「――うわぁ、キラキラ王子…」

 隣でぼそりと呟かれた言葉に、レイヴンはガックリと脱力した。

 場所はギルドユニオン本部の首領の私室。
 ドンとユニオンの幹部連中の前で向かい合っている青年は、帝国騎士団の小隊長フレン・シーフォである。
 紛れもなく帝国の正式な使者として訪れたこの青年のことを、レイヴンはもう一つの立場で良く知っていた。
 しかも、騎士団長アレクセイの命で独自に動いているらしいこの青年がここに居るということは、レイヴンにとって間違いなく厄介事に違いない。

 ユーリたちに追いついてこの部屋に入ってきたときから面倒なことになりそうだと内心渋面だったレイヴンの心中など知らず、後ろにくっついてドンの背後に落ち着いたがこの状況で最初に漏らした呟きが、先のキラキラ王子発言だった。
 フレンを見ての表現として確かにおかしくはないが、この状況でそんな言葉が出る辺りかなり大物である。
 『レイヴン』である今の自分を脱力させるのだからよっぽどだと、他人事のようにため息をついた。

「ユニオンと紅の絆傭兵団<ブラッド・アライアンス>の盟約破棄のお願いに参りました」

 ユーリと友人だと語っていたフレンが背筋を正してそう言い、レイヴンもやはりと思いながら気を引き締めた。
 やがてフレンが次期皇帝候補ヨーデルからの密書を差し出し、雲行きが怪しくなる。

「『ドン・ホワイトホースの首を差し出せば、バルボスの件に関しユニオンの責任は不問とす』」

 ドンに代読させられたレイヴンは、自分の口から紡がれる言葉に舌打ちしたい気分だった。
 どうやらアレクセイは、今までレイヴンを送り込んで様子見していたギルドに対してとうとう行動に出るようだ。
 恐らく表面上は当のバルボスやラゴウ辺りの企てだろうが、その背後に居る黒幕など考えずとも分かる。

「帝国との全面戦争だ! 総力を挙げて、帝都に攻めのぼる! 客人は見せしめに、奴らの前で八つ裂きだ! 二度となめた口きかせるな!!」

 ドンの檄で部屋を怒号が包み、レイヴンも天を射る矢の一員としてユーリたちに目をやることなく部屋を出た。
 は対照的に彼らを気にしていたようだが、結局は黙ってレイヴンの後ろに付いてきた。

 しかし、この後はどう転んでも荒っぽいことにしかならない。
 レイヴンは僅かに考え、立ち止まる。

「? レイヴン…?」
「――ちゃん。お願いがあるんだけど」

 誰もいなくなった廊下でそう切り出せば、はパチパチと目を瞬いてすぐに笑みを浮かべた。
 それは作られたものだと分かったけれど、ここで笑顔を返されるとはレイヴンも予想外だった。

12.straniero - 異邦人 -

「なんだ、ここは」
「ドンが偉い客迎えて、お酒飲みながら秘密のお話するところよ」

 天を射る重星の特別室へ通した際のユーリとの会話に、つい先日とも同じような会話をしたなと思い出す。
 尤も今回、紅の絆傭兵団が根城にしている酒場を突き止めたらしいユーリたちを連れてここに来たのは、先日のように本当に飲み食いしようというわけではない。
 この部屋から繋がっている地下道を抜けて例の酒場に潜入するためである。

「当然、おっさんもつき合ってくれんだろ?」
「あっらー? おっさん、このままバックれる気満々だったのに。ちゃんも待ってるしさー」
「そのはどうしたんだよ?」
「ん? ユニオンに居るわよ? この町で今一番安全なのはあそこだろうから心配は無いんだけどね。ちゃんとイイ子でお留守番してくれるって約束したし」
「んじゃー心配いらねーな。おっさんにもいいかっこさせてやるから、ほら行くぜ」

 元々同行するつもりではあったが、無理矢理という形で渋々を装って暗い地下に降りる。
 仕掛けの光源が無ければ一歩も進めず、しかも魔物まで襲いかかってくるこんな場所に連れてこなくて良かったと、今頃ユニオンで暇を持てあましているだろう彼女のことを思い浮かべた。

 ――「うん、ちゃんとイイ子でお留守番してるから気を付けてね。…あ、あと何か出来ることとかあったらどんどん言って」

 お願いがある、という言葉だけで先回りされたその歯切れの良い答えに、レイヴンは思わず苦笑した。
 あの帝都の大将様が偽名と仮初めの用件まででっち上げて送り込んでくるなどどういう風の吹き回しかと思ったが、案外彼女のこういう所に絆されたのかもしれない。




