恐怖と絶望を切り裂いたのは、彼の放った矢だった。

 しかし、それ以上に彼の存在そのものが、暗い場所に沈んでいた心を照らしてくれた。

 翻る紫の羽織りから目を離せない。
 いつも丸まっているその背中は、今は周囲を圧倒する覇気を纏ってを守るように獣との間に立ちはだかっている。
 それが、とても大きく感じられた。

「……レイ…ヴン…」

 ただ呆然と、彼の名を呼ぶ。
 その瞬間だけは、始祖の隷長<エンテレケイア>のことも、自分という存在がどちらの世界でも異端だということでさえ、何も考えずにいられた。

26.Vera natura - 正体 -

 砂漠のオアシスでフェローと話していた筈なのに突然魔物に囲まれて……

 そのフェローが嗾けたと思しき魔物は、最初の三匹だけでは無かった。
 レイヴンが駆け付けてくれた時に放った矢はその場の三匹を確実に仕留めたが、すぐに別の魔物が現れて徐々にその数を増して行く。
 その中には鳥型のものも居て、が反射的に息を呑んだ直後、強く腕を取られた。

「走るぞ!」
「っ…うん…!」

 いつもと違う低いレイヴンの声に虚を突かれたが、何とか返事をして手を引かれるままに走った。

(……レイヴンの周りの空気が…固い……)

 そして連れて来られたのは、オアシスの畔。
 どうするのかと思ったら、レイヴンはを連れたまま泉の中にバシャバシャと掻き入った。
 湖と呼べるほど大きくは無いが、深い場所はの腰の上にまで水が来る。

「俺の後ろに」
「え……?」

 一方的に言ったレイヴンは即座に魔術の詠唱に入り、周りに風のエアルが集まり始める。

「巻き起こる春の嵐……アリーヴェデルチ!」

 が慌てて後ろへ下がった途端、発動の声に応えてピンク色の桜吹雪が地面から噴き上がった。
 それは、水辺に群れ始めていた魔物たちを一斉に巻き上げ、蹴散らす。
 レイヴンがこの術を使うのはもう何度も見ているが、いつものふざけた詠唱とは違った実用的なそれに目を瞠る。

「…ここから動くなよ」
「! レイ……」

 声を掛ける暇もなく、それだけ言い残してレイヴンはあっという間に泉から出て魔物たちの包囲の中へ突っ込んでいってしまった。
 持っていた弓が硬質な音を立てて剣に変形し、軽やかな身のこなしで先ほどの魔術を逃れた魔物をなぎ払う。

 左利きの上段から体重を乗せて振り下ろした剣は弧を描いて背面の敵も薙ぎ、空いた空間に素早く体を入れて低い蹴りと斬撃を繰り出す。
 接近戦の為か、ずっと剣型のままの得物で流れるように敵を沈めていくレイヴンの剣技は、素人目にもいつもは手を抜いているのだと知れるほどにすごかった。
 それは例えばユーリのように我流すぎるでも無く、フレンのように綺麗な型に嵌ったものでも無いが、しっかりした基礎の上に自分のスタイルを昇華したような無駄のない動き。

 魅入られたように呆然と見つめていたは、ふと感じたものに首を傾げた。

(あれ……あの動き……どこかで……)

 頭を捻ったがそれ以上は思い出せず、今はそれどころでは無いと首を振る。
 思考を切り替えて、自分にも何か出来ないかと辺りを見回した。

 レイヴンがをここに残して行ったのは、ここが一番安全だと判断したからだろう。
 襲ってきている魔物たちはいずれも砂漠で生息できそうなものばかりで、狼のような犬型が一番多い。
 あのタイプはまずこの水深には入って来れないし、空を飛んでいる魔物に対しては視界が開けているので対処しやすい。
 しかも、最悪の場合この場に潜れば大抵やりすごせそうだ。

 自分が比較的安全なのは分かったが、レイヴンはそうはいかない。
 というお荷物を抱えて、次々と周りを囲んでくる敵と戦っているのだ。
 しかも、が勝手に行動した挙句に陥った危機を助けて、だ。

 何とか援護しなければ……せめて遠距離から魔術を使うなり、こちらにも敵が来た場合は自分の身くらい自分で守らなければならない。

「それに……」

 呟いて、はちらりと後方を見遣った。
 大きい湖の方の対岸には、まだフェローと思しき影があったが、いまだ動く気配は無い。

 レイヴンが助けてくれたお陰で当座は助かったとは言え、フェローの狙いはを試すこと。
 つまり彼が納得してくれなければ、延々新手がやって来るということだ。

「…細やかに大地は騒めく……」

 狙うのはレイヴンの背面の敵――は腹を括って魔術の詠唱に取りかかった。

 実際にやってみて良く分かる。
 いくらオアシスとは言え、この生命の源の枯れた砂漠は、他よりエアルが圧倒的に少ない。
 つまり、術の発動に必要なだけのエアルを術式に沿って練り上げるのが難しいということだ。

