暁の声 - 追朔の章2

 緊急であるのとお忍びの面子を考えて、話し合いの場は王の私室である正寝の一角に設けられた。
 官吏たちに知れると説明が面倒なので、ほとんど人払いしてしまったその一帯は、話の内容を考えると静かすぎるくらいだった。


「――では、を連れ去ったのは、妖魔だと……!?」

 金波宮を発ってからの経緯をおおまかに説明した風漢――尚隆に、陽子は声を抑えるのも忘れて驚きの声を上げた。
 妖魔が特定の人間を狙う事は無い―― 一般的な常識だが、陽子は実際に襲われたことがあるし、今回の不審な事件に絡んでいるとなっては、話も変わってくる。

「尚隆もすぐ傍にいたんだろ? お前は狙われなかったのか?」
「ああ――さっきも言ったように、ほんの一瞬離れた隙に起こったことだが、妖魔はこちらにも気付いていた。だが、俺には見向きもしなかったからな」
 いつに無く真剣な顔の六太に、尚隆も深々と溜息をついた。
 そんな主従を見遣りながら、今まで黙っていた利広が口を開いた。

「その時私も近くから見ていたんだけれど、確かにその場に群れていた妖魔は一斉に飛び立った。狙いが彼女だったとしたら説明もつくけれど、……彼女は慶国の――?」
「――ああ、慶の古くからの飛仙で、号を斉暁君と言います。腕が立つので、延…風漢とある事件の解明に当たってもらっていたところで」
 陽子から風漢の連れの素性と、慶での事件のあらましを説明してもらい考え込む利広に、尚隆はもういいだろう、と言って水を向ける。

「それで、利広――お前があんな所にいた理由を聞かせて貰おうか。その数日前に、裟衍(さえん)という慶の港から雁行きの定期船にも乗っただろう」
 利広は、おやと大仰に驚いた。
「よく知っているね」
「趨虞連れで船などに乗れば、怪しいに決まっている」
 ――『趨虞を連れた坊ちゃん風の優男』……尚隆がと共に行った聞き込み情報の中にあったものだ。すぐに利広が頭に浮かび、それならばいずれどこかで鉢合わせるだろうとも思っていたが、まさかあんな形で顔を合わせるとは……

「私も、奏で起こった事件の解明にあたっていてね。その足を追ってきたら、あの定期船に行き着いたんだ」
「奏の――?」
「ここ数ヶ月、奏の呪師が数名行方不明になるという事件が続いている」
「呪師……」
 陽子の言葉に、利広は頷いた。
「占いやまじないなんか……呪師だと自称するインチキも多いのだけれど、行方不明になったのがいずれも腕利きと評判の者たちばかりだったからね。首都の隆洽でも、ちょっとした騒ぎになったんだ」
 だから、清漢宮で暇を持て余していた放蕩息子が食いついたという訳か――皮肉も露な尚隆の言葉に、そっちも似た様なものだろう、と返され、六太がいい気味だと笑った。
「行方不明になった筈の人間を慶や巧で見かけたという商人がいてね、こうして様子を見に来てみたら、宿を取った裟衍という街で怪しい噂が流れているだろう? 確かめるために船に乗ったのに、何事も無く雁まで着いてしまって、仕方ないから慶に引き返していたところであの現場に行き会ったというわけ」

「それで――? お前は、その事件とこっちのが繋がっていると――?」
 溜息交じりの尚隆の言葉に、利広は笑顔で返した。
「確信はないよ。ただ、そういう予感がするだけ」
「なるほど――奏の御仁の予感ならば、信じない訳にもいくまいか」
 尚隆の軽口に、同調したのは意外なことに陽子だった。
「私もその予感は当たっていると思う。こちらでも、分かったことがあったので――」


