暁の声 - 煌約ノ章8

<――主上>
「…悧角か」

 突然出現した人ならざる気配に、ははっと飛び起きた。
 くらりと揺れた視界に、思わず近くにあったものに掴まる。

「器用な起き方をする奴だな。気分はどうだ?」

 眩暈が治まって顔を上げると、間近に尚隆の顔があった。
 しかも、掴まっているのが彼の腕で、今までその肩を借りて眠りこけていたらしいという事実に気付いて、一瞬赤らんだの顔は、瞬時に蒼白になった。

「す…すみませんっ! ごめんなさいっ!!」

 勢い良く頭を下げた途端にまた眩暈で体がふら付き、再度尚隆に支えられる。

「………」
「………」

 数秒沈黙が支配し、尚隆が弾けたように笑った。

 思いがけないその笑顔に、は目を瞠る。
 そして今の状況を思い出し、慌てて尚隆の腕を取った。
 二の腕と、肩口などに数箇所、裂けた服の間から切り傷が覗いていたが、既に血は止まり、傷も塞がり始めている。
 少し安堵すると共に、眉を顰めた。
 怪我の程度は関係ない。問題なのは、これはが付けた傷であるという事実――

「ただのかすり傷だ。数日経てば、跡形も無く消える」

 行動の意味を理解したのか、尚隆は何でもないことのように言ってやんわりとの手を外した。
 しかし、空いた手で服の裾を破き、尚隆の傷に巻きつけたは、自分の不甲斐なさに顔を歪ませた。

「すみ…せん…すみません……っ!」

 言葉にすると、目頭が熱くなった。
 この命を持ってしても守るべき人を、自らの手で傷つけた――

「………謝るな」
「いいえ! 貴方に――主である景王の大恩ある延王に刃を向けるなど…!」
「それは今は関係ない」
「関係なくなどありません! 前にも言った筈です。延王である貴方をお守りするのは、私のお役目です!」
「今の俺は、王では無い!」

 荒げられた声に、は目を見開いた。
 苦しげに歪んだ尚隆の瞳に、呆然とした自分が映っている。

「国と民のことを一番に考えるのは、王として当然だ。――王としては、こんな所に来るべきでは無かった。巧国の偽王は問題だが、巧と国境を接していない雁には直接は関わりの無いこと。現に六太にも散々止められたし、俺も頭では分かっていた」

 確かに、尚隆の言うとおりだった。
 利広も彼と同じような立場だが、奏は巧の隣国であり、実際に奏の呪師が行方不明になるという被害も受けている。そして何より、利広自身が王である訳では無かった。
 王が倒れれば、国は荒れる。
 ただ玉座が埋まっているかどうかの違いが、国土に信じられない災厄を招く。
 だから王は、何があっても自分の命を粗末にしてはならない。己の命を危険に晒すことは、畢竟、自国の民の命をも危険に晒すことに繋がる。

「分かっていながら、俺はここへ来た。雁の王としてでは無く、小松尚隆という一人の男として」

 ――「ただの女と男ではありません。あなたは王です!」

 前に言った台詞が、の頭で甦った。
 真剣な瞳から目が逸らせない。
 そしては――も、真剣な瞳で睨み返した。

「それでも貴方が王であることに変わりはありません!」

 真剣な双眸が交差し、先にその瞳を和らげたのは尚隆だった。

「その通り、俺は結局のところどこまで行っても王だ。――あの時も、こんな風に言い争ったな」

 あの時――それがいつのことを指すのか知り、の顔が見るからに強張った。

 慶と雁の国境近くの森の中
 妖魔から逃れ潜んだ洞穴
 安らげる筈の雨は、苦しいばかりで――
 仙籍に無い体で無茶をしたことを、尚隆は責めた。
 あの時、分かって貰えないことが身を切るほどに辛かった。
 なぜあんなに辛かったのか?
 それは……

「……そうです。あの時も、確かに悪いのは私でしたが、貴方に分かって欲しかった。――貴方は王です。一国の民の命を預かった…掛け替えの無い、ただ一人の存在。私を守る為などに、危険を犯して欲しくなかった」

 吐露したの言葉を、尚隆は僅かに目を見開いて静かに受け止めた。

「…私の父は、主の国の為に命をかけて戦い続け、死にました。私の兄は、自分の国の為に全てを裏切り、道を誤りました。主上…達王は、国を見失い、己を見失い…全てを失って、倒れました」

