巧国揺州・令尹――実質的に州の官を統率する地位に就いて50年――先代の王に抜擢された実働的なポストは、霧枳の肌に合っていた。
抜擢の理由は、幼い頃から持て囃された類稀なる呪師としての力なのか、大学で修めた優秀な成績だったのか、宮城で仕えた間の有能ぶりを発揮した経験だったのか、或いはその全てだったのか……今となっては分からない。
だが、確かにあの王は人の性質を見抜くことには長けていたのだろう。
霧枳は自他共に認める現場第一主義であった為、実際に民の生活と密接している州官は、自分の力を発揮できる魅力的な仕事であり、その力はめきめきと頭角を現していった。
しかし、王が倒れた途端、霧枳の周囲は一変した。
穏やかだった天候は崩れ、海は荒れ狂い、蝕が頻繁にやってきた。
王の居る時代よりも身を粉にして働いても、国土は瞬く間に荒れていった。
国土が荒廃に晒されると内海に面した揺州はひどく天災に見舞われ、宮城よりも被害が直接的な州城の中で、霧枳は一官吏でしかないことの無力感…王が居ないというだけで降りかかる厄災に絶望していった。
そして無情に沈んでいく国は、そこに暮らす民をも狂わせた。
他に例を見ないほどの荒廃ぶりに、人々は囁いた。
先の王は、度を超えた非道をしたに違いない――
やれ、麒麟を虐げただの、他国に戦を仕掛けただの、他国の王に刺客を送っただのと、噂は様々な憶測を呼んだ。
だが、そんな噂話をしていられたのも最初だけ――荒廃がひどくなると、民は疲れ果て、心身共に病んでいった。
霧枳とて例外では無い。
自分は病んでいる、とどこか人事のように悟った時、この世界の全てが憎くなった。
王の居ない国に災厄をもたらす天が、
くだらぬ事ですぐに道を踏み外すような愚鈍な王しか与えない麒麟が、
一国を…一国の民の命を任され、生殺与奪の権を一人で握っている王という存在が、
憎くて悔しくて仕方なかった。
もし、自分が王ならば――
考えた一瞬、それは霧枳の全てとなった。
呪師の仲間、大学の友人、官吏の同僚……旧知の者はこぞって霧枳に王の資質があると請け合い、黄旗が上がればすぐに昇山すべきだと言った。
そして、唐突に時は満ちた。
仕事で翠箪宮に来ていたある晩、そういった仲間たちと語らい、飲み明かしていた時だった。
――力が欲しい――
――王になりたい――
そんな気持ちは、日毎に大きくなっていた。
そして、霧枳は"呼ばれた"のだ。
明確な言葉では無かった。
音として聞こえたのかも定かではない。
けれど、霧枳には自分が呼ばれているのだということが分かった。
そして辿り着いた先にあったのは、白と黒で構成された楼閣――鎮冶楼。
中に足を踏み入れ、青白い燐光を発していた奉剣に触れた途端、霧枳はその刀身に映った幻影を見た。
金色の髪の、美しい少女。
幸せそうに笑っている彼女が誰であるのか、霧枳には一目で分かった。
朱旋の劇でも語り継がれている昔話に出てくる少女だ。
慶国達王に、2人目の麒麟と言わしめた、麒麟の娘――
彼女を手に入れれば、王になれる。
そして、この楼閣と奉剣さえあれば、呪師として霧枳に敵う者は居まい。
"呼ばれた"霧枳は、その場で、王になる為の手段とその力を授けられたのだった。
「呼んだのが達王なのか誰なのかは俺も知らないし、そんなことはどうでもいい。だが、利用されようと何だろうと、俺はこの手にあるものを使って、王になる」
王が憎いと言いながら、王であることを望む霧枳に、尚隆は小さく笑った。
まるで、出会った頃の尚隆と六太を足したようだ。
そして、昔、雁の元州令尹だった男にも似ていると思った。
「――そんなに俺の話がおもしろいか?」
「ああ、おもしろいな。結局は皆、同じ所に嵌まり込むという訳だ」