 そこまで話した時、不意に室外から声が掛かって、陽子が許すと大柄な男と、先日牢で見かけた男が入って来た。

「虎嘯――」
 陽子が促して、二人は顔を上げる。
 虎嘯と呼ばれた大柄な男は、型ばかりの礼を取ってすぐに用件に入った。

「冢宰に言われた通り、例の奴を連れてきました」
 陽子たちの後ろに控えていた浩瀚が、失礼しますと声をかけて前へ出た。
「風漢殿たちが出ておられる間、碇申殺害の件については一応の解答が出ました。この兵はその証人なのです」

 ほう、と尚隆が視線を向けると、陽子はひとつ頷いた。
「碇申の入れられていた牢に詰めていた者です。――もう一度、あの話をして貰えるかな?」
 陽子に声を掛けられ、一兵卒のその男は恐縮して叩頭すると、そのまま申し述べた。
「はい――あの事件があった日、見知らぬ男を見ました。揃いの鎧で同じ牢番だということは分かったのですが、私はまだ出仕して日も浅いので……。す…少しおかしいとは思いましたので声をかけると、その男からまるで獣のような唸り声がして、あっという間に人間ではないかのような身のこなしで去っていったのです」
「他の者にも確認した所、この男の見たような同僚はいないということでした」
 浩瀚の補足を受けて、陽子は尚隆に向き直った。
「獣の唸り声と聞いて、やはり妖魔の仕業ではということになったのですが……松伯」
 我が国の太師です、という陽子の紹介に頭を垂れた遠甫は、穏やかな瞳で語った。

「わしも呪師の真似事は出来るでの――牢内の気配を探ったところ、どうやらまやかしの呪が使われたようじゃの」
 まやかし――呟いた尚隆は、悧角と声を上げた。
<――ここに>
 六太の足元から返った応えに、そのまま尋ねる。
「お前はあの時、異質な気配があると言ったが、それはまやかしの呪を用いた妖魔だというのは有り得るか?」
<呪を用いた妖魔の気配というのは、妥当だと思われます>

 私の使令も同じ意見でした、と言った景麒の言葉に、尚隆と陽子は視線を頷かせる。

「同じように、さっき風漢の話にもあったとの連絡用の鳥――あれを受け取った筈の男も行方不明で、同じ痕跡を残しています」
「なるほど――」

 これで、利広の追ってきた呪師の行方不明と、こちらの事件が繋がったというわけだ。

「あちらは、大国の呪師を抱き込んだか」
「奏の呪師は腕がいいからね――妖魔を操ることも容易だと思うよ」

 その後も今後のことや、の行方について話し合ってみたが有益な意見は出ず、取りあえず情報収集しかないという結論に達して、その場は一旦お開きとなった。




 夜――与えられた客間の露台に足を投げ出すように座り込んだ尚隆は、じっと眼下の雲海を見つめていた。
 繰り返し頭の中で思い出されるのは、のことばかり。

 同じ時代の故国に生きた少女――忍だったということ、達王の傍に仕えていたこと、達王に恋心を抱いていたこと――それ以外は、ほとんど何も知らない。
 けれど、あの小さな体で生きてきた500年は、にとってどんなものだったのか……尚隆はその一端を、時々言動から感じ取ることがあった。

 他者に頼ることを知らず、自分の身を厭わず、そのくせ信念にだけは驚くほど頑固で――
 気が付けば、放っておけなくなっていた。

 無意識の内に、この手で守りたいと思っていたのかもしれない――そうでなければ、無茶をされてあんなに腹が立つことは無かっただろう。

 ――「――それが私の望みだからです!」

 仙籍から外れること――それが同じくらいの時間を生きてきた……他でも無いの口から発せられて、
 感じたことの無い苛立ちのままに、行動した結果……
 何度も甦る、あの泣き顔――
 雨に濡れた頬が更に濡れて痛々しかった。

 触れた体は熱く、柔らかく、二度と離したくないと思いながらも、場数を踏んだ冷静な自分がその行為を冷ややかに非難していた。
 だから、ぶたれた事自体は驚かなかった。
 けれども、その後のあの言葉――

