暁の声 - 想流の章6

 間断無く降り続ける雨の音で、は夜半過ぎに目を覚ました。

 慌てて起き上がろうとして、ひどい眩暈に襲われる。
 反射的についた左手に激痛が走った。
 荒い呼吸を繰り返すことで痛みをやりすごし、その元を辿ると、巻かれた包帯に少なくはない血が滲んでいた。

 溜息をつき、焚き火へと目を向ける。

 本来ならが見張りをして保つべきだったその火は、まだ赤々と燃えていた。
 はっとしてその向こうの尚隆を見やると、背を向けて横になっている。
 一瞬眠っているのかと思ったが、そんな筈がないことは、焚き火を見れば明白だった。

 つい眠ってしまったの代わりに、見ていてくれたのだろう。

「……………」

 は無言で身を起こし、洞の壁にもたれかかったまま、焚き火を――その向こうに横たわる尚隆を見つめた。
 昨日からの失態続きに、自己嫌悪も通り過ぎて、無性に泣きたくなっていた。
 勿論、そんなことは出来ないけれど、これ以上愚かな自分は、自分自身が耐えられない。

 雨の音が洞穴内に響く中、ずっとは声をかけることもなく、ぼんやりと焚き火の先を見つめていた。


 金波宮を出る時に、陽子に囁かれた言葉が脳裏をよぎる。
 ――「事件だけじゃなくて、の探し物の方も、吉報を待ってる」

 それが何を指しているのかは、流石にでも分かった。

 金波宮で転んで抱きとめられた時も、一緒にここまで来る間も、確かにずっと長い間忘れていた息苦しさを覚えたのは事実だ。
 いや……もしかしたら、堯天の妓楼で初めて逢った時から――敵かもしれないと警戒していた時から、既に惹かれ始めていたのかもしれない。

 けれど、彼は王だ。
 元々、手の届かない人――人ですら無く、その身は神籍に入っている。
 仕えたいと思うことすらおこがましい壁が間に有り、更に彼の王としての顔は、嫌が応にでも500年前のかの人を思い出させる。