 はようやく完成した術を、レイヴンの動きのタイミングを慎重に見計らって一気に放った。

「ストーンブラスト!」

 実戦で初めて使う術だったが、狙い通りに発動して地面から大地の杭が飛び出し、レイヴンの背後に迫っていた敵を貫いた。
 だが、構築式に反してやはり威力がだいぶ弱い。

 それならと、もっと広範囲で効率の良い魔術は無かったかと頭を巡らせた時、はっと気づけば鳥型の魔物の集団がレイヴンたちの頭上を越えて真っ直ぐにこちらに向かってきていた。

「ッッッ……!!」

 フラッシュバックのように魔物と昔のカラスの映像が重なる。
 銃を構えなければという反射と恐怖との間で、体は凍り付いて一歩も動けない。

 鋭い嘴と爪が目前に迫り、思わず目を瞑ったの目の前を突風が吹きぬけた。
 詠唱破棄のウィンドカッターだと気づいた時には、いつの間に目の前まで来たのか、レイヴンに引き戻されていた。

「死にたくないんじゃなかったのか!」
「っ!」
「だったら、どんな時も目は閉じるな!」

 言うが早いか、レイヴンは他の敵に対処するべく、呪文を唱えながらも変形弓を自在に操っていた。
 確固たる強さ……生きる為の力。
 どんなに辛くても目を閉じず……彼は今までどれだけの苦難と戦い、力を得たのだろうか。
 それに引き換え、自分は……

 はぎゅっと唇を噛み締めた。

 レイヴンの言った通り、彼の前で死にたくないと泣き喚いたのは他でもないだ。
 だが今、この異世界を見守ってきた始祖の隷長には試されている――このテルカ・リュミレースに害を為す存在かどうか。

 では、もし有害だと判断されたらどうするのか? 素直に消えてやれるのか?
 元の世界の自分は確かにもう死んだのだろう……もう二度と以前の生活には戻れない。
 家族にも友達にも会えない。

 は顔を上げて真剣に戦うレイヴンを見た。
 この世界にはかつてが愛し、を愛してくれた人たちはいないけれど、こうやって自分の為に戦ってくれる人も、親身になってくれる仲間たちも居る。

(私は…独りじゃ無い……!)

 無理矢理自分に言い聞かせて、ならば……と腹を括る。
 誰がどう言おうが、この世界で生きるしかない……いや、"生きたい"と、そう思える。

 一度折れた心を再び奮い立たせたは、そうさせてくれた人の後姿を見る。
 を守りながらでも、揺らがない背中……
 けれど、ただそれに甘えるだけの情けない自分では在りたくない…!

 そうして覚悟を決めると、強く手を握り、一気に首元の魔導器<ブラスティア>を外した。

 一つ呼吸の後、ドクンと大きな鼓動が体に響く。
 エアルクレーネの時とは違う……むしろエアルの枯渇したこの地に呼応するように体の中のエアルが震えた。
 有る場所から無い場所へ……エアルが流れ出そうとする動きを感じる。

 ――「聖核<アパティア>と同じ状態」
 ――「むしろ我々と近い存在だ」

 エアルの調整役たる始祖の隷長フェローの言葉が蘇る。
 つまり、これは彼らと同じく体が自動的にエアルを出し入れして外のエアルを調整しようとしているのだろうか。
 彼らと違うのは、ただのエアルの器であるには自分の意思でそれをすることが出来ないということ……
 この場合、ここがまだオアシスだったから良かったものの、砂漠のど真ん中だったら一瞬で干からびて……いや、エアルに分解されて消えていそうだ。

 考えている間にも、体から溢れ出たエアルが赤い粒子となってものすごいスピードで溢れ出していく。

 最初にデュークに教えてもらった感覚を思い出しながら、エアルの渦に飲み込まれずに……自分自身まで流されてしまわないように……外のエアルだけでは足りない分だけを自分の中から溢れるエアルで代用し、唯一覚えた上級魔術を構築する。

「大地の脈動、その身を贄にして敵を砕かん……」
「!! やめろっ……!」

 異常なエアルに気づいてか、詠唱を聞き咎めてか、レイヴンがそう叫んでこちらを振り返った。
 彼が伸ばした制止の手が届く前に、練習でも一度も成功しなかった術を発動する。

「一掃して……グランドダッシャー!」

 瞬間、心臓に重苦しい負荷を感じてぐらりと体が崩れた。
 それと同時に無事に術が成功し、周りを囲んでいた魔物の気配が消えたのを感じたが、目で確かめる余裕は無い。

っ……!!」

 声が聞こえて、倒れた自分を抱きとめてくれた腕を感じて、それでようやく顔を上げた。

「レイ……ッッ!!」

 名を呼ぼうとして、彼の肩越しの光景に息を飲む。

<<異界の娘よ、そなたの力、見届けた>>

 先ほどまで対岸に居たはずのフェローが、いつの間にかそこに佇んでいた。
 バサリと巨大な羽を動かすことによる風圧を受けて、レイヴンも驚いて振り返る。
 反射的にその背での視界を遮ろうとしてくれたのを震える手で押さえて、は初めてまともにフェローの目を見た。
 どこまでも深く吸い込まれてしまいそうな威厳溢れる瞳……

