黒々とした硬質の静寂を持った夜風が、頬を撫でていった。
遠くなる堯天の灯かりを眼下に見送りながら、は前だけを見据えて騎獣を駆っていた。
斜め後方には、ぴったりと延王・尚隆が続いている。
彼が乗るのは、彼自身が黄海で捕らえた『たま』という風変わりな名の趨虞。
の乗騎は、白い縞と赤い鬣を持った金色の目の馬――吉量という妖獣だ。が『サクラ』と名付けたこの吉量は、大分前に黄海に入った時に、とある人から貰ったもので、もう随分長い付き合いになる。
長年旅を共にした相棒であるサクラに跨っていると、不思議と不要な感情がろ過されていくような気がした。
碇申の首実検をした帰りに、尚隆相手に不自然な態度を取ってしまったのが五時間前。
陽子に会って狼狽してしまったのが、四時間と半前。
そして、陽子に出立の挨拶をして金波宮を出たのが半時間前。
時間はあったものの、自分でもよく分からぬさざめく感情を持て余して、どうにも平静を欠いていただったが、こうして夜空をひたすらに駆けていると、自然と心が凪いでいった。
この空気のお陰だと思う。
五百年に及ぶ放浪生活は、人間の本質さえ変える事が出来るのだろう。
元来から然程寂しがりではなかったが、何年も誰とも会わず……というのは流石に寂しくて耐えられない――それが「人間」というものだろうと思っていた。
だが、今ではその認識もすっかり変わってしまった。
親しくなった人と数年を共にした事もある。
一つの町に留まって、普通の生活をしてみたことも。
けれど結局、は独りだ。
いつだって、最後には自分独りが残される。
孤独さえ、味方につけて………
感情を隠してくれる闇を、
体温を封じ込めてくれる雨を、
吐息を奪ってくれる寒さを、
心地良いと思うようになったのはいつからだったろう。
それらに阻まれるようにして外界から遮断され……『独り』を感じて、ほっと息をつくようになったのは――……
(……主上………)
自嘲気味に溜息をついて、今は達王と呼ばれるその人に想いを馳せた。
彼は彼以外の「帰る場所」を見つけろといった。それは畢竟、「安らげる相手」という意味だろう。
だが実際は、放浪して五百年……は、”孤独”に対して安らぎを持つようになった。
――「もうしばらく、も気の済むまで『帰る場所』を探すというのはどうだろう?」
友人であり、新しい主である少女はそう言ってくれたけれど……
(やっぱり、私は………)
目を伏せて、心を決めた。
この仕事から帰ったら――もう一度、仙籍の削除を願い出よう……と。
港町・裟衍(さえん)――慶国麦州の青海沿岸に位置する、漁業と交易の盛んな町だ。
良い漁場が近海にあるのか、港は新鮮な魚市で活気に満ちていた。
カラッと乾いた潮風が、人々の生気に溢れた表情を一層明るくしている。
その気質は、港を離れた町中でも変わらないようだった。
「――聞いていた話とは随分違うな」
正午、ちょうど混み合ってきた掻き入れ時の食堂で、食事よりも先に酒を注文した男は言った。
「そのようですね」
「ところで、その一杯だけにして下さいね」と釘を刺して、もその意見に同意した。
碇申が殺害された先日――あの時間とほぼ間をおかずして、この町で不審な人物が目撃されたという。
浩瀚から聞いた情報曰く――「見たことも無い、大きな妖魔を連れた覆面の男が、北へ向かう船に乗った」
聞くからに怪しいこの話の真偽を確かめる為、と尚隆は、北への船を中心に船乗り達に聞き込みを行った。
夜に堯天を発ったのは、朝の出航の時間に間に合わせる為だ。
強行軍の中、早朝に行った聞き込みの結果は……
「浩瀚は優秀な官吏では無かったのか」
「この場合、浩瀚様に罪はありませんよ……複数なら、一番怪しい情報が届くというのは頷けます」
確かに正論なだけに、尚隆はふんと杯を煽った。
人のいい船乗り達は、口も軽く……いや、軽すぎて、蓋を開けてみれば様々な目撃情報が飛び出した。
我こそは、自分の目で見たんだ、と力説する者が十人いれば、その十人ともがてんでバラバラの証言をする。
