水滴の音が聞こえる夢を見た。
自分が時間という概念に囚われることなく、過去・現在・未来……それらの次元から離れて物事を傍観しているような…そんな不思議な夢だった。
それは覚えのある感覚……遠い昔と、つい最近にも見たことのあるものと同種の夢。
かつて、二度とも哀しさしか感じなかったその夢は、しかし今回は決して辛いものではなかった。
以前に見た時と違い明瞭なビジョンは見えなかったが、その夢の中にいる時はは終始とても穏やかな心地でいられた。
誰かに護られているような……そんな優しい感覚。
実際この夢に、捕らわれの身であるの精神がどれだけ助けられたかしれない。
薬が切れて拘束力が緩んでは、逃げる。
逃げた先からすぐに捕まり、また薬を増やされる。
霧枳が"王"だと知ったあの日から、毎日がそれの繰り返しだった。
バカみたいにただがむしゃらに逃げても仕様が無いとは分かっているが、機会を窺おうにもあれ以来ますます監視が厳しくなり、外の様子は皆目分からない。
せいぜいが、運に任せて脱走を試み続けるくらいしか術が無かった。
これ以上一時でもあの瞳の傍に居ることが耐えられなかったのもあり、は呪が緩むのを見計らっては逃亡を繰り返した。
普通ならば消耗していく一方のそんな毎日の中で、が不思議と少しずつでも力を取り戻してこれたのは、あの夢の影響が大きかった。
あの夢が、の心を護ってくれたからこそ、は壊れずにすんだのだ。
しかし、数回試みた逃亡は成功することなく、無情に時だけが過ぎ、いよいよ偽王――霧枳の即位式当日になった。
いつもの部屋で早い時刻から念入りに香と薬湯を与えられ、呪を幾重にも重ね掛けされる。
着替えと化粧を施され、監視がついた部屋でただの置物のように待たされている間、このまま霧枳の成すがままになってしまうのかと、は正直諦めかけていた。
予想もしていなかった不意の好機が転がり込んできたのは、そんな時だった。
霧枳の息がかかった者で固められたの周囲が俄かに慌しくなり、監視についていた人数が減った。
それだけなら自由を奪われたにはどうすることも出来なかっただろうが、唐突にあの夢の水音が聞こえ出したのだ。
意識がある時に聞くのは初めてだったのでも驚いたが、妙に納得も出来た。
このタイミングでこんな奇跡が起こるからには、にはこれを奇跡で終わらせない義務がある。
だから、次第に感覚の短くなっていくその水滴の音が波紋のように広がり、を縛り付ける力が緩んだ時も、戸惑う暇も無く動いたのだ。
(主上……)
心当たりは、昔愛したかの人の面影。
あの夢と、この力……こんな奇跡を起こせるのは、あの水禺刀をおいて他には無い。
どういった訳かは知らないが、慶国の宝重であるはずのあの刀が近くに在るのだけは確かだった。
(護って…くださるのですね……)
かの人――達王が力を貸してくれているのだと、には当然のように認識できた。
穏やかで優しい空気には、胸が痛いほどに覚えがあったから――
「!? 台輔!?」
突然立ち上がって重たい衣装の何枚かを脱ぎ捨てたに、付き従っていた唯一の女官が驚きの声を上げる。
「…ごめんなさい」
「え?」
「先に謝りましたよ」
言葉と同時に当身を食らわせて意識を奪う。
武器になりそうな装身具の数個を持って部屋を飛び出すと、さっきまで気配のあった監視の武官たちの姿も消えていた。
遠くで、慌しく何事かに奔走しているだろうざわめきが聞こえる。
何かが起こっているのだ――それは確かだが、にとっても千歳一遇の好機だ。
機を逸するまいと、はざわめきとは反対方向へ駆け出した。
しかしいくらも進まない内に、今度こそ驚愕の余り立ち止まる。
「――尚隆…!?」
の現在地から遥か下方に見える棟――その回廊を渡っていく一行が見えた。
案内の官について文官が二人、その護衛らしき武官が一人、賓客といった風体で一行は遠ざかっていく。
遠すぎてよくは分からないし、一瞬垣間見ただけだから絶対とは言えないかもしれないが、にはそれが尚隆で間違いないと確信できた。
武官姿の偉丈夫くらい、王宮には腐るほど居る。けれど、彼だと確信できるのは、理屈では無い気がした。
なぜ、彼がここに――?
