凛と張り詰めたような夜気が、少し微熱の残る肌に心地良かった。
軽く深呼吸して雲海の波風を頬に受けると、馴れ親しんだ潮の香りが肺を満たす。
頭に布を巻きつけ、動きやすい簡素な服を身につけたは、小さな荷だけを持って金波宮の回廊を抜けていた。
時刻は深更――普段から人の気配の少ない一角ではあるが、今はまるで無人の宮のように静まり返っていた。
は、隠れようとしている月を見上げる。
次いで行く手の下方に禁門の明かりが見えてきたのを確認して、この辺りで良いかと口を開いた。
「――サクラ」
言霊の呪を滲ませた言葉を呟いてしばし――闇の合間を縫うように、愛騎である吉量が現れた。
飛ばした指示の通りに禁門や厩舎の守り番に気付かれないように出てきたサクラを、褒める代わりに優しく撫でる。
何も言わずとも意思の通じる相棒の背に荷をかけると、もそれに跨ろうとした――その時だった。
小さな羽音が聞こえ、首を巡らせた上空から、美しい鳥が舞い降りる。
一直線にこちらに来たそれを反射的に腕に止めたは目を見開いた。
「鸞……?」
おまけにその羽色は雁国のものであることを示している。
その意味するところに戸惑い……そして近づいてくる人の気配を感じて、ははっと顔を上げた。
「このような時間に、どこに行くつもりだ?」
直前まで気配に気付かせないのは流石といえるだろうか。
声を聞いただけで心が震える事実にどうすることも出来ず、は目を凝らした。
趨虞に跨った偉丈夫が真っ直ぐに近づいてくる。
すぐ間近に降りた男は、動けないの頬に触れた。
「下は雨が降っておるぞ。散歩には向かん夜だ」
ふ、と笑んだ表情に胸が締め付けられる。
「尚隆――」
ただ茫然と呟くことしか為す術の無いは、その黒く深い瞳を見つめ返した。
巧からの使者・南鵜と会談した翌日、もう一度同じ顔触れを揃えての会見の席は設けられたが、昨日以上の意見・結論は出なかった。
南鵜は仮朝を支える太師であり、偽王を失った後の事後問題も山積している為、これ以上の逗留は叶わず帰国の途に着いた。
は南鵜だけには再び内密に翠篁宮を訪れることを約束したが、その時巧の為に何が出来るのかは分からない。
結局は巧の民の問題であることを、も無力な自分と共に痛感した。
ただ無為の時を重ねているだけの…今では仙ですら無いこの身に出来ることは、もう無いと感じた。
それに、今回のことで分かったことがある。
この髪の色――この世界では麒麟だけが持つ色彩は、が思う以上に人の心を惑わすらしい。
出来ることが無いどころか、の存在そのものが、無用の騒動の発端になり得るのだ。
(…早く、ここを出よう…)
きっとが考えていることを告げれば、陽子も浩瀚も親しい者はみんな怒ってくれるに違いない。
何を馬鹿なことを――そう言って、優しい彼らは、迷惑を被ることを覚悟の上で引き止めてくれるだろう。
けれど、彼らの負担になることだけはとしてはどうしても認められなかった。
だから、傷も少しは癒え、動けるようになるや否や、この時刻を選び、誰にも告げずに去ろうとしたのだ。
それなのに――
「尚隆……どうしてここに………」
ようやくそれだけ口にしたに、尚隆は少し不快気に眉を顰めた。
「ようやく再会叶ったというのに、言うことはそれだけか?」
そして溜息をつく。
「会いに行けぬから鸞を送った。鸞も受け取らぬから抜け出して来た。ただそれだけのことだ」
彼らしい、明快な答えだと思った。
しかしそれに対して何も弁解できないに、尚隆はずいと手を差し出す。
意味が分からず動けないの手を取り、その掌に数粒の銀を落とした。
の肩に移動していた鸞が、待ちかねたように飛びつく。
『――話がしたい』
尚隆の声でそう告げた鸞に、は目を見開いた。
「話がしたい――のことが知りたい。声が聞きたい。言葉が……欲しい」
飛び立っていった鸞の言葉を継ぐように、尚隆はそう言った。
その真剣みを帯びた声に、はとっさに胸を押さえた。
甘い痛みは胸を締め付け、呼吸さえも圧迫する。
