「どうしたんだ、」
呼ばれて、は声の主を見上げた。
輪郭は見えるが、視界にも頭にも霞がかかったかのようで、全く識別できない。
ここはどこだろうと、ぼんやりと思った。
夢の中だろうか。
「ああ、薬湯か。いい子だから、もうちょっと飲め、な?」
やはり、これは夢かもしれない。
その声の響きには、聞き覚えがあった。
口内に広がった苦みを自覚すると同時に体が痺れ、また意識が遠くなる。
誰かが、の髪を梳いていた。
不器用で優しい手つきは、懐かしい人にひどく似ていた。
斎暁院は、慶国楊州に聳える凌雲山の中腹に建つ離宮だった。
元は何代か前の王の寵妃の為に建てられ、下賜されたものらしい。
その後何度かその主を替え、現王の治世中はずっと無人になっていた。
「離宮の主とは言え、は何もせずにここに居れば良いのだよ」
王はそう言ったが、としては最低限の責任は果たさねば気が済まない。
それでなくとも、生来の忍であるは、このぬるま湯のような生活に多少の居心地の悪さも感じていた。
王宮の奥で贅沢に囲まれ、日がな一日穏やかに過すと言うのは、つい先日まで戦国の世に身を置いていたにとっては馴染めなくて当然だろう。
せめて任された離宮を立派に立ち直らせる仕事くらいは、きちんとこなしたい――
そんな次第で、は王宮と離宮をほぼ三日おきに行き来し、そんな毎日を繰り返す内に一年が過ぎた。
堯天から楊州までの道のりで……騎獣の上からでも下界の様子が変わってきていることに、はようやく気付き始めていた。
それと同様に、王の様子がおかしいことにも――
先だっては、内宮の奥で派手な物音と女官の悲鳴を聞いた。
近くを通っていたは、たまたまその場面に出くわし、ひどく驚いた。
「主上……!?」
これは……と二の句が告げないに気付くと、彼は途端に破願した。
「ああ、。来ていたのか。待っておったのだ」
それはいつも通りの優しい笑顔だった筈。
けれど、彼の周りの室内は目を見張るほどの荒れようだった。
花瓶や窓は砕け、調度は壊れ、部屋のあちこちで散乱していた。
その中で平然と佇み、笑顔でに手を差し伸べている王―― 一年の生活の内に、が初めて愛するようになった人――……
後に女官たちに聞けば、こんなことは初めてでは無いと言う。
それどころか、この突然癇癪を起こして暴れる悪癖は、ここ数年で確実に多くなっている、と――
そうこうする内に、王の側近が一人消え、二人消え、諫言した者は除籍され、或いは極刑を言い渡され、国土は荒れていった。
そんな、とある晩――静かな夜だった。
は、夢を見た。
遠くで、水面を打つ水滴の音が聞こえた。
やがてそれらの音の波紋は大きくなり、懐かしい暮らしを映し出す。
優しい母と厳しい父、そして大好きだった兄――
二度と戻らぬ幼い日々。
母との死別、兄の裏切り、父の死――……
鮮明な思い出は鋭くの胸を抉る。
そして、こちらに流されて後の王との出会い……穏やかな暮らし……
ふと気付くと、は一人だった。
暗い闇の中に一人、膨大な時間をただ彷徨い続け、そして――……
「……………?」
誰かが髪を梳く温かい気配で、は目が覚めた。
「!?」
とっさに寝るときも手離せないクナイを取り出し、それをいとも簡単に止められて完全に覚醒する。
「しゅ…主上…っ!?」
の枕元に腰を下ろしていた王は、にこりと笑って、しっと口元に人差し指を当てた。
「そんなに騒いでは、皆を起こしてしまうよ」
彼が離宮に来る事は珍しくなかったが、こんな真夜中にそれも寝所に忍んでくるなど今まで一度もなかった事で、は珍しく動揺していた。
「ど…どうなさったのです、こんな時間に……お一人で来られたのですか…?」
夜目にも赤くなっていたのが分かったのだろうか……彼はくすりと笑うと、の頬に触れた。
「気持ちの良い夜だったから、に会いたくなっただけだ」
「……主上………?」
言われた内容は鼓動を早めるものに他ならなかったが、彼の表情がそれよりもの感情にひっかかった。
に向かって、こんな憂える瞳を見せたのは初めてだったのだ。
そして、はようやく彼が膝の上に抱えている者に気づいた。
ひどく優美で、けれど力強い輝きを灯した大剣――
「それは……?」
の言葉に、王は少し微笑んだ。
「これは、水禺刀と言って、私が以前作らせた慶国の宝重だよ。王にしか使えぬものだが、刃が水鏡となり、過去未来、千里のかなたのことでも映し出す」
「水鏡……」
王が水禺刀を持ち直すと、その刃が燐光を発し、水滴の音が聞こえた。
聞き覚えのあるその音……そして、水鏡に映っているのは……
「これは……私………?」
それは、先ほど夢に見た、故国でのだった。
