『レイヴン』という名前は、ひょんなことで適当に付けられた名前で、その由来は限りなくふざけたものだし、別段気に入っているわけでも無い。
 その上、気まぐれに名付けた人物――ドン・ホワイトホースも、既にこの世を去った。

 けれど彼は、周りから親しみを込めて呼ばれるその名が――『レイヴン』である時の自分が、僅かに好きだったのだと今になって気付いた。

 しかしそれはもう遅すぎた。

 ミョルゾでシュヴァーンとしての任務を果たした時――つまり、自分を『仲間』として認めてくれている若者たちの心地良い信頼を裏切ってエステルを攫った時、彼は自ら『レイヴン』を殺したも同然だった。

 だから、彼はこの古い遺跡の底で『レイヴン』と呼ばれてもこう答えるしか無かった。

「俺はシュヴァーン。レイヴンなどという名前では無い」

 苦しげに歪む若者たちの顔に、一人の娘のものも重なる。

 ――「レイヴン、シュヴァーン……名前なんてどうでもいい」

 そう言ってくれた彼女の……けれどその言葉に縋ってはいけないと、感情の全てに蓋をして。

「来ないならこちらから行くぞ」

 告げて、騎士団隊長主席に与えられた真紅の剣を握り直した。

34.Rilasciare - 解放 -

 思えば、彼女に――に正体を知られたことがそもそもの間違いだったのかもしれない。

 シュヴァーンでもレイヴンでも関係なく扱ってくれ、更に気を張らなくていいとまで言ってくれるの傍は、今まで感じたことの無い気楽さがあった。

 それに安らぎなど感じてしまって、そのことに危機感を持たなかった自分はつくづく馬鹿だと思う。

 がアレクセイの元に残ることを決めた時……彼女と同室だった宿の部屋に一人で戻った彼は、今までの生活にぽっかり穴が開いたような気がした。

 あの戦争の後から今まで、特に何も執着を持たなかった彼は、それがどういう感情なのかを量りかね、そして分からないまま目を背けた。

 喪失感と共に思い出されるのは、の楽しそうに笑っている顔――けれど、別れ際の泣きそうな顔が頭をよぎると無いはずの心臓が痛んだ。

 ともすればあの手を離したことを後悔してしまいそうになるのを、それが彼女の意思だったのだと言い聞かせてそれ以上考えないようにしていたというのに、姫君をアレクセイに引き渡して最低気分の時に声を掛けてきたのは意外な男だった。

 初対面から今まで、互いにその正体に気づいていながら暗黙の了解のように<天を射る矢のレイヴン>と<海凶の爪のイエガー>としてしか接触は無かったというのに、あろうことか常に無い真面目な口調での名を持ち出した。
 しかも、人体実験だの精神的に堪えているだの物騒なことを言うだけ言うという最低なおまけ付きだった。

 そして、バクティオン――ヘラクレスに乗って後からやってきたアレクセイの腕に抱かれていたのは、意識も無く死人のような顔色をしただった。

 目にした瞬間に、動揺して頭が真っ白になって、体はその場に凍りついた。

 目を瞠ったまま木偶の坊のように立ち尽くすシュヴァーンの横を、アレクセイはそのまま何事も無いように通り過ぎようとし、彼は思わず呼び止めていた。

 冷たい赤い目に射抜かれながら「彼女は……」と尋ねると、体内のエアル不足で危険であることを淡々と説明し、シュヴァーンが口を開くよりも早く「君が連れて行け」との身を押し付けてきた。
 最奥の祭壇でエアルを補給させる方法を説明し、シュヴァーンには当然のようにデュークを迎え撃つのに同行するようにと命じた。

 彼は、疲れきった心で力無く絶望した。
 アレクセイは、この異世界から来たという娘に幾分か気を許しているように見えた。
 更にそんな相手から慕われて、流石の騎士団長も彼女には無慈悲な真似はしないだろうと思っていた。

 けれど、実際には顔色一つ変えず、こんなにも簡単に彼女さえ切り捨てられるのだ。
 ――自ら抱えてきてエアル補給をさせようとしていたのだから切り捨てると言うと語弊があるかもしれないが、けれどいざとなったら躊躇わないだろうという証左には十分だった。

