「が昨晩城を出た」
朝一番の起きぬけに言われた慶次は、一瞬思考が追い付かなかった。
目の前に天井から逆さにぶら下がった風魔が居るということも、いまいち現実味を欠いていたのかもしれない。
小田原に着いた翌日、慶次はしばらく逗留する旨を政宗に伝えた。
同盟傘下の前田の人間という配慮からか、部屋として借り受けたのは本丸の客間で、洗練された静謐さがあった。
だがその初日の朝、不穏な気配に目を覚ましてみれば、天井から顔を出した見覚えのある忍――それも伝説とまで謳われる、恐らく当世最強の――が居て、が無理やり軍馬を連れ出して門番の上を飛び越えて出奔したと言うのだ。
「何かの間違いじゃねぇのかい?」
最初に浮かんだのはそれだった。
慶次は昨夜までと一緒だったが、そんなそぶりは露ほども無かった。
一体何をどうしたら、そうなるのだ。
怪訝顔の慶次に、そもそも伊達やとの関係さえ不明な風魔は短く……けれどとんでもないことを告げた。
「殿がに無体を強いたらしい」
聞いた瞬間、慶次はそのままの寝起きの恰好で部屋を飛び出していた。
「っ独眼竜!! テメェ!!」
既に気配を察していたのだろう、障子を蹴り破って勢いのままに殴りかかった慶次の拳は朝食中だったらしい相手の腕で受け止められ、間近から凶悪な隻眼が返ってくる。
「何しやがる、前田」
ギロリと凄む眼光はこちらを射殺さんばかりで、並大抵の人間ならその場で失神するかもしれない。
けれど慶次にとっては余計に苛立つものでしか無かった。
しかも淡々としている様子からは、慶次の行動の理由も全て分かっているようにも見える。
「何じゃねぇ!! お前こそに何したんだ!!」
怒りが大きすぎて室内で暴れ狂う属性の風の中でも、相手の――政宗の表情は動かなかった。
それどころか深々とため息をつき、疲れたように口を開く。
「knightのお出ましにはちぃと遅ぇんじゃねーのか?」
「何だって?」
「そんなに大事な女なら首に縄でも付けとけって言ってんだよ」
そのこちらを睨んでくる眼光に一瞬息を呑んで、慶次は表情を歪めた。
何となく、分かってしまったのだ。
慶次を敵視するこの男が、なぜに乱暴なことをしたのか……その理由の一端が。
「――ああ、大事な女(ヒト)だよ。出来るなら、俺の隣でずっと笑ってて欲しいって思う」
「……他人の惚気なんざに興味は、」
「けど! あの子にはもう恋しい相手が他に居るんだ!!」
一度は不快気に歪んだ政宗の眼は、慶次の視線の先に気づいてゆるゆると見開かれた。
「は言ってたよ。ただ傍に居るだけじゃなく、守りたいって――力になりたいんだってなぁ!」
苛立ちとも怒りとも羨望とも言えない感情が慶次の胸を渦巻いた。
世の中には、取り返しのつかないことだってある。
だが、お互い手の届く所に居るのに踏み出せない人間だって、慶次は山ほど見てきた。
その中でもは、取り返しのつかないことを取り戻そうと必死で……その為にいろんなものを犠牲にしてまで手を伸ばしていたのだ。
それなのに。
「あの子が何の為にここに居ると思ってる!? 毎日どんな気持ちで、今のアンタを見てると思ってんだ!!」
慶次が言うことでは無いのだろう。
けれど、これ以上見ていられなかった。
恋敵に発破をかけるつもりも無い。
全部、の為だ。
が――……
「……泣いてるよ」
ピクリと、初めて政宗の視線が揺れた。
「きっと、は泣いてる。なのにアンタは……!」
本当なら、今すぐ飛んで行って慰めてやりたい。
話を聞いて、溜め込んでいるものを吐き出させて、一緒に怒って泣いてやりたい。
しかし、それでは根本的な解決にはならない――
本当の意味での涙を止められるのは、たった一人なのに。
「アンタはここで何してる!? 好きな子傷つけて泣かせて、それで何悠々と飯食ってんだよ!!」
一通り怒鳴り付けた慶次は、ひとつ大きく深呼吸をして、無抵抗の政宗を殴り飛ばした。
今度は相手も避けなかった。
反射的に受け身は取ったようだが、そのまま壁に激突する。
「……shit」
「はもっと痛い思いしてるさ。――ここまで言って分からなきゃ、もう俺も遠慮しない」
政宗にも、そして――にも。
言い捨てて、部屋を後にする。
入口ですれ違った小十郎は、大事な主を殴られたというのに何も言わなかった。
足音荒く戻った自室で、寝起きのままの布団に胡坐をかいて空を睨む。
結局、あの二人は似た者同士なのだろう。
だから、すれ違えばとことんすれ違うし、ぶつかる時も半端は無い。
けれど――……
「頑固なのも、大概にしとけってんだ」
誰にともないセリフを吐き捨てて、胸元に入れたかぐやの貝を握りしめた。
