最初に訪れた数時間前と同じように、その楼閣の堅固な扉はが触れただけで易々と開かれた。
重く軋む音だけが、楼の年月を感じさせる。
「やぁ、。よく来たな。延王君もご一緒か」
「霧枳――…」
最上階まで吹き抜けた楼の中央――あの水禺刀に似た刀剣が奉納されている場所に、2人の側近と数名の兵を従えた霧枳が佇んでいた。
は尚隆の傍らに立ち、真正面から霧枳を見つめる。
悧角に回収してきて貰った元来の装備に着替え、髪を一括りにして""に戻ったその姿に、霧枳は楽しげな笑みを浮かべた。
まるで、飼い犬の悪戯をおもしろがっているような……余裕の笑み。
その周りには、邪気や穢れの気が蔓延している。
が本物の麒麟ならば、一秒たりとも耐えられないような禍々しさだった。
「……それは、達王が納められた剣ですね?」
「そうだ。まったく、素晴らしい力を持った方だったんだな、達王は。このような剣や楼閣を作るなど……歴代十二国の王の中でも、随一の呪師だろう」
「達王が呪師…?」
霧枳の言葉を、尚隆が意外そうに反復した。
は目線だけで肯定して、霧枳と剣に目を戻す。
霧枳と達王がどこか似ていると思ったことに疑問を感じていたが、今なら分かる気がする。
達王は、確かに優れた呪師だった。剣技も相当のものだったが、その呪力たるや凄まじいものがあった。水禺刀や碧双珠の他にも数々の御物や宝重を作り出した。
桁はずれて優れた呪師が己を保てなくなるとどうなるか――
達王の晩年は、まさにそれを証明するかのようだった。
実際に彼の近くに居たは、麒麟で無くとも目を覆いたくなるような惨状を目の当たりにした。
最初から最後まで、にだけは優しかった達王は、しかし確かにその晩年、狂気に蝕まれた残虐な王だったのである。
霧枳が達王と似ていると思った理由……それは、その瞳の狂気だけで無く、狂気に犯された呪師の発するこの気配だったのかもしれない。
そして、あの剣――あれが、達王が作った水禺刀と同じような力を持つものだとしたら……
「尚隆、霧枳にあの刀を抜かせることは出来ますか?」
水禺刀は景王でなければ草の一本も切ること敵わぬ御物だが、巧に奉納したあの剣であればそういうことはあるまい。
霧枳にも使える刀を霧枳に抜かせるということは、それに対峙しなければならないことになる。
危険を承知で口にしたに、尚隆は自信に溢れた笑みを浮かべた。
「任せておけ。誰に聞いている?」
一瞬きょとんと目を瞬かせたは、小さく笑った。
「そうですね、すみません。それでは、私も猿芝居をするかもしれませんが笑わないでくださいね」
「演技次第だな」
「…善処します」
軽く笑みを交わして、2人は同時に腰の剣を抜いた。
「実は、一つだけお役に立てるかもしれない事があります」
鎮冶楼に向かう途中、は唐突にそう言った。
「役に立つ? 一体何だ?」
「それはまだ言えません――状況が分かりませんから。ただ、私が何か合図した時には、なるべく楼の中心からは離れてください」
至極尤もな疑問を口にした尚隆に、はそれだけしか言わなかった。
それが不確かなこと故なのか、別の理由があるのか……尚隆には分からなかったが、今のならば大丈夫だろうと思う。
即位の会場から連れ出し、霧枳の支配から逃れたばかりのは、傍目に分かるほど消耗していた。
尚隆は門外漢だが、強力な呪に抗うのがいかに消耗することか……特に仙で無い者がそれを成すのがどれほど難しいかは知識としては知っていた。
華奢な体で必死に戦っているのを見るのは辛かった。
そんな状態で無理をして、とうとう倒れこんだは、初めて自分から尚隆へと腕を伸ばした。
頼られることが、必要とされることがこんなに嬉しいのは、相手がだからに他ならなかった。
そして、尚隆の腕の中で崩れるように気を失って僅か後――目が覚めた時、の顔色は驚くほど回復していた。
垣間見た過去、苦しみに耐えられぬように吐露された心情……
――「聞いてくださってありがとうございました」
最後にそう言って微笑んだあの表情が、頭に焼きついて離れない。
身体的な回復だけで無く、内面でもどこかが吹っ切れたような――輝くばかりの強さを秘めた瞳だった。
今の彼女ならば問題は無い――尚隆の背中も、命も預けられるに値すると感じた。
「分かった。好きなようにやれ――達王が建てたという楼閣が気になっているのだろう?」