 彼女――は基本的にどこにでも居る普通の一般女性だ。
 見かけ通りのほほんと楽観的で、物事をあまり深くは考えず、自分の感情には正直。
 しかし一方でしっかりもしており、周りの空気や感情にも敏感で細やかな気配りが出来るようだ。

 ダングレストで会ってから数日であることを考えれば、のそんな人となりを判断するのはまだ早いとも言える。
 だが、本当の彼女との初対面は、もう少し前に遡らなければならない。


 一月ほど前、レイヴンはもう一つの顔――シュヴァーン・オルトレインとして帝都に帰還していた。
 定期報告の為であったが、いつものようにまたすぐにダングレストに取って返す予定だった。
 それを留めたのは、他ならない騎士団長アレクセイである。

「明晩この森へ赴き、生存している人間は手厚く保護、後に森は人外のものと一緒に焼き払え」

 詳しくはこれにと言って命令書を渡され、言葉少なのやり取りは終わる。
 何の説明もないのは今に始まった事ではなく、そういう時はシュヴァーンやレイヴンとして知っておかなければならない事なら、自力で考えるしかない。
 とは言っても、命令自体に疑問を抱いたり、尻込みすることは無かった。
 シュヴァーンはアレクセイの駒、使い勝手の良い道具でなければならない。

 この時も特に何も考えず、また情報もないまま、シュヴァーンは親衛隊を率い定められた時間に森へ向かった。

 しかし、そこで見た光景は道具であるシュヴァーンを持ってしても息を呑む惨状だった。
 アレクセイがなぜあんな言い方をしたのか現場を目の当たりにして初めて悟った。

「――生存者を、探せ」

 同じように立ち尽くす親衛隊に短く命令を出して、思わず口元を押さえた。
 後に焼き払えと言われたが、それも難しいほどに、先日まで森であった場所は恐らく一瞬にして枯渇していた。
 生命の息吹が枯れ尽くしたその場所に、潰れたような人間の成れの果てが累々と散らばっていた。
 しかも、その遺体であったものの山から蠢くように起き上がってきたものは、恐らく元は人間であったであろう……魔物だ。

 保護しろと言われたのは、生存している『人間』――しかしそんなものなど居ないと思わせるに十分な地獄だった。

 そしてアレクセイの口ぶりでは、恐らくこの状況を作り出した張本人であるに違いない。
 何も感じない筈の心臓が嫌な音を立てて軋んだ時、不意にそれはシュヴァーンの耳に届いた。

「……女の子の悲鳴……?」

 反射的に駆け付ければ、一人の娘が例の元人間の魔物に襲われていた。
 まさか生存者がと驚きながらも、こんな森に迷い込む人間も居ない。
 守って魔物を退けながら、シュヴァーンは彼女に視線をやった。

 きっちりとスーツを着ている辺り町娘には見えないが、服装を除けばどこにでも居る非力なお嬢さんだ。
 しかしその表情は恐怖と絶望に歪み、シュヴァーンが周りを掃討する頃には儚く気を失っていた。

 生存者というからにはもっと屈強な男を想像していた身としてはかなり拍子抜けだが、とにかく彼女が命令された保護対象であるのは間違いない。
 他に生きている『人間』が居ないことを確認したシュヴァーンは、親衛隊に命じてその場の魔物の処理と遺体や残骸と言った地獄絵図そのものの一帯を魔術を使って消し炭にした。

 後は哀れなこの生き残った娘をアレクセイの元に送り届けて任務完了――それで終わる筈であったのに、護送中の馬車からあろうことか彼女は逃げ出した。
 飛び降りた際に怪我もしたらしい、ましてや女の足だ。
 あまり大勢で追い詰めては逆効果だと判断し、シュヴァーン自身が後を追いかけて難なくすぐに捕まえた。

「離して! もう嫌っ!!」

 腕を捕まえると振り返った彼女の瞳にはただ拒絶だけが揺れていた。
 あの地獄の中でただ一人目を覚ましたのだ。現実を拒んでも仕方がない。
 がむしゃらに逃れようとする様子に心は痛んだが、こちらも手を離すわけにはいかない。

「っ……暴れるな。落ち着いて……」
「嫌っ! 何なの……何なのよ、一体! ここは何処なの……あなたは、何なの…!?」

 まるで周りが全て見たことも無いというような口ぶり。
 それはシュヴァーンとしてもずっと考えていたことだった。
 あの状況……そしてあの場には見慣れないものが数多く散乱していた。
 帝都近くの森にあれほどの人間が移動しているなど、騎士団でもギルドでも全く耳にしていない。
 ならば、彼らは……彼女はどこからやって来たのか?