「同じ…?」
訝しげに眉を寄せた霧枳に、尚隆は首肯した。
霧枳は斡由ほど愚かではないが、斡由よりも深く病んでいる。
その狂気が……狂気の種類が、そこに行き着いた者の人生を決めるのだと、尚隆は考える。
一国を巻き込むほどの狂気…深淵は、確かに存在するのだと。
「国を憂い、天の摂理に疑問を持つ人間が自分だけだとは思うまい。そんな人間は昔からごまんと居ただろうが、皆必ず同じ所へ嵌る。――なぜ天は愚かな王を玉座に据えるのか。そうして王が居なくなった後まで災厄をもたらすのが天意だというならば、天はこの世界自体を憎んでいるのではないのか」
「…………」
無言は、肯定の証だった。
尚隆は笑った――嘲った。
それは今まで人前ではあまり見せた事の無い笑みだった。
深淵を垣間見た者だけにしか出来ないであろう闇に侵食された笑み。
「同じ所から堕ちるか踏みとどまるかは、その人間次第だろう。そして、お前は堕ちた」
「……意外だったよ、延王。あんたも此方側の人間だ。俺が堕ちたと言うなら、あんただってご同様だろう」
「さて……俺とお前、どちらの闇が深いか、試してみるか?」
改めて剣を構えなおした尚隆に、霧枳は心から楽しそうな笑い声を上げた。
「結局は、こうなると言うことか」
「女が一人に男が二人なのだから、当然だろう」
「確かに。あんたのそういう単純明快な所は俺は好きだぜ」
「男に好かれても嬉しくなど無いな」
「同感だ」
奉られていた刀剣を、霧枳は無造作に掴んで鞘を払った。
ぼんやりと浮かび上がった青白い燐光を、呪を唱えて自分の力として取り込む。
先に仕掛けたのは霧枳だった。
防御の障壁をも纏ったような重い一撃を、尚隆は愛刀で受け止めた。
「――同じ所に嵌ると言ったな。なら、あんたはなぜ"そこ"に五百年間も留まっているんだ?」
堕ちるにしても、違う道を歩むにしても、何か動きようがある筈だ。
しかし、尚隆は"そこ"に――正確には"そこ"が見える場所にただ立って居る。
そうして闇を覗きながらも玉座に留まることが、自分の仕事だと思っているのかもしれない。
「さあな……強いて言えば、借金か」
「借金…?」
「俺は我侭な麒麟から一国を任され、やがて平和になったらその一国を返すと約束した――その返済がまだ残っておるからな」
雁は驚くほど豊かになった。
五百年の治世で、国の基盤も盤石になり、ちょっとやそっとの荒廃には耐えられる。
平和な一国――その借金を返済しきる日も近いと思っていた。
"そこ"から踏み出す日も近いのではないかと。
――彼女に出会うまでは。
「五百年かかっても返しきれない借金なんて、いくら足掻いても無駄だとは思わないのか?」
「…確かにな」
霧枳の鋭い打ち込みを捌いて、尚隆は口角を上げた。
国の在り様に、最高も最低も無い。
これ以上無い発展、完璧な平穏――そんなものは、逆に現実離れしていて気味が悪い。
五百年……民が無駄だと言うのならそうなのかもしれない。けれど、そのお陰で手に入れたもの、その果てに見つけたものもあるから――
「しかし、長生きはするものだ――に会えたからな」
「――尚隆!」
不敵に笑って、霧枳の剣を押し返した時だった。
後方からかかったの声に、それが合図だと悟った尚隆は素直に後退する。
直後、から何か力が発せられるのを感じて、反射的に身を伏せた。
「――利広、しばらくお願いできますか?」
尚隆と対峙した霧枳が奉られた刀剣を抜いたのを確認したは、すかさず背後で戦っていた利広にそう尋ねた。
どこか優雅な剣筋を振るう彼からは、すぐに、勿論という答えが返ってくる。
「お手並み拝見するよ、姫君」
「…その呼び方はやめてくださいと言ったじゃないですか。全く…貴方は本当に昔と何も変わってませんね」
