしまうに尚隆は優しく苦笑する。
しかし、の額に手を置いて眉を顰めた。
「まだ大分熱いな。……しかし、参った。ここには何も無いからな」
そうして、何かを探しに行こうとした尚隆を、は思わず引き止めていた。
無意識に裾を握った手を慌てて離す。
「………『ここに居て下さい、尚隆様』と言えば、居てやらぬでもないぞ?」
にやりと意地悪い笑みを浮かべた尚隆に、は真面目に言ってやった。
「ここに居て下さい、尚隆様」
まさか言うとは思っていなかったのか、驚いた顔をしている尚隆に、は吹き出した。
からかわれたと知って憮然としたまま溜息をついた尚隆の手を、は掴む。
「すみません。……けれど、本音です」
今度は優しい溜息をついて、尚隆はその場に腰を下ろした。
話題に困ったでも無いだろうが、尚隆は妙に真面目な顔でおかしなことを聞いてきた。
「――昨夜、利広と何を話していた?」
「え……?」
昨日の夜、陽子たちに利広と出会った時のことを話した後だ。
久々に随分昔のことを思い出したので、利広に誘われるまま、つい明け方まで話し込んでしまった。
そのせいで、体力が落ちていたところに風邪でも引いたのかこの有様だが、尚隆はどうやらそれを責めている訳でもないらしい。
「話の最後の方の『いろいろあって』とは何だ?」
「えー…と……」
これには、は視線を彷徨わせた。
てっきり陽子と一緒にはぐらかされてくれたと思っていたのに、流石にそうは行かなかったらしい。
正直、あまり話して楽しい内容では無かったのだが、こうも真剣に聞かれれば話さないわけにもいかないようだ。
「いろいろ…というか、些細な偶然が重なっただけなんですけど……」
昨夜利広とも思い返していた記憶を掘り起こして、は言葉に乗せた。
それは、利広が用心棒として一座に居ついた当初のことだ。
興行場所として、そろそろ隆洽から次の町へ移ろうとしていた頃、一座の持ち物が頻繁に紛失するということがおこった。
特にの持ち物――衣装や装飾品といった一座からの支給品ばかりだったが――が無くなる割合が高く、新顔の利広が疑われるのは無理からぬ状況だった。
けれど、にだけは利広に限ってそれは無いということは確信していた。
別段、太子という立場で無くとも、そんなくだらないことをする人物ではないことは明白だったからだ。
用心棒として利広も犯人を見つけようとしていたようだが、結果としては犯人はが捕まえた。
たまたま一座が張った野営場所の裏で水浴びをしている時に気配を感じて威嚇のクナイを投げた所、よっぽど驚いたのか見知らぬ男が白目を剥いて失神していた。
それをふん縛って覗き犯としてつき出したつもりが、男の懐から紛失した筈のものばかりか、明らかに高価な装飾品がごろごろ出てきた。
『舞姫のファン』だ――などと馬鹿げたことを言ったらしい男の首根っこを捕まえて、利広は爽やかな笑顔でこう言った。
「いやぁ、丁度清漢宮の宝物庫も盗難にあってね……犯人を捜していたところだったんだ。この男は小者みたいだけど、大元の情報は握ってそうだから、貰って行くよ」
その後も、が怪我をしていた天馬を見つけて介抱した時も、ようやく懐いてきたと思っていたところに、「王宮から逃げ出した天馬だよ。ありがとう」と言って持っていったり、
が術を使って苦労して仕入れた他国の情報を、たまたま垣間見た利広が「これで迷っていた次の手が打てるよ」――などと言って写し取っていったりと……
とにかく、釈然としないような偶然が次々と起こった。
「これを天命っていうんだよ」
当の利広はいけしゃあしゃあとそんなことを言っていたけれど、としては勿論おもしろくない。
そもそも、髪や瞳の色――外見を変えて見せる術は常時発動していなければならないので消耗も大きく、今までは眠るときは休憩も出来たのだが、ここの所、「特に舞姫の護衛を任されたんだ」などと言った利広も同じ部屋で休んでいる為、一日中気が抜けなかった。
そのせいもあったのだろう――
ある時、武装した集団が一座の公演中に乱入してくるという騒ぎが起こった。
不意をつかれ人質に取られたはろくな抵抗が出来ず、要求を断られ逆上した男に刺されそうになった。
それを身をもって庇ったのが利広だった。
たまたまの近くに居た為、間に合ったのだ。
「今までは私の天運にが巻き込まれていたけれど、今日は逆だったみたいだ」
刺されたのが冬器で無かった為に大事には至らなかったが、場所が内臓に近かったために、利広は深い傷を負った。
「どうして助けてくれたのです…?」
問いかけたに、利広は困った顔で苦笑した。
「まるで、助けてはいけなかったような物言いをするね」
心中を見透かしたような利広の言葉に、は赤面した。
「――すみません、折角助けていただいたのに…」
「構わないよ。人それぞれに事情はあるんだから――私だって、こう言っては何だけど、こんな怪我をするつもりじゃ無かった。私の一存で粗末に出来る命じゃないからね」
利広の言葉を聞いた時、自分が心底恥ずかしいとは思った。
何の希望も目的も無く彷徨っているだけのとは違う。
国や自分自身に誇りを持ち、強い意志と責任を持って生きている人の言葉だと思った。
利広は真に尊敬に値する人物だと、その時ははっきりと確信した。
「……その時点で利広について行こうとは思わなかったのか?」
「似たようなことを、昨夜利広にも言われました」
尚隆の台詞には苦笑を返す。
――「あの時、無理やりに攫ってでも、君を連れて行っていれば良かったと思うよ」
本当に会いたかったからずっと探していたんだ、と真剣な顔で言う利広に、は初めて利広が向けていてくれた想いに気付いた。
思い返してみて、自分でもどうして招きに応じなかったのだろうと思う。
とて、利広に好意は抱いていた。
しかしそれは尊敬や親愛の念であって、主人として仕えたいとか――ましてや恋情などといったものでは無かった。
ただそれだけのことだ。
――「ありがとうございます。私もあなたが好きでしたよ、利広」
向けられる想いに切なさが募るのは本当だったから、はそう言うだけで精一杯だった。
――「全く……よりによってあの風漢だなんて……君も見る目があるんだか、無いんだか……」
の拙い言葉だけで全てを悟って自ら引いてくれるその優しさが、心の底から嬉しかった。
「貴方に愛想が尽きたらいつでも来るといい、と……改めて誘ってもらいました」
「なに?」
本気で不愉快そうに眉を顰めた尚隆に、は微笑んだ。
再び襲ってきた睡魔と発熱の苦しさに瞼を閉じる。
「――もうしばらく眠れ」
「はい――尚隆、傍に居て下さいね」
「ああ…」
利広の想いに応えられなかった分も、この人の元で自分の幸せを見つけようと、沈みゆく意識の中では思った。
もう二度と来ることが無いと思っていた斎暁院での時間は、不思議なほど穏やかに過ぎていった――
06.1.5