 気を抜いた途端腕を振り払われて、向き合う形になった彼女の疑問に答える為にシュヴァーンは口を開いた。

「ここは、ザーフィアス」
「ザーフィアス……」
 
 告げた地名を数瞬後にそのまま繰り返した彼女の漆黒の瞳にゆるゆると絶望が這い上がる。
 シュヴァーンはそれに既視感を覚えた。
 いや、実際に見たものに対しての感想ではない。

 それは十年前に死に損なったと悟ったときの……自分自身だ。

 彼女の唇から漏れた感情のない声……シュヴァーンは気付けば、教える必要もない自分の名を口にしていた。

「私は、シュヴァーン。騎士団のシュヴァーン・オルトレインと言う」
「シュヴァーン……」

 彼女は再び鸚鵡返しにシュヴァーンの名を呟いた。
 その空虚な響きに満足したのか落ち着かなくなったのか自分でも分からない感情に眉を顰めながら、シュヴァーンはこれ以上怯えさせないようにそっと彼女の手を取る。

「我々騎士団は君に危害を加えるつもりはない。怪我の手当が出来る所に送っていくので、どうか安心してほしい」

 もう逃げ出さないように淡々と説明しても、それ以上彼女の瞳が動くことはなかった。
 強い意思を示した濡れた漆黒の瞳は、全ての光を失って。
 そこにあるのは、拒絶と絶望が嵐のように去った後の……虚無。

 それに何の感情も抱かないよう心を殺して、そうして当初の予定通り、シュヴァーンはアレクセイの屋敷に彼女を送り届け、その任務を終えた。
 
 後からアレクセイから聞いたり独自に探ってみたりしたところ、やはりあれは人工的に満月の子を作りだそうという実験だったらしく、何と異世界から巨大な乗り物ごと召喚したという。
 しかし、その際にエアルがどうにか作用したらしく、ほとんどの人間はエアルを取り込みすぎて異形の魔物と化してしまった。
 ただ一人、生き残った彼女を除いて。

 どういう理由で彼女だけだったのかは謎だが、実験は一応の成功を収めたらしい。
 周囲のエアルを全て吸い尽くすという形で彼女――は、人の姿を留めたのだから。

 やっと手に入れた実験の成功体――アレクセイはを手放さないだろう。
 だとすれば、シュヴァーンにせよレイヴンにせよ、次に会うとすればアレクセイが事を起こす時くらいだ。
 それは、もう会うことが無いのと同義だった。
 その時には、の自我など消えているだろうから。

 その後はまたレイヴンとしてダングレストに戻り、ドンから聖核(アパティア)の捜索とバルボスの監視を命じられてノール港に立ち寄ったところ、ヨーデル誘拐の報を入手して執政官邸に潜り込んだ。
 その際にエステリーゼ姫と牢で助けたユーリ・ローウェルと鉢合わせたのは偶然だったが、無事にヨーデルの保護とラゴウ・バルボスの企み阻止を見届け、アレクセイの指示に従ってユーリたちをカルボクラムへ誘導した。
 そのままシュヴァーンとしてヘリオードの騎士団へ顔を出し、久々に自分の隊を率いてカルボクラムでユーリたちの身柄を確保する。
 全員をヘリオードへ連れ帰った後は、街の結界魔導器の暴走を経て、エステリーゼがこの先もユーリたちに同行することをアレクセイは認めたらしい。

「君にやってもらう仕事ができた」

 予想出来た言葉だったので、シュヴァーンは無言でそれを受諾した。
 しかしそんなシュヴァーンに、珍しくアレクセイは笑った。

「分かったなら一刻も早くダングレストへ行くがいい」
「……姫様以外にダングレストに何かあるんですか?」
「行けば分かる。なに、日頃励んでくれているお前に、心ばかりの贈り物を…な」

 くつくつと喉を鳴らすアレクセイの楽しげな顔はここ最近では全く見なくなった物だったので、珍しいこともあるものだとは思っていたのだが。

「…………レイヴン?」

 ヘリオードから疲れて直行したダングレストの行き付けの酒場。
 柄の悪い男が可憐なお嬢さんに絡んでいるのを颯爽と助けようとしたら、彼女はよほど腹に据えかねていたのか物騒な声で詠唱し、何と店の中で魔術を放った。
 それと同時に目が合って呼ばれた自分のもう一つの名前に、レイヴンは目を見開く。