「それは褒められているのかな?」
「ええ――私は好きです」
くすくすと、苦笑交じりに冗談を交わして、はその場を離れた。
大分減ったとは言え、後から後から沸いてくる妖魔の群れを利広に任せるにも限度がある。
追ってくるそれらを退けながら、も急ぐべく足を速めた。
妖魔の攻撃を掻い潜りながら、円形の楼内の壁際を伝うように移動する。
自分で付けた傷から流れた血を、所々その床に落とすと、また次に移った。
その途中、不意に剣同士がぶつかる無機質な音が響く。
尚隆と霧枳の剣が重なった音だと知って、は素早く仕事を終えると、即座にその場を離れた。
高く跳躍し、楼内の壁を蹴って高度を上げる。そうやって距離を稼ぎ、くるくると体を回転させながら着地する。
丁度、利広と分かれた楼の入口辺りだった。
「――驚いた。身が軽いとは思っていたけれど、軽業師もやっていたのかい?」
「ええ、まあ……蓬莱で似たような修練を」
宙から戻ってきたに、利広は目を丸くして言った。
忍としての修行は軽業師とは根本的に違うのだが……ああいった超人的な身体能力は、こちらでは軽業師という分類になるのだろう。
普段は見せないようにしているそれを出してしまった自分に苦笑して、は印を結んだ。
「利広、ここから離れて伏せてください」
「――了解」
今度は軽口を叩かずに即座に離れた利広を確認して、は手元に集中した。
手早く幾つかの印を結び、呪を唱える。
体の中から呪力が噴出し、金色の髪が靡いた。
思ったよりも強い反応に、笑みを浮かべる。
残った妖魔も呪力を警戒して寄ってこず、準備が整ったと判断したは声を張り上げた。
「――尚隆!」
呼ばれた尚隆はその合図に軽く頷いて見せ、鮮やかな身のこなしでそこから離れた。
は目を閉じて集中し、残りの印と呪を完成させる。
「――結(けつ)」
発動の言葉に応えて、力は外に放たれた。
術者以外は立っていられないほどの強風を伴って発現したそれは、が落とした血を頂点に五芒星を象る。
そして最後に、五芒星の中心――剣が祀られていた祭壇のような場所で、が最初に来た時に残した血痕が反応した。
それを核として術が完成し、大きく強固な結界が結ばれる。
「――くっ…! 、お前…!」
「ようやく捕まえた――この結界の中からは決して出られませんよ、霧枳」
血を核として敷かれた結界は、それを敷いた術者以外はどんなに力をもった者でも何人たりとも越えることは出来ない。
は迷い無く結界内に足を踏み入れると、霧枳の前に立った。
「く…くくく、ははは! まさかお前も呪師だとはな。それもこんなに力を持っているとは」
「――私は呪師ではありません。蓬莱での技が、こちらでも使えただけのこと」
の生まれ育った村は、忍の多く育つ山奥の里だったが、妖しの術を伝える隠れ里でもあった。
だからこそ余計に余所者――特に異人などという見るからに外の人間を認めず、も母も多くの辛い目に遭ったが、普通の生活を送っていたならば一生使えなかったであろう術というものを習得できた。
こちらに流され、仙籍に入ってからは、呪力というものが備わった為か術自体も強化され、放浪生活でも役立つことが多かった。
仙籍から外れた今となってはどれ程のことが出来るかと案じていたのだが――どうやら、この楼閣のおかげで以前にも増すほどの力が使えるらしい。
「力の呼び名なんかどうでもいい。やはり、お前は俺の傍に在るべきだ――そうだろう、""?」
名の強制力で縛るように、霧枳は片手で簡単な印を結んだ。
もう一方の手には、燐光を発する抜き身の刀剣が握られている。
は霧枳の印に抗うように頭を振り、途惑い無く刀を振り下ろした。
