「主上、お話がございます」

 そう言ってが正式な拱手を取ったのは、巧国での一件を終えて無事戻ってから、僅か半月にも満たない頃だった。

「――お暇をいただきに参りました」

 人払いした後も敬語のまま告げられた言葉に、驚かなかったと言えば嘘になるけれど、それよりも平静を装って投げかけた問いに返ってきた答えの方が、陽子にとってまさに青天の霹靂だった。

「ここを出て、何処に行くんだ?」
「実は、雁に――。…延王にお言葉をかけていただきました故――」

暁の声 - 宵舞の章1

「あの時は本当に驚いた。まさか、そんな話だなんて夢にも思わなかったから。のあんな照れた顔も初めて見たし」
「へぇ、それはそれは……私も是非ともその場で見たかったな」
「もう……陽子! 利広! あんまりしつこいと怒りますよ!?」

 麗らかな午後――慶国・金波宮は内朝の奥まった一画にある東屋で、陽子たちは午後のお茶を楽しんでいた。
 ちなみに、その顔触れたるや、景王陽子・慶の斎暁院・延王尚隆・奏の卓郎君利広といった錚々たるものだったが、本人たちにそのような堅苦しい意識は無い。
 思い出から世間話まで……話は途切れること無く花が咲いていたが、話題となるのは専ら麒麟の色彩を持つ少女――のことであった。

 先ほども、もう何度目かになるの雁行きの話しを蒸し返して少しからかったのだが、当人は案の定拗ねてしまったようだ。

 陽子はお茶を飲みながらこっそりと苦笑した。
 にはしつこいと言われてしまったが、あの時はそれほどの驚きだったのだ。


 『延王から誘われたから、慶を出て雁に行く』――要約するとそう言ったに、陽子はまさに瞠目した。
 その前の晩――それも真夜中、延王がふらりと訪れてきてしかもすぐに帰ったということは朝一の報告で聞いていたが、その時点では陽子はその詳細を知らなかった。
 に会いに来たのだろうとは思っていたが、まさかそういうことになっているとは。

「………陽子?」

 雁行きを告げた後、返事が無いことに不安を覚えた様子のを、陽子はつくづく眺めた。
 ここ数日の沈んだ様子や、『仙籍を削って欲しい』というかつてのの望みが叶った今、いつ出て行くと言い出すかと実は密かに心配していたのだ。
 のことだから、何も言わずに消えるということさえ有り得そうな気がしていた。
 だから、暇乞いをされた時はそれほど驚かなかったのだが、その理由は延王だという。

「雁の――玄英宮へ?」
「はい。――陽子の側で陽子の治世を助けるという約束をまだ十分に果たしていない身で……まして、慶の飛仙として恩恵を受けたにも関わらず……本当に何と言ってお詫びすれば良いか分かりませんが…」

 恐縮して項垂れるに、陽子は思わず笑ってしまった。
 陽子とて、周りから真面目すぎると言われることもあるが、には敵わないだろうと思う。

 確かに全くの予想外だったし、が金波宮を去るということには変わりなく寂しいのは間違いなかったけれど、それよりも嬉しさの方が勝った。
 仙籍を削る――その死へと繋がる願いだけしか無かったが、慶を捨ててまで延王と共に行くと言う。
 嬉しさに緩みそうになる頬を膨らませてわざと拗ねた風を装ってからかってみれば、は真っ赤になって焦っていた。

「全く……こんなにを頼りにしている私を袖にするなんて……そんなに延王が良いの?」
「そっ…そんなんじゃ…! そういうことでは…無くってですね……」

 のそんな反応が新鮮で、しばらくいろいろなことを聞き出しながらからかっていたら、最後には向こうが拗ねてしまったけれど……友達として、こんな時を過ごすことが出来て、本当に良かったと感じたものだった。


 それから数日経った現在、そのは、いま陽子の目の前で怒ったように頬を染めながらも大人しくお茶を飲んでいる。
 しかし、この光景も今日で終わり、明日になれば、この大切な友人はとうとう金波宮を発つことになっていた。