「――でき…ません…!」
ようやくそれだけ告げると、は思わず身を翻した。
尚隆とまともに話すことなど、出来る筈も無い。
ただあの瞳の前で立っているだけでも、溢れそうな想いを押しとどめるのに必死だというのに――
そうして逃げ出しただったが、その逃走はすぐに幕切れとなった。
「待て! 俺から逃げるな、!」
体ごと捕まえられて無理やり向き合わされた顔は、幾分怒っていた。
強い言葉、強い瞳に、息が詰まる。
は耐え切れず叫んでいた。
「嫌です! 離してください!」
――後は、そなたの望むままに――
達王の別れの言葉が甦る。
しかしは激しく首を振った。
自分の望みのままになど行動できる訳が無い。
大切な人に迷惑をかけると分かっていて、どうしてそれが出来ようか。
「お願いっ……離して……!」
このまま尚隆と向き合っていれば、何を口走るか分からない。
そうなる前に、この力強い腕から逃げなければ――
「――駄目だ。許さん!」
身を捩って逃れようとしていたの体は、強い力で掻き抱かれた。
「…………っっ」
容赦無い力で抱き潰されて、はもがく。
「しょ…りゅう……っ!」
名を呼ぶと、尚隆は我に返ったように力を緩めた。
「―――すまぬ」
謝罪してようやく体を離した尚隆だったが、腕はまだしっかりと掴まれたままだった。
二人の間に、奇妙な沈黙が降りる。
少し冷静になったは、ようやく尚隆が夜着のままであるのに気付いた。
まだ冷えるこの季節――しかも、雲海の上ともなれば、気温は下界よりも下回る。
それなのに、こんな恰好で夜通し趨虞を駆ってきたのだろうか。
は自分の頭に巻いていた布を解いて、尚隆の肩にふわりとかけた。
「――風邪をひきます」
一瞬虚をつかれたような顔をした尚隆は、ややあって、そんなに柔ではないと苦笑した。
そして軽く息をついて、ゆっくりと口を開く。
「なぜ、俺から逃げる?」
「――私が弱いからです」
本当は、真剣な瞳を向けてくれるこの人から逃げたくない……その想いから、今度はまともに答えた。
出来るなら何も告げないまま去りたかったが、それは叶わないようだと観念する。
「お別れです、尚隆。――私は、下で普通の人間としての生に戻ります。もうお会いすることも……」
「会いに行く」
の言を遮った尚隆の簡潔な言葉に、は言葉を詰まらせた。
「十二国中探し回ってでも必ず見つけ出して、嫌だと言っても連れ帰る」
は目を瞠った。
連れ帰る――?
「あ…貴方も分かっている筈です。私の存在は、どこにあっても無用な混乱の火種になり得る。そんな私がどうして――」
「俺には必要だ」
今度こそ、は心臓が止まるかと思った。
「王としても、俺自身としても、俺にはが必要だ」
心が、身体が震えた。
立っていることが出来ず、尚隆に支えられる。
溢れた涙が視界を歪めて零れると、無骨な指がそっと拭ってくれた。
「お前は――?」
問いかけられた言葉は少し震えていたように感じた。
「お前は――は、どうしたい。が心から望むことは何だ」
――後は、そなたの望むままに――
望み――本当に、望みを口にしても良いのだろうか。
掛け値無い、本心からの望みを――
自分のことを『必要』だと――心から、無理やりにではない…けれど真っ直ぐに。
言ってくれた初めての人に、何も考えずにただ自分の気持ちだけを――
「――私を、尚隆の……」
「俺の…?」
ただ相手の心だけを求めている二つの視線が無防備に絡み合った。
「尚隆の…お傍に居させてください」
その言葉が聞きたかったとばかりに、尚隆はふわりと笑った。
「――許す」
まるで麒麟の誓約のようなそれに、二人は顔を合わせて笑った。
がの望みのままに――尚且つ大切な人に迷惑を掛けずに自分の想いを貫くのには、きっと問題は山積しているだろう。
けれど、この幸福を知ってしまっては、最早後戻りなど出来ない。
熱のせいかぼんやりとしてきた頭を尚隆の胸に預け、は目を閉じた。
今はただ、一人では無い幸福を噛み締めて――
05.12.2