 じわじわと身を苛む泥のような虚無感に、シュヴァーンはを抱く腕に力をこめた。

 アレクセイの傍らで球状の檻に入れられたまま意識を失っているエステルを見て、そして自らの腕の中で顔色悪くぐったりとしているを見た。

 頭に浮かんだのは『人形』という言葉だった。
 道具と言って憚らないように、アレクセイにとってエステルもも――そしてシュヴァーンも、意思のある人間では無い。

 それを痛感してシュヴァーンは視線を落とした。

「……俺が足止めになります」

 出てきた言葉は、我ながらひどく乾いた感情の無い色をしていた。

「忘れるな。おまえを作ったのはこの私だ。おまえは私のものだ。勝手な真似は許さん」

 顎を掴まれて言われた言葉も、シュヴァーン自身を必要として言われているものではなかった。
 『シュヴァーン』というアレクセイが作り上げた駒に対する占有感――道具が勝手に動くことへの嫌悪だ。
 狂気じみた色を宿した瞳には、かつて遠い日に見た清廉潔白な理想を掲げた光はもはや影も無かった。

「……俺はシュヴァーン・オルトレイン。あなたの部下です」

 彼はそれだけを答えて、身を翻した。
 アレクセイは何も言わない。
 その瞬間何かが一つ、音を立てて壊れたような気がした。


 そして、神殿の最奥で――

 自らの心臓魔導器への影響のために離れた場所から見守る中で、眠り続けるは目を覚ました。

 彼女は今の状況に――というよりも目の前のシュヴァーンに――驚いているらしいが、大分顔色も戻って意識もはっきりとしている。
 内心安堵しながら体調を聞けば、自分の体よりもエステルの身を心配して……その余りの無頓着さに彼は思わず声を荒げ、自嘲した。
 ずっと彼の身体を案じてくれていたに、何か言えた義理では無い自覚もあったし、今更、この期に及んで、彼がに言えることは何一つ無かった。

 こうして向かい合うのももうこれが最後だろう――そう思えば、無責任に何を言うことも出来ず、かと言ってその場から立ち去ることも出来なかった。
 彼女に近づけない…離れることも出来ないこの距離が、つくづく道化づいた自分には相応しいような気もした。

 それでも、最後に呼び止められた名前に、彼は無意識に足を止めてしまった。

 ――「レイヴン!」

 それは――が呼ぶその名前は、彼が気に入っていた少ない物の内の一つで。
 けれどその名前の男は、『シュヴァーン』が殺してしまったも同然だった。

「レイヴン…シュヴァーン……名前は何でもいいよ」

 思えば、アレクセイが名づけた『シュヴァーン・オルトレイン』とドンが名づけた『レイヴン』――二つの存在に一番こだわっていたのは彼自身なのかもしれない。

 名前なんて関係ないと、言ってくれるの言葉からも目を背けたのは、その意味など考えれば何か張り詰めていたものが崩れてしまうような気がしたからだ。

 泣き笑いの顔で「ありがとう」と「あなたに会えて良かった」と……そんな想いを向けられる資格さえない自分なのに、その時彼の中に湧き上がったのは、それこそ泣きそうなほどの感情だった。

 そして彼は……逃げた。
 からも自分の感情からも目を背けて、アレクセイに手を引かれ連れて行かれるその様子からも、追ってくる悲痛な声からも逃げた。


 そして今――眩いばかりの若者たちと暗い神殿の底で剣を交えている。

「どうしてなのさ――ねぇ、レイヴン!」
「いつもその調子でやってくれよ」

 彼の人生はずっと逃げ続けていたようなものだった。
 唯一向き合った大切なものも十年前に失った。

 逃げて流されるだけで……そして行き着いた先は、こんなに懸命に向き合ってくれる若者たちと敵対しているどうしようもない現状だ。

 彼は、本気を出し切れないどこまでも甘い彼らに斬撃を繰り出しながら、この十年間のことを思った。

 何度も。
 何度も何度も何度も何度も何度も繰り返し。
 明けない夜の中で、血を吐くほど思ったのだ。
 もう、嫌だ。
 終わりにしたい――と。

 きっとこの日が来るのを考え始めたのは、やユーリたちと旅をするようになって、居心地の良さなんて感じて、罪悪感が芽生えた頃からだ。
 彼には罪悪感を感じる資格さえ無かったが、ユーリたちなら『資格』がある――終わらせてくれる資格が。

