頭が割れるように痛くて、そこから全身が焼けるようだった。
呼吸が辛く、苦しくて、肺が悲鳴を上げている。
立っているのもやっとの状態なのに、我ながらよく走り続けていられるものだと思う。
いや、それさえも惰性で、立ち止まることさえ出来ないのかもしれない。
しかし、その瞬間は唐突に訪れた。
心臓を鷲掴みにされているような圧迫感が全身を包み、全身の血が逆流する。
もう限界だ――そう思った時には既に遅かった。
くらりと傾いた体は、固い地面にぶつかる前に、大きな力強い腕に支えられていた。
「大丈夫か?」
今日、久しぶりに再会して以来だけで何度目かになる質問を彼――尚隆は繰り返した。
しかし苦しさと必死に戦っているの方は、これまでと同じ答えを返せずに、沈黙する。
答える余裕すら無い自分には苛立ったが、少しでも気を抜けば体の主導権を奪われそうな強制力に、今は何より耐えるしかない。
次に術中に取り込まれれば、体力的に言ってもしばらくは抗うことすら出来ないだろうことが分かっていた。
再び偽の麒麟を演じさせられたり、況してや尚隆に刃を向けるくらいなら、ここで苦痛に倒れてしまった方がいい。
鎮冶楼で気を失い、再び捕らえられたは、一応の手当てと呪を施され、その一刻後には霧枳と並んで即位式の場に立たされていた。
意識はあるのに体が思い通りにならない焦りが、の気力も体力も蝕んでいく。
しかし一旦呪が解けかけたからだろうか――いつもよりは明瞭な思考の中で、は一つの事ばかりを考えていた。
鎮冶楼に辿り着く前に見かけた、武官の格好をしていた尚隆――彼は無事なのだろうか。
もう霧枳に会っただろうか、お互いに正体を知っただろうか。
彼の邪魔にならない為には、自分は一体どうすればいいのだろう。
とりとめも無い思考は、いよいよ式典の終盤になって焦りに変わった。
本当にこのまま霧枳が偽王のまま即位して、このままが麒麟として民に宣誓してしまえば――
先の塙王は、事もあろうに景王になったばかりの陽子の命を狙ったと聞いていた。
虚海を越えてあちらにまで刺客を差し向けたと。
余りの道を外した行いに天の怒りは深かったのか、国土の荒廃は他に類を見ない程速やかだった。
そんな巧を、陽子に出会う以前に旅をしていたので、は実際に知っている。
そこに暮らす哀れな民を、天意共々偽るなど――。
ここが巧国だと知って、その罪悪感は更に強くなった。
達王が案じ、国土鎮撫の為の楼閣まで贈った国を乱す片棒など、絶対に担ぎたくない――
順調に進んでいく儀式の中で、の焦りが頂点に達したその矢先だった。
即位式に乗り込んでくるという前代未聞の荒業をやってのけた尚隆に、は内心目を瞠った。
身を飾っている訳でも、重厚な武装をしているわけでもなかったし、それどころか敵地の真ん中に一人で立っている不利極まりない状況の中で、彼は誰よりも威風堂々と佇んでいた。
麒麟の知覚とはまた違う"王気"というものを以前陽子にも感じたことがあるが、その時よりもずっと鮮烈で眩いほど。
「を返してもらおう」
尚隆がそう言った時には驚いた。
もしかして、と期待してしまう自分がいたことは確かだが、そんなこと――囚われた自分を助ける為に来てくれたなどと、夢物語のようなことは到底信じられなかった。
延王として、近隣の国を乱す輩を見過ごしておけなかっただけのこと――そこにたまたまが居ただけのことだ。
その考えは、一人の青年の登場で確信的ものに変わった。
聞き覚えのある声と名前……おまけに顔まで持った青年は、随分昔に会ったきりの友人に似ていて……驚くの身柄を太師から奪うと、その耳元で楽しそうに囁いた。
「やぁ、久しぶり。まさかこんな所で会えるとは思って無かったけれどね――宵の舞姫殿?」
(利広――!)