最後に付け足した言葉は、いまだその心に達王だけを住まわせているに対してのささやかな意思表示のつもりだった。
恋情だけでは無く、その他諸々の心情があっては完全には尚隆を受け入れない――それは仕方ないと思っている。時間をかけて口説くしか無いと。
それでもおもしろくは無くて、つい妬心を滲ませてしまった尚隆だったが、当のはそれに欠片も気付く事無く、真剣に頷いた。
「あの方の創ったものを霧枳が使うのは危険です――それに、私は少しでも巧国に罪を贖わなければなりませんから」
鎮冶楼に入ってすぐ、大量に沸いて出た妖魔を相手にしながら、尚隆はのその言葉を思い出してため息をついた。
確かに、生死のかかった状況でぬか喜びさせられた巧の民は哀れだと思う。
しかし、その身柄を拉致され呪で縛られていたとて、立派な被害者だ。
すぐ傍で尚隆と同じように妖魔に応戦しているの横顔は頬が強張ってしまう程に真剣で、尚隆は苦笑した。
(こいつは、自ら多くを背負いすぎる)
六太辺りに言わせれば単に性格の問題なのかもしれなかったが、彼女が背負おうとしているものを全て合わせたなら、一国の王である尚隆よりも重いくらいだ。
王として自分の分だけでも精一杯なのに、男として、彼女の荷を支えてやりたいと思ってしまった。
(それもまた、おもしろい――)
不快に感じるどころか、そう思える自分が居る。
「、右だ!」
不意に殺気を感じて声を上げた尚隆に、は振り向きもせずに懐のクナイを投じた。
見事に命中して妖魔の命を絶ったそれは、恋情抜きにしても自分の手元に無いのが惜しい程の腕前だ。
「…ほう、見事だ」
素直に感嘆すると、褒められたことが嬉しかったのか、戦いの中でもほとんど動じなかったは振り返ってはにかんだ笑みを浮かべた。
守りたいと思う――支えてやりたい、と。
それは、彼女の自由をも取り上げ、独占するようなエゴでは無く、その意思を尊重して共に歩みたいという感情だった。
恋情とこの感情が並び立った時こそ、それを愛情と呼ぶのかもしれない――
初めての自覚に揺れる感情の中で、尚隆は笑みを浮かべた。
ならば、が頼ってきたことは全て叶え、陰に日向に助けてやらなければならない。
「その手始めがこれならば、相手に不足はない――か」
呟いて、相手取っていた妖魔を一刀両断した。
その瞬間、くぉん、と聞き慣れた音が聞こえた。
それは趨虞の鳴き声――利広と、彼と合流した楽俊たちの到着を報せるものだった。
「待たせたね」
「俺はともかく、女を待たせるものでは無いぞ、利広」
「同感だね。それがなら尚更というものだ」
「――利広!尚隆!」
何を戯言を言っているのだと言うように眉を顰めたに苦笑して、尚隆は目線だけで頷き返した。
呼吸を整えて、溜めた力を周囲の妖魔に向ける。
同時に攻撃を仕掛けた尚隆との前方が、俄かに開けた。
「利広、頼むぞ」
「ああ。こっちは気にしなくていいよ」
何かとに対して只ならぬ言動をする利広が気になりつつも、好機をフイにはするまいと、尚隆は妖魔の囲みを抜けた。
次に向かってきた武官らを力任せに薙ぎ払って前方を目指す。
霧枳の傍に控えた側近の二人が立ち上がって、何やら呪を唱えだした。
尚隆は身構えようと立ち止まったが、その背後からかけられた声に口の端を上げた。
「風漢、そいつらはおいら達に任せてください」
振り返ると、妖魔と戦うと利広の背後――楼の入口に、楽俊と二人の呪師が立っていた。
残りの人数は、即位式広場の事後処理に当たっているのだろう。
「――ああ、任せた」
それだけを短く告げると、尚隆は躊躇い無く霧枳に斬りかかった。
渾身の力を篭めて速く重い斬撃を振り下ろす。
しかしその瞬間、既に術を張っていたのか、尚隆の剣は見えない壁によって弾かれた。
祀られた刀剣を背にした霧枳が、くつりと口を歪ませる。
「馬鹿みたいに力一辺倒じゃ、俺には勝てないぜ――延王」
余裕たっぷりに笑ってみせる霧枳に、尚隆も口の端を上げた。
「そのようだな。確かに凄まじい力だ。これも達王の遺産の恩恵というものか」
「――否定はしないが、武力のみの人間に複雑な呪術のことを言われるのは心外だ」
「それは悪いな。その剣と玉――それにこの楼自体をお前が利用しているのは分かるが――」
「利用?」
鸚鵡返しに問うて、霧枳は笑った。
「利用されているのはこっちだ。俺は呼ばれたんだからな」
そう言って歪んだ笑みを浮かべた霧枳の瞳は、確かな狂気を宿していた。
05.11.19