 自ら死を選ぶのではない。
 『彼らに罰せられ誅されるなら、仕方ない』

 知らず、自分の口元が緩むのが分かった。
 ドンの時のみならず、最後までユーリに押し付ける自分に自嘲しながら一層激しい攻撃を仕掛ける。
 反射的に受け止めたユーリが大振りの予備動作に入った瞬間……普段ならその隙を突くべきその刹那に、彼は目を閉じ体の力を抜いた。

 この瞬間こそ、ずっと待っていた筈だと。


 ――ああ、ようやく終わる。
 ――「レイヴン!」

 斬撃の衝撃を受ける瞬間、頭の中に先ほどのの声が響いた。
 思わず、はっと目を瞠る。

 左胸に受けた衝撃によろめいた身体を反射的に後ずさった足で支えると、斬られた筈の心臓魔導器が発光し、ドクンと大きく脈打った。
 魔導器が斬撃をはじき返し、大したダメージも受けず機能していることを知って、うめき声が漏れた。

「……今の一撃でも死なないとはな。因果な身体だ」

 ――死ななかった。生きている。

 そのことに、絶望よりも安堵の感情が勝っている自分に気づいて、彼は愕然とした。
 力なくその場に座り込み、疲れ果てた空っぽの心でユーリたちからの『心臓魔導器』についての疑問に淡々と答える。

 やがて部屋の入口の奥から大きな振動音がして、デュークへの罠として仕掛けていた爆薬が作動したのだと分かった。
 唯一の脱出口を封じられて、凛々の明星ごとアレクセイに切り捨てられたのだと悟ったが、特に感慨も沸かなかった。
 ただアレクセイにとって『シュヴァーン』が必要では無くなったというだけだ。

「何一人で終わった気になってんだ」
「俺にとっては、ようやく訪れた終わりだ」

 自分の言に、そうだと、力無く思う。
 生存本能によってか何なのか、生き残って感じた安堵など無意味だ。
 ユーリの手で終わることは出来なかったが、もうこれ以上、偽りの彼を必要とする人間も、死人である彼が生きる理由も無い――

「――はどうする?」
「!」

 項垂れて目を閉じていた彼は、静かに問いかけてきたユーリを再度見上げた。

「アンタはの自称保護者だろ。そのがアレクセイにとっ捕まったまんまで、何勝手に死のうとしてるんだっつってんだよ!」

 いつも笑って、同じように《死人》などど言われた身の上なのに影なんかほとんど感じさせなくて。
 いつの間にか、彼まで一緒に笑わせてくれる娘。
 泣いたり笑ったり忙しくて、彼と違って自分自身にも素直で。

 ――「私、死にたくないっ…!」

 何度も。
 何度も何度も何度も何度も何度も繰り返し。
 明けない夜の中で血を吐くほど思ったのを。
 死にたくない――と。
 そう思ったのを。
 思い出させてくれた、

 ――「私は…この世界であなたに会えて、良かった……」
 ――「違う! 違うよ! アレクさんのことは関係ない……私はあなたがっ……!」

 あの続きを聞かなければと――彼女の本音を確かめなければと。
 自分がそうしたいと思ったことから無理やり目を背けたのは彼自身だった。

 そんな資格など無い、まやかしの心臓で生きる死人だから――そう言い聞かせて諦めて。
 けれど、アレクセイに手を引かれて行ったが、もしもシュヴァーンのようにアレクセイに切り捨てられるとしたら?
 彼女が彼と同じ理由で生を諦めて、黙ってそれを受け入れるとしたら?

