暁の声 - 追朔の章1

「いやぁ~、いい天気だねぇ~」

 慶国は首都・堯天のある瑛州へ入ろうかと言う山々の上空に、平和な声がこだました。
 その言葉の通り、まだ日も頂点へは昇りきらないこの時間帯、慶の空は清々しいほどの好天に恵まれている。

「……少しは静かにできんのか」
渋面で溜息をついたのは、尚隆――いや、いま現在は風漢と呼ばれる男だ。

 いまだ荒廃の傷跡も癒えぬ貧しい慶国の上空を、二頭の立派な趨虞とその主たちが飛んでいる。
 飛んでいると一口に言っても、ふわふわと進んでいる訳ではない。
 穏やかな口調で会話していようとも、騎獣随一のスピードを生かし、二頭の趨虞は文字通り矢のように飛んでいるのだ。
 二者には、急ぐ理由があった。

 その一方は、たまに乗った風漢。そしてもう一方は……

「本当に意外だよ、風漢。順調な国で会ったのにも驚いたけど、君のあんな様子は初めてだったからね」



 昨夜――もう一方の趨虞の主人・利広は、愛騎を駆って雁から慶へと入った。
 実はその直前に慶から船で雁へと渡った身としては、とんぼ返りの二度手間に、降り続く雨に八つ当たりするくらいには倦んでもいた。

 しかし、慶に入って間も無く、利広は辺りの様子がおかしいことに気付いた。
 得体の知れぬ予感――それを裏付けるかのように落ち着かなくなった騎獣。

 いくらも行かぬ内に、自分の直感が当たったことを知る。
 眼下の森を覆うように、行く手に数匹の妖魔が群れていたのだ。

 慶に新王が起って7年――まだ国の建て直しには時間がかかるとは言え、その治世は順調に国土を満たしている。
 国境線を挟んだ雁に至っては言うに及ばず。
 妖魔が自然に出没する地域では有り得ない。

 利広は少し逡巡し、妖魔に気付かれぬよう風下に回って近づいた。
 幸い、激しい雨が気配を隠してくれた。

 さて、ここからどうするか――――そう思った矢先に響いた女の悲鳴。

「――――っ!!」

 何事かを叫ぶ男の声が続いて、直後、周囲に群れていた妖魔は一斉に飛び去った。
 驚いて事の成り行きを見守るしかない利広の視界に、飛び去る妖魔の中にさらりと揺れる金色の髪が映ったようにも思え、事態を把握しようと頭を抱えていると、真下に一人の男が現れた。

 草木を掻き分けて転げ出てきた男は、先程の声の主だろうか、何事か毒づいて近くの木を叩き、ふいに上を見上げた。

 趨虞に跨って浮かんでいた利広と、その男の視線が合い、そして双方は驚きに見開かれた。

「――――利広…」

「風漢……!?」



「連れがさらわれた」
 そう簡潔に言った風漢は、彼の趨虞を呼び、利広に告げた。
「俺は今から金波宮に行く。お前も来い」

 有無を言わせぬ口調――利広は驚いた。
 こんなに余裕の無い風漢という男を見たのは初めてだったからだ。

 風漢にしてみれば、こんな現場に突然現れた利広にいろいろと聞きたいことがあるに違いない。
 だが、それを後回しにしてでも、先に金波宮に――景王の元に行かねばならぬ事情があるという。

 それは利広の目的にも近づく予感がしたし、何より興味の方が上回った。
 だから、お互い何も聞かずに金波宮へと急いでいるのだ。

 だが、もう瑛州に入った。
 金波宮を目前にした今、他国の王宮へ乗り込むにはお互い身分が微妙であることから、確かめておかなければならないことがある。

「――――風漢」

 こちらの軽口も無言で受け流していた風漢は、利広の真面目な声に視線を返した。

「確認しておくけれど、あちらは風漢の正体のことは……」

 景王の登極には延王が助力した――それを知っていて尋ねた。
 風漢も勿論、利広がそれを知っている前提で答える。

「三日前に風漢としてあそこを出た。――お前も俺の知り合いと名乗ればいい。気付く者もおるだろうが、ただの風漢と利広として行くのだから、堅苦しいことは必要ない」

「……了解。それともう一つ――」

 どうせもうすぐ詳しい話を聞くことになるだろうが、その前にこれだけは聞いておきたい。
 利広としても、雁の―― 一国の興亡が関わっているとなれば、それなりの心積もりは必要なのだ。

「妖魔にさらわれたという君の連れ――― 一瞬だったけど、金色の髪が見えた気がしてね。あれは――……」

「…麒麟では、無い」

 麒麟では無いという言葉に安堵しながら、利広は本日何度目かになる意外な心地を抱いて風漢を見た。
 これ以上は答える必要は無いというように伏せられた顔、一見何も見透かすことの出来ないそこには、濃い憂いが浮かんでいた。

「……そうだったね。雁の麒麟は、麒だった」

 言うと、風漢の眉間が少し動いたような気がして、利広はおもしろそうに目を細めた。

 凌雲山の上を目指し、雲海を抜けて、金波宮の禁門を直接目指す。
 迷いの無い風漢についていくと、開かれた禁門に出迎えが出ているのが見えた。



「雁お………」
「風漢!」
 風漢の他に人影があることを認めた少年は、最初に駆け寄ってきた人物の言葉を遮ってそう声を上げた。
「あ……と、風漢、こちらは?」
 言い直して、尋ねたのは、簡素な感服を纏った緋色の髪の少女。
 陽子、と答えた風漢に、利広の瞳が見開かれた。

 思えば、大層な面子だ。
 駆け寄ってきた六太は頭部を隠しておらず、その後に赤髪の「陽子」という人物、その後ろに控えた麒麟と高位と思われる官が数人。
 これを見た利広が、ほぼ全員の正体に気付いていると分かるだけに、風漢は溜息をついた。

「……面倒な……。利広、今は時間が惜しい。お互い、割り切って非公式ということでどうだ?」

「………まあ、何だか事情があるみたいだしね。では、景王陛下、景台輔、延台輔、それに慶の官吏の方々。私は奏からの旅人、利広。風漢とは、長い知り合いです」
「奏の…利広殿………奏国の卓郎君にございますね」
 冷静な浩瀚の言葉に、陽子らは一様に目を見開いた。
「堅苦しく呼ぶと、そうなるかな。ただの宗王の放蕩息子なんだけど。とにかく、こちらの事情に関係のありそうな事件を追っているので、風漢にご一緒させて貰いました」

 風漢――と利広が促すと、彼は重い口調で陽子たちに告げた。

「――スマン、俺がついていながら、妖魔に連れ去られた」

 誰が――と問う者は、ここにはいない。
 それぞれの驚愕から最初に立ち直ったのは、青い顔をした陽子だった。

「取り合えず、中で詳しい話を――」

 馬屋番に騎獣を預け、風漢と利広は、慶国一行の後に続いて宮の中へ入った。

「……………」

 小さく……本当に小さく呟かれた風漢の言葉に、かろうじてそれを拾った利広は驚き、そしておや、と口の端を上げた。




04.1.26
CLAP