どうやら友人本人に間違いないらしい彼は、わざわざ出会った頃のの呼び名を使う辺り、昔同様どこも何一つ変わっていないようだった。
正体を明かし合ったわけでは無いが、は彼の素性を何となく察していた。
だからこそ、奏の隣国・巧の偽の即位式に彼が現れてもおかしいとは思わなかったし、彼や尚隆の目的にも疑問を感じなかった。
だが、腑に落ちないのは、雁国の大学に居る筈の友人――楽俊まで居たことだ。
以前も尚隆の依頼で、柳の様子を見に行ったりしたことがあると聞いているから、こういった争いの場には向かない六太の代わりに手伝いとして来たのだろうか。
それにしても、一見タイプも性格もバラバラな三人なのに、見事としか言いようの無い連携と手際だった。
特に、これだけのことが出来る呪師をどこから探し出してきたのだろうかと思う。
あの広場に詰め掛けた何千・何万もの人間の大半に一度に術をかけるだけの技量―― 一介の呪師に出来ることではない。それはにはよく分かる。
そして、二度目の術――まともに仕掛けられた周囲の屈強な武官たちは、次々に膝をついた。
先に霧枳たちに対して眠りの術を使わなかったのは首謀者としていろいろと聞く事があるからなのだろうが、今度こそ一網打尽に拘束出来るだろう。
これで、尚隆たちの勝ちだ――そう思って疑わなかったは、煙が晴れてその場に霧枳と側近たちが立っているのに目を丸くした。
「やはり、お前自身も呪師だったか」
尚隆の言葉を霧枳が肯定する。
態度は飄々としていていつもと変わりなかったが、その瞳は冷たい色を宿していた。
離れたからも、その瞳の危うさにぞくりと背中が凍る。
そしてすぐに二人の真剣勝負が始まった。
一見しただけでも、やはり尚隆の方が優勢だ。十二国一という評判は伊達では無い。
しかし、押されている筈の霧枳は、この勝負自体を楽しんでいるようにも見られた。
二人が剣ごしに語る会話の中で、今回の騒動の原因が自分の存在に在ると知った……いや、再確認させられた。そして――
「『私には今2人の麒麟が居る。慶は手遅れだが、巧は必ずやその仁道によって鎮まる日がくるだろう』――」
霧枳が<昔話>だと言ったその話は、も以前から知っていた。
さほど有名な話というほどではないようだが、朱旋の民と共にこの巧国を巡っていた時に、芝居という形で見たのだ。
この目で鎮冶楼を見るまでは胡散臭いと思っていたものの、自分の存在がこうも美化して語られているという…現実とはかけ離れた事実に、困惑すると同時に嫌悪のような感情を抱いたものだった。
尚隆も達王から聞いての存在は知っていたというし、彼の行動の因果が自分に巡ってくるのは、そういう宿縁…因縁なのかもしれない。
だが、例えこれが運命なのだと言われても、このまま偽麒麟の役を演じ続けるなど、には到底出来なかった。
何とか背後に居る利広と言葉を交わして、呪を解いて貰わなくては……
そう思って、呪縛に抗おうとした瞬間だった。
「!」
その声音に、の身体は瞬時に反応する。
抗いがたい激痛が体中をかけ巡り、脳を伝って手足に勝手に命令する。
(!? 利広――!)
後ろ手に拘束されていた腕から逃れ、腰を落とした蹴りがまともに利広の腹部に入った。
衝撃に倒れこんで咳き込んだ利広を案じている間にも、霧枳の命令通りに動く体は、刀を取って階を下りる。
しかし次の命令には、自由の無いはずのも凍りついた。
――「延王・尚隆を殺せ」
どんなに抗っても――抗えば抗うほど激痛を味わうだけの身体は、霧枳の命令に忠実に躊躇無く動く。
「っ!」
呼ばれた声に、合わさった視線に、は泣きたくなった。
こんな状況でも逢えて嬉しいと――そんな風に思ってしまう浅ましさと、尚隆に剣を向けるのを止められない不甲斐なさと……様々な感情が合さって頭が混乱する。
そうしている間にも、霧枳の掌中にある""は的確に急所を狙った攻撃を繰り返した。
全て反撃せずに受け流すだけの尚隆に、の自我がある時よりも容赦ない連撃が打ち込まれる。
そしてとうとう、その内の一撃が尚隆の腕を掠めた。
(駄目! やめて――!!)
そのまま尚隆の首を狙っている自分の視線に、血の気が引いた。
激痛の中、一瞬だけ強制力が弱まり、後ろに大きく飛んで間合いを開ける。
――「!?」
――「!!」
荒い呼吸の合間に、の心は尚隆の声に、身体は霧枳の言葉に反応した。
「殺せ!殺せ殺せ殺せ殺せ――!!」
今までよりも一際強く、身体が痺れた。
普段よりも躊躇無く踏み込む足、力いっぱい刀を振り下ろす腕――何もかもが思い通りに動かず、尚隆の傷が増えていく。
(やめて!やめてやめてやめて……!!)