「しゃんと生きやがれ!!」

 ――「胸ぇ張って、しゃんと生きやがれってんだ!」

 ユーリの言葉はかつて向けられたドンの大喝と重なって彼の胸に突き刺さった。
 『生きる』――目を逸らさずに。

 その為には少なくとも、前途有望な若者たちまで巻き込んで生き埋めにされている場合では無かった。
 こんな所で彼らを死なせてはならない……当然だ。

「――容赦ないあんちゃんだねぇ」

 もう指の一本さえ動かすことが出来ないと思っていた身体が立ち上がり、未練がましく装備に加えていた変形弓を取る。
 出口を塞いだ瓦礫に向かって矢を番え、彼がかつて敬愛した女性の技を放った。
 力を使い切った体ではキャナリのように光を纏いはしなかったが、瓦礫を吹き飛ばすくらいなら問題ないだろう。

 果たして、真っ直ぐ飛んだ矢は無事に出口を開けて彼らとほっと顔を見合わせたが、その直後天井に亀裂が走り、あっという間に大きな音を立てて崩れた。

 最早それは、意識外の反射だった。

 気が付けば彼は、落盤した天井を一人で支えていた。
 常人ならば不可能だっただろうが、胸の魔導器が最後の力とばかりに唸りを上げていた。
 けれど、それも一瞬のことで、両腕に圧し掛かる重力に体が悲鳴を上げる。

「レイヴン!」
「……長くはもたない。早く脱出しろ」

 尚も《レイヴン》と呼んでくれる《仲間》たちに、アレクセイが帝都に向かったことを伝え、真面目な顔で見つめてくる若者たちに微笑む。

 彼を――レイヴンを置いていくことに戸惑い、渋る少年少女をユーリが連れ出してくれて、無事に脱出していく姿を見届けた。

 一人残された地の底で、彼は天井を支える力が限界に来たことを感じて自嘲の笑みを漏らした。
 彼らを助ける為にずっと捨てたいと思っていた命を使えるなんて、出来すぎた話だ。

「柄にも無かった…かな」

 レイヴンとしてかそれとももっと昔の自分としてか……漏れたのは、そんな台詞だった。

 彼が攫ってアレクセイに引き渡してしまった姫君と、彼が手を離してしまった娘のことが後悔として頭に引っかかっていたが、ユーリたちならきっと彼女らを助け出してくれるだろう。

 彼女の――の笑顔を思い浮かべようとして、出てきたのが最後に見た泣きそうな顔だったことに、彼は顔を顰めた。
 願わくば、が憂い無く笑えるように――最早何も出来ない身で最後まで勝手なことを思いながら……彼は目を閉じた。



 その後、何の悪運か、彼は生き延びた。
 意外な相手――シュヴァーン隊の部下たちによって助け出され、死の淵から再び舞い戻ってようやく、長年鬱屈してきた想いから開放された。

 魔導器によって生き返った10年間は偽りの人生などではなく、仮面だと――本当の自分ではないものと思ってきた《シュヴァーン》も《レイヴン》も、他の誰でもない彼自身なのだと。
 10年かかってようやく気づいた彼は、まるで新たに生まれ変わったような心地だった。

 バクティオンの底で確かに彼は一度死を受け入れたというのに、いざ生き残ってみると、この命をもっと役に立つことに使いたいと欲が沸いてくるから現金なものだ。

 彼は――より自然体でいられる《レイヴン》として生きていくことを選択した彼は、今更ながらが最初から《シュヴァーン》も《レイヴン》も、またそれ以外の何かも、名前など関係なく彼は彼だと言ってくれていたことを思い出した。

「シュヴァーン隊長、これからどちらへ?」
「シュヴァーンじゃなくて、レイヴンだって」

 相変わらず堅苦しい敬礼と共に聞いてくるルブランに、彼は既に何度目かの前置きをしてから苦笑した。

「ちょっと、残った清算をしに、な。それに……謝って礼を言って……怒らにゃならん子を、返してもらう」

 脳裏に蘇る"これが最期"のような言葉――
 謝罪したいことも感謝したいことも山ほどあるが、自分を大切にしない所はまたこってり説教をしなければならない。

 その為には、今度こそ、本人が何と言おうと連れ戻す。

「我々もお供いたしますぞ!」
「のだ!」
「であ~る!」

 忠犬よろしくの相変わらずの三人組を見やって笑い、レイヴンは立ち上がった。

「――ああ、行こう」

 力強く言い、歩き出す。
 一度は彼が逃げたたくさんのものたちと《彼自身》がもう一度向かい合う為に。







130321
バクティオン -シュヴァーンvir.- でした。
やっと鬱鬱おっさん終了!
CLAP