「こんな所におったのか……風邪をひくぞ」
ザザザ……
歌うように揺れる波音の合間に、低くよく通る声が掛けられた。
「尚隆…」
が見上げると、自分に影を落とすようにして立っている男の姿。
見下ろす男から、は目を逸らした。
裟衍(さえん)の町食堂で多少なりとも柔らかくなった二人の雰囲気は、良くも悪くもその後の道行に影響を与えた。
まず、船に乗る前に、やたらと浮かれたノリの(実際には、尚隆がをからかって遊んでいただけなのだが)、それも立派な騎獣を連れた怪しい二人連れとして、役人に呼び止められた。また変な噂になるのではないかと、は心配でならない。お陰で、船に乗ってからのの最初の仕事は、伝書の役目を果たす鳥に報告書を持たせて王宮へ飛ばすことだった。
船に乗ったら乗ったで、船室で楽しそうに会話している男女(実際には…以下略)に自然と観客が集まり、二人の人当たりの良さも幸いして賑やかな酒宴となった。
酒宴と言っても安酒を持ち寄っただけのものなのに、スッカリ打ち解けている尚隆は相当杯を空けていた。それこそ、の言になど耳を貸そうともせずに。
「一人で何をしていた?」
よっこらせ、と年季の入った掛け声を出して尚隆はの隣に腰掛けた。
船室へ続く扉とは逆に位置する甲板の上では、強い海風が頬を嬲っていく。
「………………」
隣で息をつく尚隆の質問には答えぬまま、は居心地悪そうに身じろいだ。
「?」
何でも無いことのように呼びかけられて、思わず顔を逸らしてしまう。
「私が何をしていようと、延王君には関係の無いことでございます」
唐突に号など出されて、尚隆は驚きに目を見張った。
「…………」
とて、大人気ないと分かってはいても、今更顔を上げられない。
僅かの沈黙の後、ややあって、強引に顔を上げさせられた。
尚隆の固く大きな掌が、の頬に触れている。
「……」
間近で呼ばれて、の心臓がドクンと跳ねた。
ドクン…ドクン…
高鳴る心臓に、自身が狼狽する。
(何? これは……)
尚隆の手が触れている頬が熱い。
「尚隆……?」
呟いて、どれ程経っただろうか。
実際には、ほんの瞬きする程の時間だったのかもしれない。
「……お前……、酔っておるな?」
眉を顰めた尚隆を見て、数瞬して意味を解したの顔に、カァァと血が上った。
「飲めるが飲まぬと、言っておったではないか」
溜息を伴った言葉に、急いで彼の手から逃れる。
脱力したのと同時に、自責の念が湧きあがってきた。
確かに、だって最初は酒など飲まないつもりだった。
噂に名高き……そして一度手合わせしたことのある延王の実力は疑いようが無く、酒豪の彼にとって些細な酒など何の妨げにもならないとは思うが、念には念がいる。
もし、尚隆が酔い潰れてしまった場合……もし、そんな時に何かがあった場合のことを考えて、まで酒を飲むわけにはいかなかった。
だが、が何を話し掛けても酒盛り相手と話すばかりで取り合ってくれない尚隆が……何となく…何となくおもしろくなくて、ついつい促されるままに飲みすぎてしまった。
元はそんなに弱くも無いのだが、ここ数十年は一適も飲んでいない。免疫の薄れた身体には、効果覿面だったという訳だ。
「雁の光州の州師だという人がいまして……軍の話をする内、勧められるままについ飲みすぎてしまいました」
「光州師……? ……変な事はされなかったろうな?」
急に声音が落ちた尚隆に、は素直に頷いた。
「はい、間諜ではないようでした」
いや、そうではなく……と続けようとした尚隆を遮って、は頭を下げた。
「すみません、大事な仕事を控えている癖にこんな体たらくで……」
一度落ち込むと、後は急転直下だ。
もしも、のことを考えると、子供のような感情で動いた己の軽挙が余りにも恥ずかしい。
尚隆が微かに溜息をついた。
その溜息の意味を図りかねて、は身を竦める。
「――あちらの故郷にも、海があったのか」
唐突な……それでも、静かな問いだった。
の身体から、余計な感情を抜いてくれるような。
「いえ――内陸の小国でしたので。お役目で、何度か他国の海を見ました」
「海は嫌いか」
「……好きです」
「ならばなぜ、そんな怖い顔で睨んでおるんだ」
はっ、とは顔に手を当てた。
睨んで――?