 術を放った姿勢のまま驚いてこちらを見上げてくる瞳は、かつてと同じ……いや今は再び意思を宿した漆黒の瞳。

――)

 脳裏に浮かんだ名前とアレクセイの贈り物という言葉が甦り、レイヴンはとっさに慣れた道化で誤魔化した。
 もう二度と向き合うことが無いと思った漆黒を前にして、驚くほど動揺した自分を持てあまして。





「悪党が揃って特等席を独占か? いいご身分だな」

 地下牢を抜け、酒場の二階に駆け上がると、そこには紅の絆傭兵団を従えたバルボスと帝国評議会のラゴウが居た。
 予想通りすぎる展開に、レイヴンは軽くため息をつく。

 天を射る矢と現騎士団の共倒れを狙ってのことだと声高に言ってのけるバルボスが余りにも浅はかで、レイヴンは深いため息をついた。
 あのアレクセイ相手でさえあれだけ歯に衣着せぬ物言いをするがここに居れば、きっと思うがままの毒舌でバッサリ斬ってくれるに違いない。
 それが容易に想像出来てしまい、レイヴンは苦笑した。

 そうしている間にも眼下のダングレストではフレンが到着し、ギルドと騎士団の間に本物の書状を掲げて止めに入る。
 ドンが居る限り、あちらはこれで一安心だろう。
 穴だらけの計画が破綻して逆上したバルボスを、突如現れた竜が吹き飛ばし、不利を悟ったバルボスはそのまま腕の魔導器を使って一人だけさっささと逃亡する。
 逃がすまいとしたユーリが竜の乗り手に頼んで一緒に飛び立ってしまい、カロルは地団駄を踏んだ。

「ユーリのバカぁっ!」
「と…とにかく、私たちもユーリを追いかけましょう!」

 逃げ足だけは速いラゴウや紅の絆傭兵団のメンバーがトンズラしたその場で、我に返ったエステルがそう叫んだ。
 エステルを追うように駆け出すカロル・リタ・ラピードの後を追いながら、レイヴンもやれやれと後に続く。

 店の外に出て、バルボスの行き先も知らないだろう若者たちを呼び止めようとしたレイヴンは、逆に呼ばれて目を瞠った。

「レイヴーン!」
ちゃん!?」

 ユニオン本部に置いてきたが走り寄って大丈夫だった?と聞いてくる。

「大丈夫って、ちゃんこそ一人で何してんの! イイ子でお留守番してるって言ったのに駄目じゃない、街の中はまだそこら辺に気が立った奴らが……」
「ほー、意外と過保護だったんだなぁ、お前ぇは」
「「ドン!」」

 レイヴンとカロルの声が重なる。
 なぜがここにと思ったら、ドンが自ら連れてきたらしい。

「さっきバルボスの奴が一人で飛んでくのが見えたぜ。アイツがしけ込むなら例の塔だろう」
「あー、そうだろうね。方角的にも合ってる」
「チッ、バルボスなんぞになめられたままじゃいけねぇ! 奴にはきっちりと片ぁ付けさせる。レイヴン! 俺は今はここを動けねぇ。お前ぇに任せたぜ!」
「えー?」

 元よりエステルが行くならレイヴンも行かなければならないし、場所が例の塔――ガスファロストと言うのならシュヴァーンとしても放っておけない。
 ポーズだけは不満そうに返したレイヴンに、それを分かっているドンは更にもう一つ付け加えた。

「それから、今度はも連れてってやれや」
ちゃんも……って、ちょっとドン!」
「事が帝国との協定だ何だとややこしくなって来ちゃユニオンも人が出払っちまう。そんなとこに嬢ちゃん一人置いとく訳にもいかねーだろーが」