 瞳の中に潜んだ、ぽっかりと空いた暗い深遠――狂気に染まった、見知らぬ光。
 もう耐えられないと思った。
 五百年生きても……五百年生きたからこそ、あんな苦しい喪失には、二度と耐えられない。

「尚隆――貴方には、王として生きて欲しかった。毅然と頭を上げて、揺ぎ無い瞳で、ただ前だけを見て生き続けて欲しいと思った。――貴方の意思など何も顧みない、ただの私の我侭です。それでも私は――だからこそ貴方に――……」

 全てを吐き出すように言い募るを、尚隆は抱きしめた。
 温もりが――命の鼓動が、の心を奮わせる。

「――俺も同じだ。ただの我侭で、お前に死なれたくなかった。……無理やりあんなことをして、すまなかった」

 はっとして、は体を離して尚隆を見上げた。

 不意の口付け。
 冷たい雨の中、一箇所だけが熱を持って。
 暴力のようなそれは、遠い昔の兄の行為を思い出させるものだった。
 気付けば手を上げ、叫んでいた。
 ――「私は、思い通りに黙らせることの出来る人形ではありませんっ…!!」
 悲しかった。辛かった。
 相手が――尚隆だからこそ。

 お前の言っていたような他意は無かった――辛そうにそう囁いた尚隆に、は振り切るように目を閉じた。
 過去ばかりに囚われて、現在目の前に居るこの人にぶつけたのは、の弱さだ。

「――私こそ、すみませんでした」

 そっと触れた頬は、もう叩いた赤みさえ残ってはいなかったけれど。
 あんな風に取り乱して拒絶して、尚隆とて傷つかなかった訳が無い。
  
 困ったように眉を下げた尚隆に、は微笑んだ。
 分かって貰えないことが悲しかった。
 だけど、もう大丈夫。
 人は皆、他者に完全に理解してもらうことは出来ない。
 それでも、伝えることが大事だと思うから――
 自ら過去ばかりに捕らわれていては、何一つ自分の思うままに動けないと知ったから――

「……聞いてくださって、ありがとうございます」

 それを聞いて、ようやく穏やかに笑ってくれた尚隆が嬉しかった。
 目の前の相手にばかり気を取られていたからか、が自分の体調の回復の気付いたのは、もうしばらく後のことだった。







<偽王は、側近三名と鎮冶楼と呼ばれる楼閣に潜伏している模様です>

 霧枳を追わせていた悧角からの報告に、は眉を顰めた。
 即位式の前の鎮冶楼での出来事を語ると、尚隆も同じように首を捻る。

 尚隆に抱きついたまま眠ってしまうという大それたことをやってしまっただったが、眠っていた時間そのものは四半刻にも満たなかったらしい。
 だが、それだけの時間があれば宮を脱出することも可能だろう。それなのに、なぜ未だに霧枳は鎮冶楼に留まっているのか……あの楼閣の存在そのものが奇異であるだけに、憶測では測りきれないものがあった。

「……何にせよ、このままにはしておけまい。相手は妖魔を使役する。それに、事は巧一国では収まらぬところまで来ているしな」
「……それは……」

 正確な現状を含めた言葉の意味を問おうとして、は言葉を止めた。
 背後に気配を感じてとっさにクナイを投げ…ようとして、自分がいつもの装備では無いことを思い出す。
 いつもは動き易い服の下にクナイや暗器を忍ばせているが、今は麒麟としての動きにくいひらひらとした襦裙に、武器は愛刀一本だけだった。

「誰っ!?」

 代わりに刀を構えて誰何した声に、その気配の主はくつくつと楽しげな笑い声で返した。

「その、顔に似合わず血の気が多いところは昔のままだね――いや、昔よりもひどくなったんじゃないかな?」
「「利広!」」

 そこに佇んでいたのは、趨虞・星彩に跨った利広だった。
 彼を呼ぶ声が重なった尚隆とは顔を見合わせる。

「知り合いだったのか?」
「ええ、まぁ……昔にちょっと会っただけですが」
「ちょっとだなんてつれないなぁ、宵の舞姫。君に数多言い寄る男たちの中で、君の部屋に入れて貰ったのは私だけだったと記憶しているけれど?」