しかしそれは、青白い燐光によって弾かれてしまう。
(――やはり…)
内心で舌打ちして、は退がった。
慶国宝重の水禺刀は、主の心の動きに聡い刀であった。
主が敵だと判断した相手には刃を向け、主を害そうとするものからは守る――その逆も然りだ。
同じような性質を持つあの刀は、今はこの楼閣の力を借り、尚且つ霧枳の意思から絶対的な防御結界を発している。
あれを解くには、霧枳の警戒心を解くしか無かった。
「諦めろ""――さぁ、こっちへ来るんだ」
「くっ……」
霧枳の呪に縛られたように、はよろよろと前へ進む。
そして、一つの賭けに出る決心を固めた。
わざわざ霧枳の力になるあの刀を抜かせたのは、結界内の力を安定させる為でもあったが、自分の中で過去とのけじめを付けたかったからというのが大きな理由だ。
――「――死ぬな」
真剣だった尚隆の声が、脳裏で鮮明に甦る。
一瞬瞳を揺らがせただったが、表には出さずに弱音を吐きそうになる自分を否定した。
(――賭けじゃない)
「さぁ、。お前が俺のものだという証を見せてみろ」
刀を捨てさせ、腰を抱いて引き寄せてきた霧枳に抗わず、は従順に行動した。
(私は、あの方を信じている――尚隆との約束は絶対に違えない)
霧枳の言葉に従うように、自分から腕を伸ばし、彼の背中に回すと、そのまま背伸びをして口づけた。
無遠慮に侵入してきた舌にも応え、もうそろそろかと思った矢先だった。
ガンという衝撃が走り、驚いて目線だけで確認すると、結界に阻まれて不機嫌そうな尚隆が見えた。
どうやらの猿芝居はお気に召さなかったらしい。
それに頬が緩みそうになるのを堪えつつ、は素早く行動を起こした。
――袖の中に隠し持っていたクナイで、霧枳の背を突いたのだ。
「ぐっ…! 何…!? 術が効いて無いのか…!?」
「――言い忘れましたが、この結果内では全ての呪力は無効化されます。この楼内のせいか、その刀剣の呪だけは例外のようで手間取りましたが」
「――ふ…なるほどなぁ。まさかこれほどの結界だとは、全くお前を見くびっていたよ。だが、、俺だって呪師の端くれ。血結界の弱点くらいは知ってるぜ――術者が自ら解くか、術者の血が流れればいい!」
振り下ろされたその刀を、は瞬き一つしないで見つめていた。
(主上―――)
「っ!」
動かないつもりだったは、尚隆の叫び声にとっさに反応した。
と霧枳は、同時に驚愕して目を見開く。
霧枳は、刀の刃が突然水になって消えてしまったという事実に――
は、思わず寸前でクナイを構えてしまったという事実に――
そして、先に我に返ったが霧枳から刀剣を奪い、相手の体に突き立てた柄の先には、眩いばかりの刃が燐光を発していた。
ふらりとよろめいて後退した霧枳の口から暗い血が零れた。
刀の柄から手を離し、は自分の刀を拾って霧枳に向き直る。
「――国を想う心は誰にも負けない貴方が、なぜこんな道に外れたことを……」
苦しげに眉を寄せたに、霧枳は口の端を上げた。
「誰からどう言われようと、俺は道に外れたことだとは思わない。この国には"この国を建て直せる王"が必要だった。自分が信じて歩いた道に、一片の後悔も無い」
それは達王の――父の、兄の言葉のようにも聞こえて、は心に刻むように目を伏せた。
「だけど……そうだな。計算違いは、お前だな、。"麒麟の娘"がお前だったことが、敗因だ。まあ、惚れた女に幕を引かれるのも、悪いもんじゃない」
そうして、「愛していた」と軽く言って笑って見せた霧枳に、も軽くため息をついて笑みを返した。
初めて見た彼の本物の笑みだと思うと、本当は胸が痛いほど哀しかった。
閃かせた愛刀が、鮮やかに軌跡を残す。
その後に落ちた首は、満足そうに微笑んでいた。
05.11.19