「……手の届かない海を…見る事が好きなんです」
手の届くそれは、恐ろしいから――
「変わったことを言う」
カラカラと尚隆は笑った。
「俺の国はな、瀬戸内の小さな島国だった」
あの時代の日本は、大小様々な国がひしめき合い覇権を争った戦国の世だった。
「俺は、いずれ殿様になる為に育てられたから、海戦の技術に先駆けて『海の怖さ』たるものを普通の子供よりも徹底的に叩き込まれた」
そう言えば、彼の正体を知った時に「あちらでは、一応小国の若様だった」と聞いた。
「それだけ海の怖さを知っていてもな、戦には負けた」
の身体がびくりと震える。
あの時代の人間にとって……しかも一国の主にとって、「戦に負ける」ということは死より何倍も…何百倍も辛いことだ。
「国も…民も――文字通り、海の藻屑という訳だ」
尚隆の声が居た堪れなくて、は顔を上げて彼を見た。
予想と違い、真っ直ぐにこちらを見つめたその瞳に出会う。
思ったよりも深い…大地の色をした瞳が、しっかりと自分を映していた。
「だが、それでも俺は、海を見ると和むし、潮のにおいを嗅ぐと安心する」
ふいに真剣だった瞳が緩み、それは彼特有の自身に溢れた太陽のような笑みに変わった。
「俺は器用では無いからな。己は誤魔化せんのだ」
ああ……と、は茫然と思った。
彼に仕えてみたい――と。
が今まで主と呼んだのは三人。
一人目では蓬莱で、御屋形様と呼んだ国主。生まれた時から決まっていた主だ。
二人目は、流された慶で拾ってくれた今では達王と呼ばれる人。命の恩人であり、心から尊敬し、異性としても慕っていたが、実質的に主従の関係ではなかった。は彼の為に何の働きもしていない。
三人目は、友として知り合った陽子。彼女のことは大好きだし、同じ蓬莱の生まれで苦労の絶えない彼女を支える為に、傍で働きたいと思う。見届けたいとも思う。
けれど………
尚隆に抱いた感情は、そのどれとも違っていた。
かつての蓬莱で――「生涯この人だけが、命をかける我が主君」と決めて臣に下る戦国の武将は、こんな気持ちだったのかもしれないと思う。
世界を――見せてくれるかもしれない。
まだ、自分の知らない世界を。
「?」
呼ばれて、我に返った。
夢から覚めたような、そんな感覚。
目の前には、治世五百年にも及ぶ大王朝を築き上げた王が、訝しげにこちらを見ている。
(馬鹿な……)
は首を振った。
彼は蓬莱でも一国の主で、こちらでは大国の王だ。それに引き換え、自分は達王に情けを掛けてもらっただけのただの海客。
仕えたいと思うことすら、おこがましい。
まして、景王という立派な主を持ちながら。
「どうかしたか?」
(それでも……)
「尚隆は、私が守ります」
今、この旅の間だけは、彼の為に行動しても良い筈。
延王を伴うという時点で、役目として彼を守るということは念頭にあったが、今は自分の意思として強く思う。
この命に代えても、守ってみせると――。
「おいおい、俺を女に守られる情けない男にするつもりか」
大仰に肩を竦める尚隆に、はただ、笑った。
03.6.28
CLAP