暖かな日差しも穏やかな風も、一切届かない場所だった。
不思議な甘さの香が常に充満し、思考を奪っていく。
定期的に与えられる薬湯は、体の力と自由を縛り付けた。
香と薬湯――……
次第に明瞭になってきた意識の中では考えた。
最初はここがどこなのか、自分が何者なのかさえ分からなかったが、だんだん物事を認識し、考えられる時間が増えてきた。
やがて、自分の体が意思と関係なく操られているのだということに気付くまでにそう時間はかからなかった。
恐らく香と薬湯を用いて術のようなものをかけられているのだろうが、これらに対しては耐性がある。
幼い頃から少量の毒を摂取して体を慣らし、呼吸を操る術も学んだ。
毒も薬も効きにくい体質は、仙になってからも変わらなかった。
蓬莱での忍びとしての特性が、こんなところで役に立つとは……そう思える程に自我を取り戻したのは、捕らえられてから何日経った頃だろうか。
その頃には、大体の事情は呑み込めていた。
「さぁ台輔、こちらへ……主上も間も無くおいでになります」
そう言って自分の衣裳を調える女官は、いつも決まった数人だ。
贅を凝らした絹の服、がいつも隠している金の頭髪は軽くまとめた程度で無造作に背に流してあった。
そんな格好をさせて、台輔と呼ぶ。
――偽王…偽朝の為の傀儡か。
偽麒麟などというのは聞いたことが無いが、は間違いなくその役割を演じさせられていた。
正装した上で頻繁に連れ出され、輿の上から大勢の民に姿を見せる。
憔悴し、生気を失った人々の顔に歓喜が宿るのを、は苦い心地で眺めていた。
偽王の元では国はやすまらない。天災は止まず、荒廃は止まらず、喜んだ分だけ絶望が待っているというのに――。
一刻も早く、ここから出なければ――
偽王の片棒を担ぐなど死んでも御免だ。ましてや、人々を欺き、騙しているこの状況に甘んじていられるわけがない。
が麒麟である期間が一日でも長いほど、それだけ多くの人々を苦しめることになるのだ。
それは、500年という長い時を流離い続け、国の勃興も数多く見ているだからこそ、尚更真実味を帯びて感じられた。
「待たせたな。それじゃあ行こうか、――」
やがて現れた偽王であろうその男が、力の入らないの手を恭しく取った。
は、自我など無い振りを装って素直にそれに従う。
「、今日も愛想良く笑うんだぞ」
自分を呼ぶその声は、かつての愛しい人――達王に似ていた。
そして同時に、最近聞いた気もする。
偽王は常に貴人用の薄布を冠から垂らしており、からは顔が見えない。
この偽王という男のことを知っている気はするが、まだ明瞭で無い思考では霞がかったように思い出せなかった。
(まだ、早い。もう少し――…)
苦痛のような毎日の中で繰り返し、そう呟く。
彼の正体に限らず、には分からない事が多すぎた。
日も射さない一室は、宮城の奥深くなのだろうが、それがどこの宮なのか…そもそも、ここがどこの国なのかも判別できない。
自分がここに連れて来られた経緯を考えれば、たちが追っていた事件と無関係で無いということは想像できるが、それを突き詰めて考えるには、情報も思考できる時間も絶対的に不足していた。
考えようとしても、情報不足は如何ともしがたいし、回復途上の思考は無理をするとすぐに術の支配に飲み込まれてしまう。
それに、捕らえられる瞬間のことを思い出すと、余計なことまで考えてしまうから……
――「」
雨の中、向かい合った強い眼差し。
強引なくらい力強い腕。
火傷しそうなほど熱い唇。
自分を呼ぶ…低い声――
隙さえあれば浮かび上がってくるそれらの記憶と感情から、は意識的に目を背けた。
考えてはならない。
会いたいなどと…声が聞きたいなどと……思ってはならない。
彼は五百年国を支え続けてきた王で、自分は今では仙ですらないただの人間だ。
ましてや今は、一国の命運を左右する大罪に巻き込まれている。
正統な王朝が戻った時、偽朝に加担したが慶の仙であったと知れたらどうなるか――
友達だと笑ってくれた陽子に迷惑をかけたくなど無い。
これ以上、陽子や彼の――尚隆の足手まといになるくらいなら――…
(もう、待てない――)
ようやく現在の自分のおかれている状況が意味するところの正確な意味を考えることが出来たは、暢気に回復を待つのを放棄した。
着替えの際に女官の目を盗んで、簪や帯飾りなどの数個の装飾品を手元に隠す。
