暁の声 - 露月ノ章1

 ――ぴちゃん…

 微かな水滴の音に、はゆっくりと瞬いた。
 風一つ無く凪いだ水面にほんの微かな波紋を広げるかのようなそれ――

 "彼"だと、は本能的に感じた。
 そして呼びかけた。

「主上――」

 何処か遠くで、くすりと溜息のような吐息が零れた。

<私はもう、そなたの"主上"では無いよ>

 それは、泣きたくなるほど懐かしい声音。
 この五百年、求めてやまなかった愛しい声。
 しかしひどく遠くから聞こえるその意味を、は正確に理解していた。

「はい――けれど、貴方は私にとって"達王"でもありません」

 ゆらりと水面が揺れて、薄い燐光が浮かび上がる。
 の良く知る姿を取ったそれは、穏やかに微笑んだ。

<鎖は放たれた。枷は外れた。後は、そなたの望むままに――>
「……それを、貴方が言うのですか? 水禺刀の主であった貴方が?」

 にだって分かっていた。
 過去・未来・千里の彼方まで映すと言われる莫大な力を宿す呪器――それをもってして、がその先何百年もたった一人に縛られたまま彷徨い続けることを知っていたからこそ。だからこそ、彼は――

<…許せとは言わない。そなたの傍で生きられない身の上での、最後の足掻きだった。せめて、そなたの心は永劫私だけのものにしようと>
「――それでも、貴方は私を共に連れて行こうとはなさらなかった。二人目の麒麟と言いながら――」
<麒麟ならば、共に逝けた――だが、愛した娘を連れて行くことは出来なかった――>

 そして、燐光の主は――達王は、言った。
 一人に生きろと言い残し、その仙籍を削らせず、そうやって見守っていながら――その心が他へ向くのを恐れ、待っていたのだと――
 矛盾する二つの心は、登極の始めから失道の終わりまで、ずっと彼の中に在ったもの。

<そしてそなたは、見つけた。生きることを望んだ。――後は、そなたの望むままに――>

 ――幸せに――

 徐々に遠くなっていく声は、最後のその言葉を残して今度こそ消えようとしていた。
 の瞳から一筋の涙が零れる。
 遠くなっていく燐光と気配をまっすぐに見つめて、心を言霊にして吐き出した。

「ありがとうございます――さようなら、"私の愛した人"」


 燐光とは逆方向に、ゆっくりと現に浮上する意識に逆らわず身を委ねる。
 やがて眩い光が差し、は瞳を開けた。

 豪奢な天井と見慣れた室が見え、雲海の潮騒が聞こえた。
 何より懐かしい気配の数々に、金波宮に帰ってきたのだと知る。
 体を起こし、牀榻の脇に無造作に立てかけられていた宝刀に驚いて、導かれるように手に取った。
 それは現実のものであると主張するように、確かな重みと確かな質量を持っていた。
 しかし、刀身から漏れる僅かな燐光が消えていくのと同じように、それは呪の原型に解かれて宙に消えていった。

 それを見送ったは一つ微笑んで、刀が消えていった先に瞑目した。







 長年愛し、縛られ続けた人との本当の別れに、心の整理をつけようとしていたのも束の間。
 の意識が戻ったという報せが彼女の友人・知人に渡ってからは、内宮を上へ下への大騒ぎとなった。