青い空を、綿飴のような雲が過ぎていく。
城の天守で、一人。
何もせずにぼんやりとして。
「目、痛いし……疲れた……」
泣きすぎればひりひりと目が痛くなるということを初めて知った。
体力も、まるで戦の後のように疲弊している。
呟いた声も掠れていて、思わず自嘲の笑みが漏れた。
昨夜は随分長い距離を走った。
当ても無く小田原城を飛び出したは、とにかくがむしゃらに馬を飛ばした。
夜風の中を全力で駆ければ、涙も吹き飛んでしまうだろうと思ったのだ。
ともすれば、間近で見た冷たい隻眼を思い出しそうになって。
とにかく、何も考えたくなかった。
どれだけ走った頃だろうか、突然真横に知った気配が並んだかと思えば、疾風が馬と平行に駆けていた。
「お願い、一人にして!」
無言の視線に、風圧の中でそう叫ぶ。
すると彼は、何も言わずにの前に出て、誘導するように走り出した。
どこから調達したのか、微かな明かりが闇一色だった行き先に灯る。
馬を考慮して少しスピードを落として導く疾風に、頑なに拒もうと思っていたも素直に従った。
たった一つの光を追いかけるかのように。
そうして夜明けに辿り着いたのは、まだ真新しいと思われる白い天守閣が聳える城――
夜通し駆け続けた強行軍の終点は、小田原の北、米沢の南東にある白石城だった。
それが小十郎が治める城だと知ったのは、城門から喜多が走り出てきた時である。
所用で米沢に戻っていた彼女が白石に滞在していたのは偶然だったが、どうしたのと仰天する姉代わりのような喜多の胸で、はとうとう堪え切れずに大泣きしてしまった。
もう自分でも訳が分からない程に止まらなくなって泣き続けるを、喜多は戸惑いながらもいつもの凛とした優しさで包み込んでずっと背をさすってくれた。
一体どれくらい泣いたのか、自分でも正確には分からなかったが、少し落ち着いた時には太陽は既に高く昇っていて。
白湯と粥を用意してくれた喜多に謝りながらも掻い摘んで事情を説明すれば、一頻り驚いた後、彼女はすぐに眉を吊り上げた。
「どんな事情があったにせよ、嫌がる女子を力ずくで辱めようとは…! この喜多、政宗様の乳母として斯様に恥ずかしいことはありませぬ!!」
ほとんど泣き崩れそうな勢いで憤慨し、そしての手を強く握った。
「! しばらくはお勤めに戻らず、ここでゆっくりしてお行きなさい」
「で…ですが……」
「わたくしがそのように取り計らいます。例え政宗様と言えど、文句は言わせません。無理やり戻そうとするなら、この白石城内の女子総出ででも籠城して、追い返しましょう」
それが本気だと分かったから、は何も言えなかった。
そうして、取り敢えず休めと言われて部屋も与えられたが、体は疲れている筈なのに睡魔はちっともやって来ず、こうして誰もいない天守閣でぼんやりと空を見上げているのである。
「城内の女の人総出で、か……」
ふと取りとめもない回想から呟けば、そんな抵抗に遭ってうろたえる政宗を想像してつい笑ってしまった。
そして笑っている自分に気づき、思わず固まる。
「――」
「っ! はっ…はい!」
突然呼びかけられて振り向けば、心配そうな顔をした喜多が下の階段から顔を覗かせていた。
全く気付かなかったが、どうやら探してくれたらしい気配を察して慌てて謝る。
「すみません、勝手にうろついたりして」
「それは良いのですが……少しでも眠らねば体が……」
「大丈夫です。……それに、部屋で横になっているよりは、ここで風に当たっていた方が気も紛れるので」
「……ならば、良いのですが。それからもう一つ……間もなく、小十郎がこちらに来ると連絡がありました」
「小十郎さんが……」
の居場所は、きっと疾風が伝えたのだろう。
昨日のお礼を言おうと思った時には既に姿を眩ました後で、小田原に戻って誤解を生むような説明をしていないか心配だったのだが……
「分かりました。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「――会いたく無いなら、小十郎も追い返しましょうか?」
きょとんとして、は目を瞬いた。
追い返すも何も、ここは小十郎の城だ。
彼としても政宗に逆らった人間に自分の城に逃げ込まれては迷惑だろう……の勝手な行動だが、周りからすれば匿っていると取られてもおかしくない。
勿論、本当に匿ってもらう気も、喜多たち女性陣に守ってもらうつもりも無い。
そもそも、そこまでの事態になどなる筈もないが。
アレは、政宗にとってただの気まぐれなのだから。
「とんでもありません。本当なら私の方からお詫びしにいかなきゃならない所です」