悠長に準備をする時間も、時を選んでいる暇も無かった。
折良く、一番薬が切れる時間になったのを皮切りに、敏捷に行動を開始した。
は側仕えの女官を手刀で昏倒させ、彼女と自分の衣服を替え、髪を布で隠した。
それだけで息が上がった体を叱咤して動かし、部屋の前の見張りを部屋に引き込んで拘束する。
「はぁ…はぁ……急がなきゃ…」
自分の体と意識が思い通りにならない歯がゆさを噛み締めながら、そっと部屋を出た。
今までの厳重な様子から察するに、すぐに異常に気付かれるだろう。
宮の内部構造も、外の様子も皆目分からない以上、どこをどう行けばいいのか見当もつかないが、とにかく今はここを離れなくてはならない。
思いつくまま走って、廊下の影に身を潜めて人の目をやりすごしていただったが、やがて宮内が騒がしくなり、軍人の姿も混じりだした。
「いらっしゃったぞ! こっちだ!」
とうとう見つかってしまったらしいその声を合図に、バラバラと人が集まってくる気配がする。
「くっ……!」
前後から迫られて舌打ちしたは、追手を避ける為に窓枠を乗り越えて庭に出た。
そこは、雲海の漣が聞こえる、美しい庭だった。
造りからして、どうやら内朝の王が住まう殿の内の一つのようだ。
は、その雲海の潮騒と美しい庭園に思わず足を竦めた。
操られていた間にぼんやりと思い出していた故国と昔の斎暁院が思い出される。
しかし麻痺した感情を置き去りに、体は自然と歩き出していた。
心ここにあらずで、歩きにくい女物の裾が邪魔をして、引きずられるように転んでしまう。
「大丈夫か、?」
聞き覚えのある声に、ははっと振り返った。
その拍子に唐突に揺れた視界が眩み、体が傾いだ――その時だった。
いつの間に近づいてきたのか、線の細い…けれど意外にしっかりした腕が、の体を抱きかかえて支える。
「危ないな、無茶するなよ」
「!? あなたは…!」
を支えたのは、背格好や声からして、紛れも無く偽王だった。彼は笑みの形に口元を歪める。その後ろには数人の呪師が立っていた。
呪師たちはそれぞれ何か術の為の呪を唱えている。
それがの体から力と意識を奪い取ろうとしているのだろう。
しかし、が驚いたのは、偽王の薄布を取ったその顔だった。
「まさか……霧枳(むきょう)!?」
碇申を殺害した犯人の手がかりを追って乗りこんだ慶から延への連絡船……そこで会った細面の青年が、そこに居た。
こんな所に居る筈がない……人違いかという思いが掠めたを裏切るように、偽王は――間違いなく霧枳本人だと裏付けるように口を歪めた。
「また会えて嬉しいぜ、」
抱きかかえるように支えたまま、間近から覗き込んできた瞳には目を瞠った。
本当に同一人物だろうかと思った。
船が妖魔に襲われて乗組員の避難誘導を頼んだ快活な面影は薄く、霧枳のその瞳には別の色が浮かんでいた。
――狂気の色…
かつて、祖国の兄に――そして愛した王に見出した不吉な深淵。
間近で向かい合ったそれに、の体は凍りついた。
理屈ではない。
大切な人を失った記憶と直結しているその瞳に、の心が怯んだのだ。
その瞬間、体から力が抜け、意識を強く引っ張られるような圧力に襲われた。
(しまっ…た…)
悔やんだ時には遅かった。
一瞬の油断をついて、呪師の術がを縛る。
「なんでだか、お前には術が効きにくいらしいな。麒麟では無くとも、この髪の色はやはり特別だということか?」
見当外れな台詞に、は朦朧とする意識の中で必死に相手を睨み付けた。
だが、当の霧枳はそれをさもおもしろそうに笑う。
「まあ、そう邪険にするなよ。俺はお前が気に入ってるんだ――王と麒麟として、仲睦まじい主従になろうじゃないか」
「誰…が…!」
誰が王だと? 誰が、麒麟…だと……?
「抗っても無駄だ。お前は俺から逃げられない」
狂気という名の歪みを宿した瞳が、妙に優しげに笑った。
嫌が応にでも、トラウマを刺激するその笑み――
目を見開いたの視界に霧枳が迫り、言葉を実践するように唇が重ねられた。
隙間無くぴったりと塞がれて、熱い液体が流し込まれる。
それが体内に入ると、の身体はびくりと震えて、今度こそ体力も思考力も呑み込まれていくのが分かった。
「尚…りゅ……」
呼んだのは誰の名前だったのか――
それすらも知覚出来ない闇に……
は堕ちるように飲み込まれていった。
05.8.24