 その筆頭が、いまの目の前にいる赤い髪の少女――景王・陽子その人である。

「聞いているのか、。妖魔に連れ去られたと聞いてから、一体どれだけ心配したと思ってるんだ!」
「ちゃんと聞いていますよ。ご心配をおかけしてすみません、陽子」

 もう何度目になるか分からないやり取りに、も同じ答えを返す。

 が金波宮に戻って七日――意識が戻って三日。
 呪の後遺症からか、霧枳と決着を受けた直後に倒れてしまったは、すぐに金波宮に運ばれたらしい。
 巧から慶までの移動に一日はかかっているので、合わせて五日も眠っていたことになる。
 宮に担ぎ込まれてすぐに陽子が碧双珠を使ってくれたお陰で外傷はほとんど消えたし、呪師でもある松伯が直に目覚めるだろうと請け負ったことから、当初は周囲も楽観していたらしいのだが、二日経ち、三日経ち、五日目にもなると、十二国一と言われる奏の呪師に診せた方が良いのではないかという話にまでなっていたそうだ。
 そんな矢先にようやく目が覚めて、世話をしてくれていた鈴によって発見された後は、政務をほっぽり出した陽子は駆け込んでくるは、それを追って景麒・浩瀚・虎嘯が来るは、騒ぎを聞きつけた桓堆や祥瓊、慶に留まっていた楽俊と利広まで駆けつけてきて、大騒動になってしまった。
 抱きつかれ、喜ばれ、怒られ、泣かれて……医者だ、呪師だ、食事だ、湯浴みだなどと甲斐甲斐しく手当てを受けて、は放浪生活百年分を凝縮したような怒涛の一日を過ごした。
 の住処は、その存在の特異性から路寝の外れ…燕寝の近くに与えられていた為、王の女御や後宮詰めの女官まで駆り出されての騒ぎとなったのである。
 それからは、"見舞い"と称して室には引っ切り無しに客が訪れ、一応は労いの言葉に始まるものの、みんな必ず説教をして帰っていく。
 無茶だ、無謀だ、考え無しだ、などという小言は耳に痛かったが、それも心から心配してくれたが故と思えば、には申し訳なさと同じくらいに嬉しさばかりが募る。

 にっこりと笑って答えたに、陽子は目に見えて怯んで深い溜息をついた。

「……はずるい。そんな嬉しそうな顔で笑われたらこっちが何も言えなくなるのを承知でやるんだから」
「そんなつもりは――」

 ――全く無いと言えば嘘になるのだが。
 の性格を良く知る友人は、その苦笑を見てもう一度溜息をついた。

「でも、攫われて捕まったのは不可抗力だったとは言え、本当に気を付けてくれよ。今のは仙籍に無いんだし、その原因だって分からないんだから」
「――はい」

 目が覚めてからの三日間で、事件のあらましの報告やお互いの状況の把握は粗方終わっていた。
 その中で、なぜかの戸籍自体が作れないという話も聞いたが、は少し驚いただけで何の感慨も抱かなかった。
 ただ、手間が省けたと思っただけだ。
 達王のことが吹っ切れた今、もう以前のように生から逃げようというわけではないが、ただの人間として一からやり直すのもいいと思っていた。
 せめてもう少し陽子の治世が落ち着くまで傍で働こうと考えていたが、こうなった以上はここにはいられない。

「ところで、例の使者だけど――」

 声音が変わった陽子の口調に、も表情を改めた。
 去る前に、片付けなければならないことがまだ残っている。

「急だけど、明日来ることになった。まだ体も辛いだろうが……」
「承知しました。同席させていただきます」
「――うん、頼む」

 陽子に頷き返して、は窓の外を眺めた。
 一月ほど前、この宮を出て調査に当たり巧に連れて行かれて過ごした日々がまるで嘘のように、穏やかな時間だった。

 夢だったのではないかと、思う時がある。
 この場所を去り、人間としての時間に埋もれれば、より一層そう思うだろう。
 もう陽子とも、雲海の上に住む友人・知人とも、そして彼とも、会うことは無い――

「――延王に言われているんだ」
「え――?」

 まるでの胸中を読んだかのようなタイミングに、知らず声が上ずった。
 陽子は実にきれいな笑みでにこりと笑う。

が無茶をしないように、見張っていてくれって」
「ああ……」
「鸞を飛ばして明日の会見のことも報せたんだが、同席できないことを悔やんでおられた。あれは慶を案じてというより、を心配している風だったけれど」
「……」

 笑みを浮かべることも出来ず、は視線を落とした。
 実は昨日の元にも彼からの鸞が来たが、終ぞその内容を聞く決心がつかなかった。
 聞いてしまったら、自分自身が揺らぎそうな気がしたから――

 穏やかな風が、そんなを嗜めるように室を過ぎていった。
 






05.12.11
CLAP