天候は荒れ、災異が続き、人心は休まることを知らない。
至る所で妖魔が出没し始めて久しい巧国は、荒廃の一途を辿っていた。
巧の白雉が落ちてまだ5年だというのに、王の不在が10年も20年も続いているような荒廃ぶりだ。
草の一本の命まで尽きようかという国土は、首都に近づくにつれて妙な狂喜に包まれていた。
「新王がお起ちになるんだ!」
「我々の新しい王だ!!」
「これでやっと、妖魔が出る事もなくなる!」
里祠によっては、龍旗が上がったり上がらなかったりと不審な点こそあったが、みなが待ち焦がれていた吉報は破竹の勢いで人伝いに広まる。
龍旗は新王の選定がなされたという印。そして――
「とうとう龍旗が揚がったね……。みんなおかしいとは思わないのかな、黄旗も揚がらずにいきなり龍旗が揚がるなんて……まず有り得ないのにねえ」
黄旗は麒麟が王の選定に入った証――麒麟の選定無しに、王の出現は有り得ないというのに。
「それだけ、巧が荒れているということだろう。国土も、人民もな――」
「君は知ってるんだろう、風漢。塙王は一体、何をしたんだい………と、すまなかったね」
町並みを見下ろしながらの利広の言が最後は自分に向けられて、彼の趨虞に同乗させて貰っている鼠姿の楽俊は、慌てて、いいえと首を振った。
巧の民である楽俊の前ですべき話では無いと思ったのだろう。
心づかいは有り難く、けれどその原因を知る楽俊は、前塙王に対して特別な感慨は抱かない。
「……とにかく、先を急ぐこととしよう。こうなった以上、今日中には傲霜に着きたいからな」
尚隆の言葉で、二匹の趨虞に乗った三人は再び高度を上げる。
巧国首都・傲霜――更に言うなら、翠篁宮―――それが、三人の目指す場所だった。
「巧で、おかしな噂を聞いたんです」
金波宮で、楽俊が尚隆の部屋を訪ねた夜――
「友達として、には幸せになって欲しいから協力する」と言った楽俊は、こう続けた。
「麒麟が王の選定に入るらしい――と」
楽俊の真剣なまなざしに、尚隆の眉間に皺がよる。
「しかし巧の麒麟は……まだ孵って6年かそこらの筈だろう」
それは、天啓を受けるにはまだ早い。あの泰麒でさえ、十歳にはなっていた筈だ。
「噂を聞いたのは昨日……慶との国境付近でした」
尚隆の視線を受けて、楽俊は知る限りの説明を始めた。
「元々堯天に寄っていこうかと思ってたんで、慶への道中に休憩に立ち寄った茶屋で聞いたんです。どうやら慶からの商人のようで、塙麟が選定を始めると聞いた、と……」
「慶……? そして、塙麟――」
一層細められた視線に頷いて、楽俊は続ける。
「最初は周りで聞いてた連中も、それが真実なものかと……仮に真実だとしてもなぜ慶から来た者が知っているんだと、怪しんでいたんです。ところが、他にもその話を聞いたという旅人が名乗り出て……しかもそいつは、自分の目で麒麟を見たと言ったんです」
もう自分の言わんとしていることを察しているであろう尚隆に、楽俊は告げた。
「塙麟は、透けるような金色の髪をした、年頃の少女だった――と」
巧の麒麟はまだ六歳そこそこ……年頃の娘というのは当てはまらない。
けれど、楽俊には一人だけ、麒麟ではないにも関わらず金色の髪を持つ年頃の少女に心当たりがあった。
「……それで、こんな夜中に王宮に乗り込んできたわけか」
「できれば、当たって欲しくない心当たりだったんですけど」
桓堆に会った楽俊が聞いたのは、が行方不明になっているという事実だった。
髭を萎れさせて視線を落とした楽俊を置いて、尚隆は立ち上がった。
「延王……」
「――寝る」
「え……」
目を見張る楽俊の目の前で、尚隆はごろりと横になった。
「明日は早いからな――楽俊もたっぷり寝ておけ」
その翌早朝、二人と奏の風来坊は、件の巧に向けて金波宮を発ったのだ。
巧国首都・傲霜――王宮のお膝元である首都は、俄かに活気付き、もう例の話で持ち切りだった。
民だとて、おかしいと思わない訳ではないだろう。
年端もいかぬ筈の麒麟の出現――年齢の合わない麒麟の容姿――兆候も無い曖昧な噂――
ただその疑問を無意識に無視できてしまうほどには、巧という国は早くも疲弊していた。
天の摂理による次代の王の登極に焦れる程には。
それを、この一週間ほどかけて巧を回っていた尚隆、利広、楽俊の三人は、痛い程に肌で感じていた。
それも、新しい麒麟と王に対する民の期待は、日に日に高まっていっている。
この件とを結びつける確証は、まだ無い。かなり有力とは言え、噂の域を出ない話だったので、いつでも金波宮と連絡の取れる状態で情報集めをしていたのだが……
「龍旗が揚がったということは、近い内に動くということでしょうか……」
「間違いなく、ね。美少女の塙麟が選んだというのは、どんな王だろうね、風漢?」
楽俊に答えた利広の揶揄に、尚隆は顔を顰めた。
というのも、首都に入ってから集めた”塙麟”の情報が、悉く一つのことを指していたからだ。
どこからどう流れたのか、新王の素性さえ分からない中、麒麟の外見の特徴は事細かに噂となっていた。
それはまさしく、捜し求める少女の外見と酷似しており――更に、三人は傲霜の町中に現れた輿に乗った塙麟を遠目に見る事が出来たのだ。
大勢の観衆の中、本当に遠くから一瞬垣間見ただけだったが、尚隆はその塙麟だという少女の左手に包帯が巻かれているのを見逃さなかった。
(あれは、だ――)
間違いない。
包帯のことが無くとも、尚隆にはなぜか、確信できた。
そして、その傍らに居た、新王だという男……
「偽王か……あいつに手を出すとはおもしろい……」
「――え?」
小さく呟かれた尚隆の言葉に、楽俊は聞き取れず首を傾げ、利広は苦笑した。
つい声に出してしまったことを後悔して憮然とした尚隆は、凌雲山の方を見遣る。
正確には、その雲海の上にある、翠篁宮を――
「いや、……一度あの堅苦しい戴冠の儀を、潰してみたいと思っておったのだ」
そう言って、尚隆は不敵に笑った。
迷って立ち止まっている時間は、もう無い――を、一刻も早くこの手に取り戻す為に――
04.1.30