(父様――――兄様―――――……)

 遠く離れてしまった故国。
 あの後、兄が、国がどうなったのか、は知らない。知る術も無かった。

 ――「、お前は私のものだ! 私の傍で私の望む道具であればよいのだ!」
 あの兄の言葉と行動は、長い間を苦しめた。
 常々、外見や生まれなど関係無いと言い……一人の人間として認めてくれていた筈の兄が、を”道具”と言い、そのように扱ったのだ。感情など無視して、五月蝿い口を塞ぐためだけの暴力とすら言える口付け――……

 だが、年月の中で痛みは風化した。風化した筈だ。
 それなのに、この生々しい喪失感は…痛みは、何だというのか――――


「おい、こいつ、泣いてるぞ」
「何? ああ……嫌な夢でも見ているのかな。心配しなくてもいいぞ、。俺が付いている――」


 遠くで、声が聞こえた。
 一見優しげで、けれど何かを含んだその声音は、故国の兄をも……初めて愛した人をも思い出させるものだった。

暁の声 - 霧夢の章2

 ザザ……ン……ザザ………

 聞きなれない筈の潮騒は、なぜかに懐かしさを感じさせた。

 懐かしい、と感じて、はたと違和感に気付く。

 ――私は、何を懐かしんでいるのだろう。

 思った途端に、潮騒の音に乗って波のように甦ってきた記憶――――母と父と兄と………二度とは引き換えせぬ、その追憶。
 記憶と共に全身に感覚が戻ってきて、ははっと覚醒した。

「……海………?」

 潮のにおい、荒々しい波。間違いなく海である砂浜に、は半分波に埋もれるようにして打ち上げられていた。
 長く海水に浸かっていたのか、全身が氷のように冷たく、指一本動かすのも億劫だった。
 だがそれよりも、を支配していたのは絶望という名の喪失感だった。

 父は死んだ。兄も……の慕った兄はもう居ない。
 ならば、もう無理に生きている必要も無いように感じられた。
 このまま、知らない海で死んでいくのも悪くないかもしれない。そもそも、あの場から転落した際に覚悟した命だ――助かったことが間違いなのだ。

 けれど、しばらくそうして横たわっていると、日が昇って、温かい光がを照らした。

 ――「強い人間におなりなさい、。運命などに負けぬように、自分の足で歩けるように――」

(――――母様……?)
 幼い頃に言い聞かされた母の声が聞こえた。
 それと共に、水滴が水面を打つかのような音が聞こえて、なぜかを安堵させる。

 腕を動かすと、動いた。足も動いた。自分の足で立つ事が出来た。
 ようやく自分が倒れていた場所をその視界に映して、の瞳は見開かれた。

「ここは……どこ……………?」
 断続的に続く波音に、ちっぽけな呟きはすぐに掻き消された。

 暗く深い色を湛えた海だった。
 こんな海は、見た事が無い。
 国の近隣の海ではない。瀬戸内の海でもない。
 大陸に近い海は暗いと聞いた事があるが、それではここはその海なのだろうか。
 だが一体どうして、こんな所まで流されてきたのだろう。海は続いているとは言え、地理的におかしすぎる。

 そこに、不意に何かの気配が近づいてきて、はとっさに岩陰に身を隠した。

 ひどく高貴な衣服に身を包んだ集団だった。
 だが、それは国で見かける衣服とは文化を異にしていた。一度垣間見たことのある大陸の使者があんな服を来ていたように思う。
 何より、黒一色である筈の頭髪は、見た事も無い色で彩られていた。

(異人――……)

 気が付くと、は集団の前に踊り出ていた。
 真ん中に挟まれた一際高貴そうな人物に狙いを定める。集団相手には、頭さえ押さえてしまえば、利を得る事ができる――

 まだ若い、整った顔立ちの青年だった。
 懐からクナイを取り出して、素早く肩口を狙った攻撃は、しかし紙一重でいとも簡単に避けられた。

「主上っ!!」
 周りの随行者たちが青い顔で叫び、一歩遅れてを捕らえようとしたが、は間一髪でそれから逃れた。
 ザッ……と離れた場所に着地し、一撃をかわした男を見上げる。

「――ここはどこです!? あなたたちは…大陸の民ですか!?」

「きっ…金の髪……!?」
 しかしの質問は、周りの者たちの驚きの声に掻き消された。
 慣れた反応だったが、どこかがおかしい。単純に異人に対する驚きや嘲りではなく、どこか恐ろしげな困惑の色が露だった。

 やがて、一撃をかわした男が周りを制して近づいて来た。
 クナイを構えるの目の前まで来て、に視線を合わせる。

「そなたは……麒麟……か?」

 それが、と、時の景王との出会いだった。





 あれから見た事も無いほど豪勢で巨大な王宮に連れて行かれ、手当てを受けたは、官たちから一通りの尋問を受け、そしてこの世界の説明を聞かされた。

「二度と、帰れない――……」
 その事実を聞いても、感情は揺れなかった。
 お役目を持った忍としては、国の為に帰らねばならないと思う。
 兄がした事は、父への裏切りであるのと同時に、国への――領民全部への裏切りだ。あんなちっぽけな小国の上に密通者がいては、すぐに蹂躙されてしまうだろう。
 けれど、帰りたいとは……思わなかった。
 なぜなら………

「帰りたいか……?」
 いつの間に入ってきたのか、深い瞳をした青年――数百年の年月を賢帝として生きているという景王は、憂えるように言った。
 はその、この国で初めて見た海の色を映した瞳を見返しながら、首を振る。

「いいえ。……帰る場所など、ありませんから――」

 そうか、と短く呟いた彼は、慈愛に満ちた瞳で微笑んだ。
 そして、見惚れるほど優美な動作で、手を差し出した。

「ならば、私の傍に居てくれまいか。不思議なことだが、そなたと居ると心が安らぐのだ」

 真摯な瞳に射抜かれ、熱くなる頬を宥めながら、は躊躇うように疑問を口に乗せた。

「なぜ、私を助けて下さったのです」

 海岸で王とは知らずに剣を向けたは、一旦は麒麟かもしれぬということで皆を驚かせたが、海客である事が分かると、随行の一人がその場で斬り捨てようとした。
 それを止めたのが、景王その人だったのだ。
 しかも、自らの手で白刃を掴んでまで――――

 景王は少し驚き、可笑しそうに笑った。
「女は守るのは男の役目だ。当然のことであろう?」

 は目を見張った。
 そんなことを言われたのは、生まれて初めてだったのだ。
 蔑まれ、虐げられ、性別の前に異種として遠ざけられ、自分一人の力で生きるしか無かった。

 は無意識の内に、差し出された手を取っていた。
 自分を守る為に、傷ついてくれた初めての手を――――





「海客・――」

 諸侯が揃った朝議の席で、は呼ばれて伏せていた顔を上げた。
「はい――」

 あれが……という諸官のざわめきが潮騒のように打ち寄せる。
 は、迷う事無く高い壇上の上、至高の玉座に座す人を見上げた。

「そなたを、仙・斎暁院に任じる」

「――謹んで、受け賜ります」
(そして、心よりの忠誠を――)

 内心の言葉は口に上らせること無く、はその場に深く叩頭した。





04.2.19
CLAP