<<そなたの在りようは確かに我らに近いもの……だが、これだけは言っておこう。我々は、この世界の理に属さぬ者を容認しない>>

 は目を瞠り、そして真っ向からフェローを睨み付けた。

「それでも私は、ここで生きてる……ここで、生きたい……!」

 視線が合わさったのは数秒に満たなかったかもしれない。
 フェローは再びあの高い音と共に上昇した。

<<我らの真似事をするに関与はせぬ――が、世界を害する可能性があるのなら、即座に処断する>>

 言われた内容はそのまま頷けるものではなかったけれど、は自分の意思を示すように視線は外さなかった。
 そのまま巨躯はあっという間に飛び去って見えなくなり、魔物の気配も絶えて、その場には消耗したとレイヴンだけが残される。

 深いため息をついて弓をしまったレイヴンに、はびくりと反応した。
 どう声を掛けようかと戸惑ったが、体に全く力が入らずに情けなさに眉尻を下げる。

 体からはまだ視認出来る微量のエアルがふわふわと流れ出ている状態で、自分で立つことすら出来ず、とても無事とは言い難い。

 もう一度ため息が聞こえた時には、カチリとが外していた魔導器を付け直され、ふわりと体が浮いた。
 普段ならお姫様だっこなど恥ずかしすぎて冗談じゃないと抵抗するところだが、魔導器が戻ってきたことによる反動で口も開けない。
 ようやく落ち着いてまともに顔を上げられたのは、泉から出て、オアシスの僅かな緑の上に下ろされた後だった。

 上がっていた息を整えて、恐る恐る目の前のレイヴンを見上げる。
 いつもとは違う難しい顔でこちらを見下ろしている翡翠の瞳に泣きそうになったが、完全にの自業自得だ。
 それに、ここまで巻きこんでおいて、説明しないわけにもいかない。

「あの……ね、別に無理するつもりは無かったんだけどね……ホーリーボトルもいっぱい持ってたし!」

 無理やり笑顔を作って言ったが、レイヴンは眉間に皺を寄せたまま何も返さない。

 は焦燥感にかられて、ここまでの経緯を口早に説明した。
 ベリウスの意味ありげな視線、デュークに言われた言葉、フェローに呼ばれたこと……
 一気に全部話し終えても何も返さないレイヴンに、はどうして良いかわからず、ぽつりと零した。

「ごめんなさい……」

 すると一拍置いて、ようやく低い声が返った。

「……どうして……」
「え……?」
「なんで、黙っていた?」

 感情を押し殺したような固い声音だったが、とにかく口をきいてくれたことが嬉しくて、はつい本音を吐露してしまっていた。

「だって、レイヴンに心配かけたくなかったから……嫌われたくなかったから……だからっ……ッ!」

 言葉の最後を攫うように、はレイヴンに抱き締められていた。

「なんであんな無茶を……話の通じる奴等じゃないのは分かっていた筈だ…! それを一人で! 自殺行為だ……!!」

 切羽詰まったような…苦しそうな掠れた声――
 腕の強さにか、もっと別のものにか、の胸は痛いほど締め付けられた。

「頼ってくれと言った筈だ。それを一人で、君は……俺は……!」

 は唐突に頭に蘇った光景に目を瞠った。

 地獄と化した森の残骸……舞うように戦う男……結界魔導器<シルト・ブラスティア>の光輪を背に、見知らぬ土地を告げた翡翠の瞳……
 その声の温度も、こちらを案じてくれる色もまるで違う。
 けれど、その話し方や気配に……声に、は覚えがあった。
 この世界に来て初めて聞いた声――

 目を見開いたまま、目の前にあった髪紐をするりと抜き解く。
 相手がはっとした隙に体を離すと、間近から緑翡翠の瞳とぶつかった。
 かつては恐怖を覚えた深く淀んだ緑――

「シュヴァーン…さん…?」

 呼びかけた瞬間バシリと手を払われて、は軽く尻もちをついた。
 我に返ったレイヴンは反射的に手を伸ばしてくれたが、それは途中で止められてしまう。

 戸惑っているような何かに耐えているような……いつも飄々とした態度を崩さないレイヴンのそんな余裕の無い表情は初めてで……

 も呆然と、その中途半端に止められたまま差し出されない手を見つめていた。







121021
大変な一晩がようやく終わりました!
このドリを書く時に一番最初に浮かんだシーンでした。ここまで長かった…! もっとサクサク進めていきたいです!
CLAP