暁の声 - 彷徨の章4

の腕を知った時点で、少しは刺客だのの警戒をしなかったのか」

 話を聞いて、呆れたように言った尚隆に、陽子は困ったように笑んだ。
「後から考えてみると確かに無用心だったんですが……何しろ、はあんな性格ですので」
 妙に説得力のある言葉に、尚隆も苦笑する。

「それで? その後、宮に連れてきたのか」
「はい。は固辞していたのですが、私の帰りが遅いと景麒が迎えに来て……」
「ほぅ……あの堅物が驚く所を、俺も見たかったぞ」
「確かに。あれは見物でした」

 二人は同時に声を上げて笑った。
 そこに、背後から声が掛かって陽子はギクリと身を縮める。
「――主上、ご歓談中失礼いたします」
「け…景麒」
「急ぎ、お目通しして頂きたい書類がございまして」

 先ほどの話を聞かれていたバツの悪さもあり、陽子は大人しく従って席を立った。
「延王、すみません。また後ほど……」

「――待て」
 去ろうとした背中に声が掛かり、振り向いた先で幾分真剣な尚隆と目が合った。
「結局、斉暁君の頼み事はきいてやったのか」

「……すぐにはきけない頼みでしたが、条件付きで叶えると約束しました」
「それが、陽子の心配する『約束』か」
 そう問う視線は、内容を促していたが、陽子は逡巡した後首を振った。
「そうです。内容は私の口からは言えませんが……」

 前方で景麒が呼ぶ声を聞きながら、最後に一つだけ、と陽子は言葉を残した。

の初恋の相手は、達王だそうですよ」





 御璽を押した書類を持って景麒が退出した扉を見つめながら、陽子は軽くため息をついた。
「今頃、延王は怒っているだろうか……いや、呆れている…かな?」
 独り言を零してくすくすと笑う。
 との例の『約束』を餌に釣ったのに、結局その話はしなかった。おまけに、いきなりの初恋相手の事まで持ち出されたら、何のことだと思われるだろうか。
 陽子としては、少しでも友達の背中を押してやりたいが故の行動だったが……少し喋りすぎたかもしれない。

 そう、は大切な友だ。
 勿論、同じ海客ということでも親近感はあったが、あのたった二日間、あの瞬間に、陽子にとって、楽俊や祥瓊・鈴と同じくかけがえの無い存在となった。



 あの後――

「その斉暁君が……私に何か………」
 どうしたらよいか分からず、取り敢えず当初の質問をしようとしただけなのだが、は変な顔をして見返してきた。
「失礼ながら、主上におかれましては、どうぞ今まで通りにお呼び下さい。私などに敬語は無用です」
 更に、「できれば、楽俊も今まで通りに」というものだから、彼も困ってしまった。
 だが、その調子が余りにも最初に会った時と同じだったので……陽子と楽俊は顔を見合わせて笑った。
「じゃあ、も今まで通りに接してくれ。堅苦しいのよりも、陽子と呼んでくれた方が私も嬉しい」
「ですが……」
 食い下がろうとしたの腕を、突然獣形に戻った楽俊がぽんと叩いた。
「楽俊……!」
 半獣だったと知っても、の表情には単純な驚きしかなかった。
 それが分かったのか、楽俊も髭をそよがせて笑う。
「諦めろ、。おいらも、陽子と知り合ったのは登極前で、王様だって知った時には戸惑ったんだが、そしたら随分説教されてな。人の間には、立ってる分だけの距離しか無いって」
「説教って……あの時は私も必死だったから……!」
 珍しく拗ねたように言う陽子と、それをからかう楽俊。
 はしばし目を見張って、やがて小さく吹きだして拱手した。
「流石主上、私も長く生きているつもりですが、勉強になりました」
 言葉こそ丁寧だったが、その表情は悪戯っぽく笑っていたので、陽子も楽俊も安堵して共に笑った。
「実を言うと、今すごく嬉しいんです。私も、陽子や楽俊と友達になりたいと思っていたから……こんなことを言っては迷惑でしょうか」
「まさか。私も、とは友達になりたいと思っていたんだ」
「おいらもだ」

 そのすぐ後に景麒が迎えに来て、楽俊とは別れてしまったし、陽子とも人目を憚って軽口をきくことは無かったが、暖かな感情の元に、確かな友情が成立していた。



 コンコン

「主上、こちらにおられますか」
 陽子が思い出して笑みを浮かべた瞬間だった。静かなノックと共に、扉の外から聞きなれた声が聞こえた。
「浩瀚か。入ってくれ」
 入室してきた浩瀚は、腕に大量の書簡を携えていて、それを見ただけで陽子の顔は引き攣った。
 今日は仕事に身が入っていないと、釈放して貰えた筈なのだが――……
「台輔のお仕事は捗ったご様子でしたので、調子を取り戻されたのかとお持ちしました」
 すかさず先手を打たれ、陽子は諦めの溜息をつく。どうせ、明日以降に降りかかってくる仕事だ。
 覚悟を決めて書簡を紐解きながら、どうやら付き合ってくれるらしい浩瀚に陽子はふと漏らした。
「さっきまで、初めてと会った時の事を思い出してたんだ」
「あれから、もう3年程になりましょうか」
 浩瀚も感慨深そうに宙に視線を浮かせる。
「あの時は、流石の浩瀚でも驚いていたな。松伯が留守なのを知っていた筈なのに呼びに行くし」
 くすくすと陽子が笑うと、浩瀚は苦笑した。
「斉暁君のことは伝説上の人物としては存じておりましたが、容姿までは伝わっていませんでしたので………面識のあるだろう老師にお聞きするのが一番だと思ったのです」
 実際には、松伯が朝廷を辞した後には流されてきたので、二人は直接的な面識は無かったのだが。
「でも、結局いろいろ調べて貰ったしな。あれで、私よりも浩瀚の方がずっとに詳しくなってしまった」
 冗談めかして言った影で、陽子はそっと溜息を落とした。