「が眠っている間、過去のそなたを見ていた。……辛い思いをしたのだな」
優しい響きに、の胸がぐっと締め付けられた。
嬉しいような泣きたいような、不思議な気持ち……初めて感じる想い。
だから、言わずにはいられなかった。
「あちらでは悲しい気持ちを味わいましたが、こちらに来て主上に会ってから私は――……私は、主上を……」
しかし、不意に背けられた瞳に、の言葉は宙に浮く。
続けて言われた言葉は、信じられないものだった。
「宮を……この国を出るんだ、」
「な…ぜ……なぜです……」
頭が真っ白になったは、反射的にそう問い返した。
真剣で澄んだ光を放っている瞳に向き合って――……
そうして、気付いた。
彼のこんな瞳は、久しぶりに見た気がする。
出会った当初こそ、たまに見かけたものだったが、次第にその頻度は減り、いつの間にか彼の瞳は光を失った。
に笑いかけるその瞳は、まるで狂気を宿しているような、病んだ色で………
そう――本当はにも分かっていた。
が愛したこの王が、既に道を…自分を失い始めていたということに。
出会うのが、遅すぎたのだろうか……
「景麒が、病んだ」
――ああ、やはり……
彼の言葉にそう思うのと同時に、の心は凍りついた。
麒麟が病む…そして死ぬ。
それは即ち、王の死をも意味している。
「もう……私はもう、失いたくありません……!」
また大切なものを失うというのか。
愛しい人。
生きていく場所。
抱き寄せられた彼の腕の中は温かかった。
その腕が震えていなければ、こんなに胸が痛む事も無かったに違いない。
(泣いて…いる――……?)
弱い所を人に見せるような人では無かった。
その愛しい人が、を抱き締めて体を震わせている――
は、そっとその背中を抱き返した。
今は、このお互いのぬくもりだけを、ただ感じていたかった。
体が、意思とは無関係に動いているのを感じていた。
の心は、それから離れた場所にあり、それを見ている訳でもなく、ただ目を閉じて漠然と感じている。
「………」
何も考えられなかった。
時々聞こえる自分を呼ぶ声や、髪を梳く仕草が、懐かしく愛しい人を思い出させたから――……
――「自分の帰る場所を見つけるまで、旅をしてみなさい」
最後に、寂しそうに笑って言ったあの人の言葉が忘れられない。
彼の命が失われるのなら、共に殉じようと思ったのに……
その後、長い時間を放浪して、六太や優しい人々にも出会った。
一緒に居て、楽しいと思える友とも過した。
その中には普通の人間ではなく、仙籍に入っている者も居たが、だからと言っていつまでも一緒にいられる筈が無い。
何よりは、大切な人を作って、そうしてまた置いてきぼりにされて失うということに耐えられなかった。
だから、自ら一歩引いて、結局は一人になった。
帰る場所など、無いと思っていた――
そんな長い放浪の中で出会った、新しい景王――陽子。
に王気は見えないが、今では達王と呼ばれる彼の人を思い出させるような、まさしく名君たる覇気を備えた友人。
初めて会った晩、彼女の持っていた水禺刀の幻を見た。
そして、達王と別れた晩に見た夢を思い出した。
一人長い時間を孤独に彷徨っていた――あれを彼も見たのなら、なぜ共に連れていってはくれなかったのか……
陽子や楽俊、鈴に祥瓊、その他金波宮の面々に出逢って共に過した日々は、陽だまりのようだった。
久しぶりに心の隙間が埋まっていく感覚を覚えた。
(けれど、私は………)
それでもやはり、このまま時を生きていく勇気を持てなくて、は仙籍を削ってもらうことを望んでいた。
そんな時に、彼に出会ったのだ。
――「――」
彼の人とは、違う。
低く、どこまでも力強く、自分を呼ぶその声は………
故国や、彼の人を思い出させる言動をされて、なぜあんなにも心が騒いだのか。
黙らせる為に無理矢理重ねられた唇が、なぜあんなに冷たかったのか――冷たいと感じたことに、なぜ身を切るような哀しみを覚えたのか――……
「……?」
偽りの現実から自分を呼ぶ声が響き、の意思を離れた体は従順にそれに従う。
けれど、はこの時初めて思った。
―― チガウ
「? どうしたんだよ、。ほら、行くぞ」
この声は、違う。
あの人の声では無い。
――「――」
力強い声音で呼ぶ、どうしても惹かれるあの人は……
「……私…は………」
呼んで欲しかった。
あの人の声で、という名を呼んで欲しかった。
一度そう思った感情は、狂おしい程に心を覆う。
「……しょ……りゅ……………」
いまだ自由にならず、雁字搦めに捕らわれたままのの体から、もどかしさが涙となって一筋、流れた。
04.2.19
CLAP