最初に浮かんだのは、そんな疑問だった。
一国の王が訪れたのだとしたら、なるほど、の監視に避ける人数が減ったのにも頷けるが、その彼自身は何の為に来たのか――
だがすぐに、今はそんなことを考えている場合では無いと、は首を振って否定した。
もしあれが本当に尚隆なら――延王ならば、妖魔を操る霧枳が居るこの宮は危険だ。
何とか彼に、そのことを知らせて危険から遠ざけなくては――
目標を自身の逃走から変更して、は下方の棟に行く道を探し始めた。
(助けなくちゃ、今度こそ――尚隆に知らせなくちゃ――)
常に呪と戦っている身体はだいぶ弱っていたし、少し走っただけでも苦しいくらいに息切れしてしまうが、例え心臓が壊れたって、は立ち止まるつもりは無かった。
もう、何も失いたくなかった。
失うならば、最初から欲しなければいい――関わらなければいい――
長い年月で嫌というほど思い知ったことだったが、少なくとも彼に関してだけは、もう遅い。
(私なんてどうなってもいいから――どうか主上、尚隆をお護りください――)
陽子に頼んで仙籍を削って貰うつもりだった生なんかよりも、大国を支える尚隆の命の方が何倍も大切に決まっている。
それに、が捕らわれたことが原因で尚隆がここに来たのだとしたら……自分が原因で彼の身に何かがあったとしたら、はきっと耐えられない。
彼の為に――自分の為に必死になることに、の心に迷いは無い。
ぴちゃん…ぴちゃん……
下方に行けば行くほど、脳裏に響く水滴の音は大きくなる。
やがて長い回廊が途切れ、が辿り着いたのは空高く聳える楼閣だった。
黒く塗られたそれは異様で、美しく整えられた王宮にはおよそ相応しくない。
そこだけが色彩から取り残された世界のように、時の流れが違っていた。
「こ…こは……鎮冶楼?」
五百年前、がまだ慶国に居た頃に話だけは聞いたことがあった。
後の達王であるかの人が、当時復興途上であった巧国翠篁宮の端に、色の無い風変わりな楼閣を贈った、と――。
中々天災が引かない巧の為に地鎮の神を祀った楼閣を建てたのだと聞いたが、ではここは巧国なのだ。
ぴちゃんぴちゃん…
そして水滴の音は、驚いたことにこの楼閣から聞こえている。
「水禺刀がここに……?」
達王が建てた楼閣に、達王が作った宝刀、……そして達王を愛した。
揃いすぎた符号には静かに息をついた。
そして意を決して鎮冶楼の扉に手をかける。
力を入れる前に触れるだけで開いた扉の中は、外観よりも随分と狭かった。
その中央に、おぼろげに燐光を発する水禺刀と碧双珠…いや、澄んだ碧では無く、黒く輝く珠があった。
「これは……水禺刀では、無い…?」
の呟きは、楼閣の頂上まで吹き抜けになった楼内に響く。
自然と動く衝動に抗わず、近づいて手を触れた途端、その刀から…いや、黒い珠から強い風が吹き荒れた。
「っ……!?」
びきびきと、空間が歪むような不快な音が楼内に響き渡り、いくつかの気配が現れる。
それはすぐに赤子の鳴き声のような音を発し、妖魔だと気付いたが身構える前に襲いかかってきた。
「くっ……え――?」
とっさに受身を取って衝撃を覚悟したの前に、不意に刀の燐光が差し込んで光の障壁となった。
妖魔から発せられる黒い瘴気と、青白い燐光が交叉する。
楼に反響する赤子のような鳴き声、荒れ狂う風、膨らむ光――
それらはしばらく拮抗した後、飽和状態を越えたのか、その場に膨らんで弾け散った。
物凄い圧力で吹き飛ばされて、は背中から硬い床に叩きつけられる。
「ぐっ…う……」
あまりの衝撃に呼吸の自由さえも奪われた。
断続的に聞こえる水滴の音に痛みが薄らいだ気はしたものの、弱った身体は痛みに耐えることは出来ず、は立ち上がることが出来なかった。
やがて、痛みに焼けるような脳裏に、いくつかの慌しい足音が届く。
また捕らわれたのだと知って、奥歯を噛み締めた。
はせめてもの抵抗に、親指を噛んでその場に血を流す――それで印の一つでも残しておこうと思ったが、そこで限界だった。
「……っ!!」
駆け込んできたらしい霧枳の声は、聞いたこともないほど切羽詰った響きを宿していた。
しかしそれに違和感を覚えても、指一本動かせないは力の入らない身体をぐったりと投げ出したままだ。
「おい、っ!」
どこか悲痛な霧枳の呼びかけにも、は瞳を開けることは出来なかった。
達王の気配が濃いこの場所で、彼に似た霧枳の瞳に向かい合いたくなかった。
05.9.27