鈍く痛む胸に顔を顰めないようにしながら、は何とか笑みを浮かべた。
「しかし……」
「…喜多さんを姉上のように思ってるのと同じく、小十郎さんも私にとっては兄上みたいな方ですから」
笑みを深くしてそう言い切れば、喜多は軽く息をついて無理はしないようにと言い置いて戻って行った。
再び一人になったは、ゆるゆると息を吐いてその場に横たわる。
四肢を投げ出し、仰向けになって右手の甲を閉ざした瞼の上にあてた。
「……私って、馬鹿だなぁ」
もう自分からも、政宗からも逃げたくないと思った。
武田の娘としては間違った想いなのだろう。
けれど自分でもどうにもならない想いだから、腹を括って向き合うしか無いと決めて、小田原に来た。
きっと父・信玄にも、家族同然の幸村や佐助にも心配をかけている。
そうと分かっていながら我儘を押し通して、ここにいる。
「それなのに……こんなだし」
記憶を失くした政宗の心を守る為だとか、伊達軍を混乱させない為だとか、そんな尤もらしいことを理由にして、肝心の政宗にも正体を隠したままで。
いつまで経っても足踏み状態で、それどころか中途半端に政宗の興味を煽ってしまった為に、余計に拗れてしまった。
「what a fool!(とんだ馬鹿だな!)……て、言われちゃうよね」
彼が言いそうなことを口にした途端、また目頭が熱くなって涙が零れた。
つ、と頬を流れていく涙に苦笑して起き上がる。
無理に止めることも、拭うこともしない涙の通り道が風に吹かれて冷たさを伝えた。
さっきも、こんな時に政宗のことを思って笑える自分の神経に驚いたが、理由はひどく単純なもの。
力で押さえつけられて、無理やり乱暴されそうになって――まるで知らない男の人のようで本当に怖かったし、嫌悪しか抱かなかった。
のことをどうとも思っていないからこんなことが出来るのだと思えば、信じられないくらい哀しかった。
まるで物のように、好きな人から性欲の捌け口のように見られているのかと……そう思って傷つかない女性はいない。
彼はが好きになった政宗では無いけれど。
でも、どちらも同じ『伊達政宗』という人間で、はやっぱり彼自身が好きなのだ。
きっと、政宗が政宗である以上、どんなことがあってもこの気持ちは変わらないのだと思う。
だから、前に進むしか無い――
膝を抱えて座ったまま、自分の身体をぎゅっと抱き締める。
(怖かったけど……でも、会えないのはもっとツラい……)
それが本音で、そして答えなのだろう。
だから、今度こそ正面からぶつからなければならない。
全部本当のことを話して…………気持ちも、伝えて。
「それでも今回のこと謝らなかったら……燃やしてやる」
不穏なセリフを呟いてふっと笑い、はそのまま目を閉じた。
――ふと、階段の軋む音で覚醒したは眼を開けて驚いた。
辺りはすっかり暗くて、開け放たれた戸から差し込む月と星の明かりだけになっている。
いつの間にか天守で座ったまま眠ってしまったようだ。
ぎしりともう一度階段の床が音を立て、誰かが上がってくる気配がした。
気配は殺しているようでよく分からないが、土埃の臭いがして、寝起きの目を瞬いた。
恐らく、小十郎だろう。
多忙にも関わらず、小田原から馬を駆ってやって来たのだ。
は小さく息をついて星空を見上げた。
空には昨日より少し太った三日月――今頃政宗も、この空を見上げているのだろうか。
「……すみませんでした」
の居る最上階に上がってくるタイミングを見計らって、振り返らずにそう口にした。
階段を上って来た気配が、上がりきらぬまま途中でぴたりと足を止める。
「勝手に逃げ込んだりして、ご迷惑かけちゃいましたよね――小十郎さん」
本当に迷惑でしか無いだろうことを思えば申し訳なさでいっぱいになるが、相手はそのまま動かなかった。
疾風からどう聞いたのかは知らないが、一応年頃の娘にこんな時に掛ける言葉を迷っているのかもしれない。
「政宗様に何か言われたんじゃないですか? ……いえ、それより…おかしな侍女を使って政宗様を誑かそうとしたとか何とか……」
「………その心配は無ぇ」
返ってきた声に目を見開いて振り向いたは、そのまま固まった。
そこに居たのは、小十郎では無く、いま一番逢いたくて……逢いたくなかった人物。
「政宗さ…ま……」
月明かりに照らされたのは、彼らしくなく簡素な出で立ちの政宗だった。
そしてなぜか、に負けないくらいひどく驚いた様子だ。
予期しない再会は昨日と同じ――いや、一日分光を増した月の下で……
視線を縫いとめられるままに、胸が締め付けられるその隻眼を見つめた。
080822