 ガスファロストは要塞のような敵の根城だ――そんな危険な場所に行くのにと納得が出来なかったが、正論を持ち出されては反論出来ない。

「えっと……ゴメンね、レイヴン。邪魔になんないように頑張って逃げ回るから!」

「はは……頑張って戦う、じゃないとこがだよね」
「やる前から卑屈になってんじゃないわよ」
「過信しすぎないのは良いことだと思います」

 それぞれにコメントを返す面々に笑顔で答えるを見て、レイヴンはため息をついた。




 レイヴンとして会ってからのは、いつも笑顔だった。
 最初は、これが本当に一月前のあの儚い娘と同一人物かと思ったほどだ。
 しかも会って数日でもそうと分かるほどに中々おもしろい性格をしていて、さり気なくこちらを気遣う姿勢も誰とでもさばさばと楽しく会話出来る天真爛漫さも、一緒にいて楽だと思えた。
 酒場で騎士団からの正式書簡を出されて声を荒げた時も、怖いと思っただろうに素直に謝って来たし、簡潔すぎるアレクセイからの命令書に頭を痛めている時も、自分のことを『お荷物』だと自覚した上できちんと自分の言葉でレイヴンに護衛を頼んだ。
 アレクセイに対する態度も、ドンの前での態度も、ついでに酒場での嗜好も、見かけのか弱さを悉く裏切って、それでも傍に居るのに全く不快は抱かせない不思議な娘だった。

 そのが、一人きりでひっそりと呟いた「帰りたい」という切実な言葉に。
 驚くくらいに動揺する自分が居た。
 その事実に目を瞠って、思わず隠していた気配を気付かれてしまったのもまた誤算だった。

 止めておけと忠告する自分自身に反して、「帰りたいのか?」などと間抜けな質問をして、苦しそうに瞳を揺らしたに後悔した。
 突然こんな異世界に飛ばされて、あんな地獄の中を一人だけ生き残って、更にアレクセイに体のことも聞いているだろうが、元の生活を恋しがることなど当たり前のことなのに。

 そんな彼女をかき乱すだけ揺さぶって逃げだそうとしたレイヴンを、自身が引き留めた。

「レイヴンになら……ううん。レイヴンに、聞いて欲しいの」

 まっすぐな目でそう言って、苦しそうにあの光のない瞳が時折過ぎりながらも、は自分の身に起こったことを全て語った。
 そうして自分のことを死人だと言うと……自分自身が重なった。

 無理して笑わなくていいと言った言葉も、本当は自分に向けた言葉なのかもしれない。
 励ましているような言葉も、気遣っているような言葉も、本当は全部、全部。

 それなのには、どこまでもまっすぐに自分の本音を吐露した。

「レイヴンあのね、私ホントは……ホントは…………死にたくないんだ」

 一瞬、呼吸を奪われたような錯覚がレイヴンを襲った。

 この十年、仮初めの心臓は動き続けて、いつ訪れてもおかしくない『死』と隣り合わせで、気のおかしくなるような時間をずっと一人で生きてきた。
 いつ死んでもいいようにと……いっそのこと殺してくれと………だって自分はもう死んでいるのだからと。
 言い訳のように自分に言い続けて、けれどそれが偽りだと、これほど明確に突きつけられたことはない。

 死にたくないと繰り返して泣くに、一気に様々な感情が膨れあがった。

 素直になれる彼女が羨ましくも眩しくもあり、自分がひた隠しにしてきたものを突きつけられて憎らしくもあった。
 これほどの感情を自分だけにぶつけてくる事への優越感だとか、庇護欲だとか、簡単に身を預けられた事への嗜虐心だとか。

 正の感情も負の感情も、清も濁も合わさって、どうして良いか分からなくなる。

 それが一片の偽りない彼女の本音だったから――レイヴンは痛みを感じる心臓を誤魔化すことが出来なかった。

 空っぽになった自分の手が自然と震えて泣き崩れるに触れ、宥めるようにその頭を撫で髪を梳き始める。
 降り続ける雨の中、レイヴンも目を閉じて視界を閉め出した。
 これ以上自分の世界をかき回されるのを恐れるように。




「……レイヴン、やっぱり駄目?」

 しばらくぼんやりしていたのか、呼ばれて我に返ればが不安そうにこちらを見上げていた。
 ガスファロストとエアル・クレーネは無関係だ。しかもあそこには、彼女が科学者だと信じる男の研究施設もある。
 ここで突き放した方が楽だと頭では分かっているのに、なぜかそれが出来なかった。

 彼女と共に居ない方が余計なことを思い出さなくて済むと分かっているが、それが出来ないのと同じように。

「……ホントに危なくなったら全力で逃げること。それが絶対条件よ! いい!?」
「うん! 了解!」

 嬉しそうに元気に笑うその顔にはあの涙の影など欠片もなくて、レイヴンはそれを再確認してもう何度目か分からない安堵を覚える。
 こんなにほっとするのは、きっとが異邦人で何も知らないからだ――

 そう自分自身で結論付けて、レイヴンは曇りのない笑顔を浮かべる彼女の頭を軽く撫でた。






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おっさんは何を考えているか分かりにくくてやや難産でした。
次回はジュディスちゃん登場です。
CLAP