「ごめん、悪気は無いんだ。いい加減機嫌を直してくれ――それとも、今日は流石のも疲れた?」

 陽子の質問に、は苦笑を返す。

「…元々私は、こういったことは苦手です」

 雁行きが決まって以来、は日々を斎暁院としての挨拶回りや身辺整理に追われていた。
 その存在自体あまり公にしていなかったとは言え、金波宮で生活し働いていた数年間分のしがらみがある。
 特に今日は、高官・貴人の面会が多かった為、スケジュールも過密でもいつもより消耗しているようだ。

「それは大変だ。雁に行ったらきっともっと大変だろうに」
「ああ、心配ないと言ってやりたいのは山々なんだが、紹介しろと五月蝿そうなのが居るからなあ」

 の迎えとしてわざわざ来訪した尚隆の言葉に、陽子も同情を込めて頷くと、はあからさまに渋面になり、深い溜息をついた。

「皆様にご挨拶するのは一向に構いませんが、無用の騒ぎになるのは遠慮したいですね」

 そう言って、簡単な印を組んだ指を口元に当てて何事か呟くと、の薄い金色の髪は、一瞬にして夜の帳を吸ったような藍色に変化した。

「――しばらくは、これで行こうかと思うんですが」

 髪の色が変化しただけなのに、なぜか雰囲気もがらりと変わったような印象を受けるに、利広だけが常と変わらない笑みを浮かべた。

「そうやって居ると、まるで昔に戻ったようで懐かしいね」

 昔――その言葉に反応したのは、やはりというか尚隆だった。
 利広はよく、に対して微妙な言い回しをすることがある。
 その想いが真剣なのかそれほどでないのか、陽子には判断がつきかねるが、内心穏やかでないのはに真実の想いを寄せている尚隆だろう。
 なんと言っても、利広は今この時も、を見送ると行って金波宮に留まっているくらいだ――自国の宮にもあまりじっとしていないと評判の卓郎君には、異例のことだった。

「そう言えば、お前たちはどういう知り合いなんだ?」

 憶測するだけなのにも飽いたのか、そう切り出した尚隆の言葉に、それを向けられたと利広は同じような仕草で視線を交わした。
 それがまたおもしろく無かったのか、尚隆の眉が寄るのを見て、陽子は慌てて助け舟を出す。

「ああ、私も前から知りたいと思っていたんだ。流石には顔が広いなあと思って」

 これは全くの嘘では無かったので、笑顔も引き攣らずに済んだ。
 そもそも今までは、の昔の話を聞きたいと思っても、もしツライ記憶だったら話させるわけにはいかないと遠慮していたのだが、その点、この太子との出会いなら問題なさそうだ。
 この機会にちゃっかり便乗した陽子の台詞に、も無碍に出来ないのか渋々といった体で諦めの溜息をついた。

 利広も話すことには抵抗無いようだったが、その前に尚隆をからかうのは忘れない。

「私たちのことがそんなに気になるかい、風漢?」

 温かな湯気をたてるお茶を優雅に啜りながら言った利広の言葉に、尚隆は片眉を上げて腕を組んだ。

「いいから、とっとと話せ」
「余裕の無い男は嫌われるよ、ねえ
「結局こいつは、その余裕の無い男のところに来ることになった訳だがな」

 当人そっちのけの会話に、は苦笑している。
 二人がそれぞれの心でを想っていることが分かるだけに、陽子も違う意味で苦笑するしかなかった。

 珍しく不快げに溜息をついて、「全く…雁に行くなんて……」と呟いた利広は、溜息をついた。
 気を取り直すように、美しい庭を見渡せる東屋から視線を彷徨わせる。

 麗らかな午後の日差しを集める陽子も気に入りのこの場所は、思い出を語る場として及第点を貰えたらしい。
 利広はいつもの落ち着きを取り繕うと、ゆっくりと話を始めた。

「あれは、もう300年程前になるかな……あの出会いは、ちょっと忘れられないくらい運命的だったよ」 




06.1.5
CLAP