 そうだ、あの事もその時に知ったんだ――……

「けれど、殿は本当に良いお方です」
 飛びかけていた思考を、浩瀚の言葉に向ける。
「斉暁院はしばらく無人でしたし、随分荒れていたので人をやって整えさせようとしたのですが、殿がその必要はない、と。もうじき主上に仙籍をお返しするつもりだと言われました」
「!」
 陽子は思わず持っていた筆を取り落としそうになった。
「それで、にあの事を言ったのか」
「はい。初めはまだ調べが進んでいませんでしたので、後日に、『達王の勅命があるからそれは難しい……』と」
 平然な顔で告げる浩瀚に、陽子は心中で深く溜息をついた。気が付きすぎるというのも考えものかもしれない。
「だから、はあんな………」
「仙籍をお返しできないなら、せめて仙の命を利用して、友でもある主上の元で精いっぱいお仕えする――と、潔い顔でおっしゃいました。私もお止めしようとしたのですが、あのような瞳で言われましては……」
 分かる気がする、と陽子は笑った。
 切れ者の浩瀚が、には初めから一目もニ目もおいており、更に彼女の言にも弱いということには気付いている。

 後は自分でやるから、と浩瀚を下がらせ、陽子は露台に座って溜息を落とした。


 斉暁院の――の願い事。
 金波宮に上がり数日、ようやく二人きりになれた時に彼女は改まってこう言った。

「私の仙籍を、削って頂きたいのです」

 と達王の間に、何があったのかなど陽子は知らない。
 けれど、浩瀚の調べでは、斉暁君は達王治世の晩年に昇仙し、その数年後に行方知れずになった。
 それ以後、今日まで慶で斉暁君が現れたという記述は無い。だからこそ、伝説上の人になっていたのだ。

 が五百年もの間、どこで、何を考えて、何をしていたのか……それらは陽子には知る術がないが、今になって景王を訪ねたことも、そんな頼みをしに来た事も、彼女にとってはよくよく意味のあることなんだろう。

 だが……、あの事――達王が崩御する前に、『勿削斉暁院之仙籍』という勅命を残したということ――を浩瀚から聞いたばかりだった陽子には、簡単に叶えることは出来なかった。

「それは…出来ない」
「――なぜですか?」
 ゆっくりと言った拒絶の言葉は、静かな調子で問い返された。
「では逆に、私もなぜと聞いてもいいだろうか。そもそも、はなぜ宮を出たんだ?」
 答えを期待してはいない問いだったが、意外にもは明確なそれをくれた。

「主上の……達王の、ご命令だったのです」
「達王の!?」

 は一つ頷いて、話し始める。
「私は海客ですが、幸運にもこちらに流されてすぐに達王にお会いできました。しかしその頃には、既に国は傾き始めていたのです」
 遠くを見つめるの瞳には、懐かしい面影が映っているのかもしれなかった。
「この髪のせいか、仙に召し上げて頂き、短い間ですがお側にあって、私は恐れながらも達王をお慕いするようになりました」
「それは……達王も?」
 この質問には、は曖昧に首を振った。
「分かりません。私はあちらでもそういう経験は無くて……大切にして頂いていると思っていましたが、とうとう台輔が失道されたその日に私は慶を出るように言われましたので」
 目を見張った陽子に、は気恥ずかしくなったのか表情を和らげて苦笑する。
「『自分で帰る場所を見つけるまで旅をしてみろ』なんて言われて追い出されてしまいました」
 帰る場所――当時のにとっては達王がそうだったのではないだろうか。
 それはつまり、自分以外を探せということなのか………失道した後では仕方ないのかもしれないが……
「私なりに考えて、ずっと旅をしてきましたが、そろそろ疲れたかな……なんて。……本当は、こんな自分は嫌いなんですけど」



 そうやって辛そうに笑ったの表情まで鮮明に思い出せて、陽子は露台を後にした。
 陽子には、どうすればよいのか分からなかった。
 の気持ちはにしか分からない。
 しかし、達王の気持ちもそうだろう。何を思って、を遠ざけた上にあんな勅命を出したのか――……
 だからこそ、陽子はに条件付きで約束をしたのだ。

「もうしばらく、金波宮に留まってみないか? 本音を言えば、私は一人でも多く味方が欲しい。が側にいてくれたら、とても心強いと思う。もうしばらく、も気の済むまで『帰る場所』を探すというのはどうだろう?」
 卑怯だとは思った。こんな言い方をすれば、優しいは拒まめないと分かっていたのに。
「それでも…見付からない時は――?」
「……の望む通りにすると、約束する」

 しばらく逡巡した後、はその場に拱手した。



 陽子は、あの約束を思い返す度にずっと溜息をついてきた。
 だが、それももう終わりになるかもしれない。

のあんな顔は、初めて見たな……」
 呟いて、ふふと笑う。
 特定の人の名を出しただけで、あんなに真っ赤になるなんて――。

「友達として、少しくらいお節介を焼かせて貰おう」

 陽子は楽しそうに微笑んで、書類に立ち向かう為に腕まくりした。
 夜にはその相手と旅立つ、友のことを想いながら――






03.5.17
CLAP