術に抵抗して痛む体よりも、心の方が切られるように痛かった。
気が付けば、視界が歪み、涙を流していた。
目の前の尚隆が一瞬目を瞠り、次いで唐突に抱きしめられた時には、一瞬呼吸も止まった。
抱きしめられる力が強くなるのと比例して、術の強制力が弱まるのが分かる。
ようやく取り戻した体の主導権を離さないように、は尚隆の服をぎゅっと握った。
「尚…隆……」
どうにかそれだけ口にした言葉は、ひどく掠れていた。
「すみま…せん…」
心配そうに覗き込んできた瞳に、そう言うだけで精一杯だった。
言いたいことも聞きたいことも数え切れないくらいあるし、何よりもっときちんと謝りたかったが、頭も口もまともには機能しない。
やがて、そんなたちの周りを、陰形から現れた妖魔が取り囲んだ。
舌打ちした尚隆はを担ぎ上げ、利広と楽俊に呼びかけて囲みを破るべく駆け出した。
しかし、数が多すぎて、流石の尚隆でもすぐに足を止められた。
尚隆の大きな背中に担がれて庇われているだけの自分に、は眉を顰めた。
こんな不甲斐ない醜態をこれ以上晒したくない――文字通りお荷物になっているだけの存在など、例え自分自身でも許せなかった。
「! っ……!」
殺気に反射的に振り返ると、妖魔の一体がその凶悪な鉤爪をこちらに向かって振りかぶったところだった。
反射的に尚隆の背から滑り降りたは、不安定な体勢から何とかその攻撃を受け止める。
「!?」
「少しくらいは…戦えます…」
驚きに目を瞠って振り返った尚隆と視線が合い、は息を上げながらもそう返した。
護られなければ側にいられないような…そんな存在でいるのは、嫌だった。
尚隆の助けになりたい…それが無理なら、せめて迷惑をかけずにその側に在りたい――
トン、と一瞬だけ触れた背に、胸が熱くなる。
初めての感情に戸惑いに揺れたの瞳は、尚隆の一言で大きく見開かれた。
「頼もしいが、ほどほどにな。後ろは任せる」
――任せる。
「――はい…!」
その最大級の信頼の言葉に、は身体の苦痛も忘れて大きく頷いた。
何にも勝る一言に、身体の苦痛など塵にも等しかった。
利広や楽俊と共に居た呪師たちの奮闘もあって、無尽蔵に思われた妖魔の囲みも徐々にその数が減っていき、も尚隆と背中合わせに戦っていた手を休めた。
「尚隆、霧枳たちが…!」
視界の端に映った光景に顔を上げると、側近らの助けを借りた霧枳が、退路に妖魔たちを配して逃走するところだった。
即位式典は阻止できたが、このまま彼を逃がせば厄介なことになる。
何より民衆は、霧枳を王と――を麒麟と信じ込んだままなのだ。
「追うぞ!」
「はい…!」
逃がしてはならない――その思いから、反射的に頷いて尚隆について駆け出しただったが、自嘲するべきだったと、後の今になって後悔していた。
気持ちの上ではどうであれ、衰弱した体ではすぐについていけなくなることは自明だ。少し冷静になって考えれば分かったのに……
が立ち止まったことで、ただでさえ見失いそうだった霧枳たちの背中は完全に見えなくなってしまった。
「す…みません……」
情けなさに、思わず涙が出そうになった。
ここで泣くことなど出来ないけれど、許されるなら一人になって思い切り泣きたい心境だった。
「いや、どうせ人間の足では追いつけまい。悧角に追わせている。後でゆっくり行けばいい」
落ち着いた尚隆の言葉に、も少し冷静になろうと息をつく。
しかし、自力で立とうとした足も全く力が入らず、また尚隆に支えられた。
抱きしめられるような形になって、すっと痛みが和らいでいくような感覚には目を細めた。
尚隆の服に焚き染められた解毒の香がの術にも作用しているのか、それとも……
やがて、体が離れる気配に、はほとんど無意識に離れるまいとして尚隆の服を握り締めていた。
「――もう少し」
「……?」
「…もう少し、このままでいさせていただけませんか…?」
「……………」
自然と出た言葉に羞恥を感じなかったわけではないけれど、無言で抱き返してくれた腕に安堵して、はそのまま瞳を閉じた。
――やっと、戻ってこれた……。
不思議と自然に零れた感情に抗わずに、心も身体も委ねる。
充足していく――満ちていく何かの感覚を抱きしめるように、穏やかな気配に微笑んだ。
05.10.31
CLAP