どこか淀んだ曇天に、地を這うようなドラの音が響き渡る。
街には宮城の吉事を告げる幡が翻り、幡に導かれるように熱狂した民が我先にと王宮の麓にある大門につめかけた。
式典の会場である広場には宮廷百官が整然と並び、その後方には溢れんばかりの民が今か今かとその時を待ちわびている。
やがて合図のドラが三たび鳴り響き、長い階の中程に、黒衣の大裘(だいきゅう)に身を包んだ男と金色の髪を靡かせた娘が姿を現した。
彼らがそこに立った――ただそれだけで、傲霜という街一つが割れるかと思うほどの大歓声が沸き上がる。
黒衣の男はそれに手を振って応え、金髪の娘を伴って階段を上り始めた。
二人は最上段に設えられた玉座の一歩手前に立つ初老の男――前朝廷の太師の前に進み出る。
天に乞うて玉座を得る、形式的な祝詞が読み上げられ、最後に新王が太綱の最も有名な一節を復唱した。
「天下は仁道をもってこれを治む」
新王が宣言して、それを受けた太師が承認の証となる符を授けようとした――まさにその瞬間だった。
突風が吹き、式典の為に立てられた篝火の幾つかが吹き消える。
それとは反対に、風上の篝火は風に煽られて勢いを増した。
ただでさえ凌雲山に遮られて陽光の届かない広場は、篝火が減った今、曇天も手伝ってまるで夜のような薄闇が降りていた。
闇の中、風で荒れ狂った炎が火の粉を上げてじりじりと空を焦がす。
しかし、不意の沈黙は長く続かなかった。
燃え上がった炎の中から、煙と共に甘い香りが立ち上る。
風に乗って辺りに広がったそれらは、参列していた官吏も民も諸共に飲み込んだ。
突然の出来事に呆気に取られていた彼らの大半は、香りを吸ってゴホゴホと咳き込む。そして間を置かずして、次々とにその場に昏倒した。
階の上にある玉座付近はともかくとして、風下にあたる大部分は逃れようが無く、一瞬の混乱の後、辺りは再度の沈黙に包まれた。
倒れなかった一握りの人々も吹き荒れる風に乗った煙に巻かれ、新王――霧枳が我に返った時には、あんなに大勢居た内、その場に立っているのは階の上に居て煙を逃れた人間のみとなっていた。
時間にして、僅か数分…いや数十秒の出来事……
霧枳は信じられないものを見るように、よろよろと数歩進み出た。
「馬鹿な……一体何が……」
「――天が認めぬという証だろう」
低く威厳ある声が、風に邪魔されることもなく階上に届いた。
霧枳はその聞き覚えのある声にゆっくりと視線を巡らす。
王の身辺警護の為に階の中程に立っていた武官――その一人として式典に潜り込んでいた尚隆が、真っ直ぐに霧枳を見上げていた。
「人を攫い、妖魔を操る偽王が"仁道"とは笑わせる」
片手に持っていた剣を抜いて、尚隆は言い放った。
「を返してもらおう」
霧枳に庇われるように後ろに立っていたと尚隆の視線が重なった。
しかし、はぴくりとも動かない。その瞳には何も映っていないようだった。
この状況が尚隆たちの仕業だと知り、そしてが呪に完全に縛られているのを確認した霧枳は、ようやく余裕を取り戻したのか、歪んだ笑みを浮かべた。
人形のように飾り立てられたの手を引き、腕の中に引き寄せる。
「愚かな王ばかり押し付ける"天"なんか知ったことじゃない。それよりも、こうして麒麟の娘がこの手にあることこそ"天の采配"というものだろう?」
「天の采配か――ならばこの辺りで一つ決着でもつけてみるか? 勝敗も天の意思だと思えばお前も納得できるだろう」
「――いいだろう。望むところだ」
あからさまな挑発を受けた霧枳は、尚隆を警戒するように取り囲んでいた兵たちを下がらせると、兵の剣を借りて尚隆の目の前に立った。
尚隆は、霧枳に悟られぬようにの様子を窺う。
彼女は怯える太師に抱かれるように護られたまま、階上から無表情にこちらを見下ろしていた。周囲の衛士の注意も全てこちらに向いているようだ。
(――悧角)
尚隆は、自分の影に遁甲した使令に小声で合図した。
御意、という返事が聞こえ、気配が消える。
そして時を置かずして、霧枳の背後から大きな影が飛来した。
薄暗い広場にその影は違和感無く溶け込む。
こちらからあちらは見えないが、あちらには使令が付いているのだから、この暗がりの中でも問題ないだろう。
それを証明するように、"彼"は乗っていた趨虞から悠々と目標地点――の傍に着地すると、と共に居た太師を手刀で昏倒させた。
「――姫は救出したよ、風漢」
"彼"――利広はそう言ってニッコリと笑った。
念のために後ろ手に拘束した利広にも抗わないを確認して、尚隆はようやく安堵の息をついた。
それと同時に、風上の篝火がもう一度激しく燃え上がり、先ほどと同じような甘い香りが辺りに充満する。
今度は量も多く、階上も例外なく全てを包み込んだ。
「………」
尚隆は篝火の方に軽く頷いて見せた。
そこには、潜んでいた楽俊と雁・慶からかき集めた選りすぐりの呪師たちが居るはずだった。
目には目を――そう言っての奪還にこちらも呪師の力を借りようと提案したのは、自国の呪師を利用されている利広。
最初から見物の民に紛れ込んでいた呪師たちは、楽俊と六太が大学等の伝手を頼って見つけてきた知識人ばかりで、"斎暁君"の名を知る者も多かった。
全てを話して正式に景王陽子からということで協力を依頼し、快く引き受けてくれた者ばかりだ。
彼ら協力してくれた呪師らは、尚隆でも驚くほど、実に多くの知識と術を持っていた。
最初に風を呼び、香を使って眠りの呪をかけたのも、いくら数人がかりとは言え一度にあれだけの大人数を術中に誘うのが成功するのかどうか……正直半信半疑だった。
いらぬ混乱を防ぐ為には必要なことだったが、これで呪師らもほとんどの力を消耗したに違いない。
そして、この二度目の術……体を一定時間麻痺させる強力なものだという。
を安全に確保した時点で決行すると決めていた。
予め解毒の香を吸っている者、呪そのものに耐性のある呪師等の他には、即効性の絶大な効き目がある。
「……やはりな」
香が混ざった煙が晴れ、階上に残った人物を確認して、尚隆は口の端を引き上げた。
利広と解毒の香を与えられた、そして――霧枳と側近2人。
「やはり、お前自身も呪師だったか」
そうでなければ説明のつかないことがあった。
慶から雁への連絡船……そこから一旦海に逃れた後入り込んだ森の中……妖魔に特定の人間を襲わせる為には条件があることを尚隆は知っていた。
呪師本人がその場に居るか、もしくは目標に何らかの目印を付けておくか――
視界の悪い森の中ならばともかく、船の中で怪しかったのは間違いなく霧枳一人だった。
あの時点でが何らかの目印を付けられていたとは思えないし、そうなれば答えは一つしかない。
「よく分かったね」
おどけたように言った霧枳……しかし、その目は最早笑っていなかった。
睨み合いは、ほんの一瞬。
邪魔な大裘の上衣を脱ぎ捨てて斬りかかってきた霧枳の剣を、尚隆が紙一重でかわす。
は、それを人形のように黙って見つめていた。
心では、気も狂わんばかりに呪からの解放を叫び、尚隆を案じながら――指一本動かせずに勝負の行方をただ見ていることしかできなかった。
05.10.15