これはもう、噂話と変わらないと悟った時には、尾ひれがついているのか背びれまでついているのか、皆目分からなくなっていた。
「人食い狼を連れた大男、美しい巨鳥を連れた子供、妖魔に跨った老婆………どうしてこんなにバラけるんでしょうか」
「さぁな……趨虞を連れた坊ちゃん風の優男…などというのもあったから、そう出鱈目ばかりでもあるまいが……」
「……?」
「まあ、良い。行ってみれば分かることだ」
これだけ様々な証言で、唯一一致していたことは、その”怪しいもの”が雁への定期便に乗ったということだった。
目的地が分かっていれば騎獣で先回りもできるが、その船は途中いくつかの慶の港に停泊する。
そこでたちも、昼過ぎに出る同じ航路の船に乗ってみようということになっていた。
運ばれてきた料理に箸をつけながら、はこっそりと目の前に座る男に視線を向けた。
一本だけと限定された酒をちびちびと飲みながら、料理を平らげていっている。その様子は、王宮の料理を食べる時と変わりない。それどころか、妙に機嫌がいいようにさえ感じられた。
ふう、とは内心で溜息をついた。
昨日のことがあってから、尚隆とは必要なこと以外の……普通の会話をほとんど交わしていない。
金波宮を出た時は、相棒の吉量を駆って平静を取り戻していたものの、やはりいざ面と向かうと、どんな態度を取ればいいのか分からなかった。
(あんなの、只の事故……そう、事故なんだから……)
黙っていると変に思われるかも……などと考え、は言葉を探した。
そもそも、彼が海客だと聞いた時点で……忍のことを知っていた時点で、話してみたいと思っていたことはたくさんあるのだ。
「あ…あの…っ、尚りゅ………あ、風漢って呼んだ方がいいですか?」
唐突に、勢い込んでそう言ったに、尚隆は目を見張った。
「ああ……そうだな。………いや、ここは慶だし、どちらでも構わんぞ」
「じゃあ、雁に入ったら風漢って呼びますね。それまでは、尚隆ってことで」
そう言って、はいかにも満足そうに笑った。
本当に些細なことだが、一つ何かが解決するというのは精神的に満たされる。
先程までとは打って変わり、上機嫌で食事を続けるを見ながら、尚隆は杯を置いてくくくと笑った。
「おかしな奴だな。そんなに拘ることか?」
「う……、な…名前は大切なんですよ」
言い訳のように言ってから、は微かに目を伏せた。
祖国で、異人の子として虐げられながら、にとって確かだったものは、両親が神社に何度も詣でて考えてくれたというこの名前だけだったから――
「尚隆の趨虞……『たま』って名前なんですね。私の御屋形様が飼ってらした猫も、そんな名前でした」
気分を変えようと言った言葉に、尚隆も笑顔で応じた。
「実は、俺も蓬莱で育てていた猫に『たま』と名付けておったのだ。たまの他にも館で何匹か飼っていてな。昨日六太が乗ってきたもう一頭の趨虞には『とら』と付けてある」
「『とら』も飼っていた猫の名前なんですか?」
「そうだ」
笑いながらそう言う尚隆に呆れながらも、大分前に六太から聞いた話を思い出した。
――「俺なんて、主人から『馬鹿』って字付けられてんだぜ?」
あの時は、六太の主が自分の主でなくて良かったと心底思ったものだ。
「そう言えば、の吉量は何という名だ?」
思い出したように尋ねた尚隆に、そんなことも話していなかったかとは改めて自分の余裕のなさを自覚した。
「『サクラ』と言います」
「ほぅ……お前もあちら風だな。――なるほど、赤と白で桜襲ねか」
は目を見張った。
名前を言っただけで由来を当てたのは、尚隆が初めてだ。
先の言葉の通り、白い縞と赤い鬣を持つ吉量に、日本の衣服に使用される襲ね色目を見立てて「桜襲ね」から名を付けた。
「……………」
「ん? どうした?」
「尚隆って、意外と風流を解す人だったんですね…」
酒を注ぐ尚隆の手がぴたりと止まる。
「尚隆?」
首を傾げたに、尚隆は大声を上げて笑った。
周囲の注目を浴びながら、ますますは首を捻った。
03.6.17