 ――「私は、思い通りに黙らせることの出来る人形ではありませんっ…!!」

 意味は分からなかったが、尚隆が思っていた以上に、その行為が精神面でもを傷つけたのだということは分かった。

 弾かれるように逃げ出したをすぐに追えなかったのは、足がすくんだからだと誰が信じるだろうか。

 ――「っ!!」

 ようやく我に返って追った時には遅かった。
 巨大な妖魔が羽根をはばたかせて去っていく足元に、気を失ったを見つけて……あの時の思いは二度と思い出したくも無い。
 だが、今ここにはいない。
 それが、現実なのだ――



 昼間、金波宮に着いて状況を話し合った後、尚隆と利広は陽子の私室に招かれて、更に内密の話を聞いた。
 の、仙籍についてのことだ――

「籍が、移せない――?」

 聞いたことも無い話に、尚隆ばかりか利広も眉を潜める。
 500年と600年に及ぶ大王朝の人間がこんな反応を示すのだから、本当に前例が無いのだ――陽子は深い溜息をついた。
「潜入捜査で仙籍を抜いた時は急いでいたし、本来の手順を踏まずに行ったんです」
 本来の手順とは、戸籍上の処理のことだ。
 仙籍に入れるときならともかく、死亡などで急ぎ抜く場合は、この手順を省くことも多い。
「その後で、随分王朝の交代があったせいなのか、の戸籍が埋もれてしまって行方が分からないと判明して――新しく作り直そうということになり、一旦慶の戸籍からも削りました」
 ここまでは、尚隆がから聞いた話で想像のつく範囲だ。
「だけど、新しい戸籍を用意して後は御璽を押すだけという段になって、なぜかその戸籍にだけは判が押せなかったんです」

「判が押せんとは……つまり、他の者が御璽を押そうとしても押せぬように、文字が消えてしまうということか?」
 肯定する答えに、尚隆は利広を見たが、こちらも首を振った。
「私も、長生きしているけれど、そんな話は初めて聞くよ」

「――とにかく、は今、仙籍に入っていないということ……風漢、の傷の具合は……」
「……良くないな、相当出血していた。放っておかれても、今日、明日にどうこうということはなかろうが、助けるのは早い方がいい」


 そうして、その場を辞して戻って来た後も、尚隆には仙籍のことよりも、今のはこちらの戸籍すら無いのだということの方がよっぽど気にかかった。
 そのまま、この世界から消えてしまうのではないかという、漠然とした恐れ……



「………………」

 尚隆がきつく目蓋を閉じた時だった。
 控えめに扉が叩かれ、こんな時間に誰だと答えると、意外な来訪者の名が告げられた。
 驚きつつも入室を促すと、その人物が尻尾をそよがせながら入ってきた。

「――楽俊」
「夜分にすみません。少し失礼してもいいですか」

 拱手した鼠姿に苦笑して、尚隆は椅子を勧める。
「どうした、いつこっちに来たんだ。確か、大学の休みで巧に里帰りしていたのではなかったか」
「はい、その巧からの帰りに陽子に会っていこうかと堯天に寄ったんですが……泊まっていた宿屋で、以前に知り合った禁軍左将軍殿に会いまして、話をするとすぐに陽子のとこまで連れてってくれたんです」

 そうか、とどこか上の空な尚隆をじっと見つめて、楽俊は口を開いた。

「まだ、起きておられるだろうと思いました。――今まで陽子と話していたんです」

 卓の上に転がった酒瓶を起こし、楽俊は改めて尚隆を見つめた。

「延王は、のことがお好きなんですね」

 からかうでもなく、疑問系ですらない言葉に、尚隆は一瞬言葉に詰まって、苦笑した。
 陽子に何を吹き込まれたのかしれない――
 楽俊の真摯な視線に根負けして、尚隆は短く答えた。

「ああ――」

 楽俊はその答えに満足そうに髭をそよがせ、ゆっくりと立ち上がった。

「だったら、おいらも協力させて貰います。友達として、には幸せになって欲しいんで――」







04.1.26
CLAP