 ――「……」

 自分の名前を、優しく……けれど狂気の篭った眼差しで呼んだあの瞳が、はどうしようもなく愛しく…そして哀しくて堪らなかった。


 足手まといにしかならない状況で、自分の気持ちすらままならずに――それでも、二人きりのこの空間に心を乱さずにはいられない。


 全てを振り払うように一度強く目を閉じたは、その場に立ち上がった。
 忍特有の気配を殺して移動する方法――ぬき足を使って、洞の外に出る。

 絶え間無く振り続ける雨が、すぐに全身を濡らした。
 頭に巻いていた布を取り、全身で雨を受けるように空を見上げる。

 500年の時を放浪する間、雨は安らぎを与えてくれる友だった。
 周りの世界を隔離し、煩わしいものから遠ざけてくれる。

 左手の傷口にもその雨は浸透して、熱を持った体は一層力を奪われていく。

 立っていることもままならず、膝が折れ、呼吸が苦しくても、それでもは自分を抱き締めるようにその場に蹲っていた。

 こうして雨に打たれていれば、いつも通りの自分に戻れるような気がして――


 しかし、それを妨げたのは、力強い声と腕。

「――!!」

 冷たい雨にそのまま流されてしまいそうだったの体は、大きな存在によってすっぽりと包まれていた。

「こんな体で何をしている――!」

 苛立たしげなその声に、ゆっくりと顔を上げると、厳しい表情をした尚隆と間近に見詰め合う形になった。

「尚…隆……」
「随分と熱が高いな。……なぜ言わなかった、いつから調子が悪かったんだ!?」
「……痛っ!」

 勢いでの腕を掴んだ尚隆は、突然上がった悲鳴に驚いて視線を移す。そして、更にその目は見開かれた。

「これは……! 昼間の傷か…!? しかし、これは……」

 治るどころか、無茶の連続で悪化してしまった傷口からは、この雨に晒されてずっと血が流れ出していた。
 同じ頃に負った尚隆の傷は、もう大分塞がったというのに――。

「仙籍に入っている者ならば、こんな傷……こんな熱が出るなどと………… ! 、お前確か、妓楼に潜入していた際、仙籍から外れていたと……」

 は、頭の中で何かうまい答えは無いかと探してみたが見付からず、諦めて素直に頷いた。

「はい――今の私は、仙籍には無いようです」
「馬鹿な…!」
 新らしい者を召し上げるのにはきちんとした書類と手順が必要だが、元々仙籍にあった者を戻すだけならば、ほとんど御璽一つで事は足りる筈。

「私の戸籍は500年の間に埋もれてしまったらしく、仙に戻す時には新しい籍が必要なのだと、浩瀚様は言っていました。急いで手続きをして、裟衍に着く頃までには間に合わせると――」
「それでは……」
「最初は遅れているだけかと思ったんですけど、鳥の事もありますから………何かあったのは確実だと思います」

 持久力と傷の回復力など以外は仕事に支障は無いと思い、尚隆に心配をかけない為にも隠していたのだが……まさかこんな事になるとは――は自嘲気味に笑う。

 最初の街・裟衍でも、そこからの船中でも、言葉が通じない為に苦労はしたが、妓楼で覚えた僅かな言葉と仙籍に入っている人が居てくれたお陰で、尚隆にも怪しまれずに済んだ。
 船の中で知り合った光州師や、そして霧枳――彼も素性は知らないが、仙籍にあるのは間違い無いだろう。

「――すみません」

 真剣な尚隆の表情に耐え切れず、は項垂れた。
 しかし、すぐに大きな手によって上向けられ、怖いくらいの光を宿した尚隆の瞳に捕らえられた。

「ただの人間の体で、なぜあんな無茶をした!?」
「私は景王の臣としての仕事をしただけです!」
「無謀な戦いは仕事ではない。一歩間違っていれば、命は無かったんだぞ! 今も――自分の体がどんな状態か分かっているのか!」
「っ! 私はっ……貴方を守ろうと……」
「女に守られるほど情けなくは無い」
「それでもっ! 私は………!」

 お互いの言葉がかみ合わなくて、こんなに近くにいながらその遠さに悲しくなる。
 一人の人に分かってもらえないということが、こんなに身を切るほどに切ないなんて――

「何故、仙籍から外れたままで、平気で仕事を続けようとした!」

「――それが私の望みだからです!」

 尚隆の目が大きく見開かれた。
 緩んだ拘束を払いのけて、は叫んでいた。
 ――安らげる筈の雨が、こんなに苦しい。

「私が陽子に望んだ事だからです! この仕事が終われば、正式に受けて頂くつもりだった………私には、主上を――達王を忘れることなんて――……!」

 不意に強い力で抱き寄せられたかと思うと、の言葉は尚隆の唇によって塞がれていた。
 思わず閉じた目蓋に、雨がはぜる。
 朦朧とする程熱い体――それよりもなお熱く感じられる唇に、全てを奪われてしまいそうな錯覚に陥る。

 だが、その時不意に、遠い昔――遥か蓬莱での記憶がの頭を過ぎった。

 ――パンッ…!

 濡れた頬に音が鳴って、は静かに見返す尚隆を見つめた。

「私は、思い通りに黙らせることの出来る人形ではありませんっ…!!」

 言った直後にぼろぼろと涙が零れてきて、は口を抑えた。
 そのまま身を翻して駆け出す。

 後ろで自分を呼ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。
 今ここで止まれば、涙は逆に止まらなくなる気がして、ともすれば挫けそうになる足を叱咤して走った。
 これ以上、醜態を晒す事は出来なかった。


 そして、この意地が命取りになった。


 錯乱した頭では、警戒心などというものが働く筈も無く――

 しまったと思った時には、全てが遅かった。

 唐突に羽交い絞めにされた衝撃で出た悲鳴を皮切りに、は意識を手離した。








03.9.30
CLAP