 軽く目を瞠った尚隆に、は珍しく狼狽した。

「誤解を招くような言い方はやめてください!」
「誤解も何も……真実なのだからしようが無い。でもその様子だと、君にもう一度会いたいと願っていたのは私の方だけだったみたいだね」

 わざと芝居がかった仕草で涙を拭う利広に、は思わず頭を抱えた。
 昔よりもその性格に磨きがかかったのは、利広の方だと言いたい気分だ。

「もう何とでも言ってください……それより、どうして利広がここに? …奏も何か絡んでいるということですか?」

 尚隆が利広のことをどこまで知っているか分からない……そう思って油断無く紡いだ言葉に、二人はあっさりと頷いた。

「奏で、有名どころの呪師たちが相次いで姿を消すという奇妙な事件があってね。それを追っている内に、君が攫われる現場に行き合わせたんだ。その場にいた風漢に事情を聞いて、協力することになってね」
「どうも、霧枳が抱えている呪師たちがそれらしいな。あれをどうにか取り戻せれば、戦力も殺げて一石二鳥なんだが……」

 利広と尚隆の説明に、は感心するように頷いた。昔から何かとタイミングの良い利広だったが、今回もそれは最大限に発揮されたらしい。
 そしてまた都合良く、霧枳の呪師たちには何度も顔を合わせているは彼の欲しい情報を持っているのだからおもしろい。

「呪師たちには操られているといった様子は見られませんでした。進んで力を貸している者もいるかもしれませんが、恐らくは大半が人質などを取られているのでしょう」
「なるほど――どうやらそれで間違いなさそうだ。行方不明の呪師たちは、家族ごと行方をくらました者が多い」
「ならば、まずはやはり親玉を何とかするしか無いということだな」

 利広と、六太の使令である悧角にも手伝って貰うことになり、三人は改めて情報や意見を出し合ってこれからの行動を話し合った。
 尤もは専ら情報を提供する側に回り、尚隆と利広の話を聞いているだけだったが、流石数百年王朝を支えてきただけはある二人の手際に感嘆した。

「それじゃあ、私は楽俊たちと合流して伝えてくるよ。伝えたら、すぐにそっちに向かう」
「ああ。こちらと違って使令付きではないのだから、気を付けろよ」
「ご忠告痛み入るよ、風漢」

 また後で、にそう言い残して去っていった利広を見送って尚隆は口を開いた。

「――、お前はどうする?」
「私は……」

 尚隆の言葉の意味を理解して、は一瞬言いよどんだ。

 一度操られていた体は、その呪師の支配下に置かれ易い。
 もしそうなれば、折角助け出してくれた尚隆たちの尽力が無駄になるばかりか、とんでもない迷惑をかけることになる。
 操られることが無くても、体調も悪く、仙籍にも無い身であれば、足手まといになることも必至だ。
 安全な所で大人しくしていろ、と言いたいのが本音だろう。

 だが、尚隆は敢えて、判断をに委ねてくれた。

 そしては、その返事の―― 一言の重みを理解していた。
 理解していながら、尚隆の心遣いに甘えてその言葉を口にする。

「私も、鎮冶楼に行きます」

 尚隆は、そうか、と言っただけだった。
 長い付き合いでは無いが、が一度言い出したら聞かない性格なのを見抜いていたのかもしれない。
 そして彼には、このの我侭な無謀をも背負えるだけの力があるのだ。
 結局尚隆に全面的に甘える形になってしまったことに、は自嘲した。
 だからかもしれない。「一つだけ言っておく」と言われた言葉に、あんなに驚いたのは。

「――死ぬな」

 懇願にも似た響きに、は目を瞠った。
 以前に仙籍を削ってもらうことこそが望みだと告げた時に垣間見た表情と、先ほどの「我侭」だと言った言葉が思い出される。

「……はい。貴方も、死なないで――」

 胸を締め付けてくるような痛みに、は掠れた声でそれだけ言うのがやっとだった。
 真剣な尚隆と、何のしがらみも無く、正面から向かい合うのは初めてだと、その時ようやく気が付いた。
 約束する――そう答えてくれた尚隆の言葉が、嬉しかった。
 合わさった視線は外すことが出来ず、この瞬間、の中に新たな『約束』が確かに生まれたのだった。







05.10.31
CLAP