93.断崖

「…松永久秀…に、明智光秀か……」

 呟いて、はぼんやりと自室の天井を眺めた。

 時は真夜中、深更――
 昼間慶次と話したことを思い出してつらつらと考え事をしている内に、目が冴えて眠れなくなってしまった。
 先ほどから寝返りを繰り返し、それにも飽きて天井の節目を目に映している。

 これからこの戦国乱世はどうなっていくのだろうと漠然と思った。
 もはや、が知っていた歴史とはかけ離れすぎてしまっている。
 そして自身も、この混沌とした歴史の渦中にいるのだ。

 松永久秀、明智光秀――考えただけで纏いつく寒気や不快感は、得体の知れなさだけに起因するのだろうか。
 いや、違う……の中に眠る記憶と闇が、そう告げている。
 彼らのこともまた、が立ち向かわなければならない過去の闇。
 そして、もう一人……

「織田…信長………」

 声に出した名前に、の背中がぞくりと慄いた。

 記憶の中の言葉、眼光、覇気………思い出しただけでこれなら、実物を前にすればどうなってしまうのだろうか。
 絶対的な力で天下を支配せんとする第六天魔王――

 先の二人も、以前は織田に仕えていた武将だ。
 が闇に囚われて織田軍で戦っていた時期とも一致する。
 恐らくまだ思い出していない記憶の中で会っている――これは漠然とした確信だった。

「……………ッ」

 布団から起き上がって、ぶるりと一つ身震いした。
 既に蝋燭の火は消えている……片膝を掛け布団ごと引きよせ、逃げるように顔を埋めた。

 ――闇…暗闇。一人の世界。一人だけの孤独。

「……違う…っ」

 気が付けば、悲鳴のように小さく叫んでいた。
 堪らなくなって立ち上がり、障子を開ける。

 見上げた先には、少し雲に遮られた細い三日月。
 清かな月明かりがを照らして、ゆるゆると息を吐いた。
 この闇夜の、唯一の光源。

「私は、一人じゃない……」

 呪文のように自らに刻みつける。
 ここにはいつきや小十郎たちや、今は慶次だっている。
 それにすぐ傍に、の闇を照らしてくれる光が―― 一番大切な人がいる。

 だから、大丈夫。

 はため息をついて、室内に戻った。
 奥の行李から羽織だけ取り出し、夜着の上に羽織って足早に暗い部屋を後にする。

 もう逃げないとか、自分の闇と向き合うとか、とにかくもっと強くなろうと決めたというのに、こんな風にちょっとしたことですぐに揺らいでしまう……
 これでは駄目だと分かっているが……とりあえず今日は、眠ることは諦めなければならないだろう。

 暗い夜を何とか凌いで、そして明日の朝いつものように政宗に会えば――
 彼のあの鮮烈な光に触れたら、それでまた前を向けるに違いない。

「……結局、頼るしか無いのか…」

 溜息と共に苦笑を落として、わずかな月の光だけを頼るようにふらふらと寝静まっている城内を歩いた。
 一方的に彼に依存しているようで情けないが、には彼が必要だった……以前は同じ言葉を返してくれた、彼が。

 ふと、そんなことを考えて歩いていたら足が自然と本丸の方に向いていたことに気付いて苦笑する。
 確かに、じっとしていても気が滅入る――が、あまりうろちょろしていては不審者と間違われ兼ねないだろう。
 気晴らしとして即座に頭に浮かぶのは例によって馬か弓だったが、こんな夜更けに軍馬を持ち出すのなんて論外だし、的場や鍛錬場へ行くには一旦この二ノ丸から出なければならないから実質的に不可能だ。
 結果、残った選択肢はこの二ノ丸内の庭を散策するくらいだった。

 そうして頭に浮かんだのは、この前たまたま見つけた東屋――確か、あそこからなら月もきれいに見える筈だ。
 取り敢えずそこで、月見でもしながら闇をやりすごそう。

 憂鬱な気分を引きずりながら、昼間の美しさが黒く沈んだ夜の庭を抜けていく。
 しかし、目的の場所に近づくにつれて、なぜか動悸が早くなってきた。

「これって……」

 この感覚には覚えがある。

 以前、伊達の国境が豊臣に襲撃されて、援軍を呼ぶために一人で闇を駆けていた時――
 離れた場所からでも、彼が居る場所だけが鮮明に見えた。

 そうして手を伸ばして……気付いたのだ。
 自分はこの人のことが言葉に出来ないくらい好きなのだと。

「――政宗さ…ま……」
「………、か?」

 突然の鉢合わせに、お互いが目を瞠って見詰め合う。
 しかしは、驚きよりも喜びの方が勝って、思わず駆け足になりそうな自分を叱咤した。

「…こんな夜更けに、こんな場所で如何されました?」
「そりゃこっちの台詞だ――と言いたいとこだが、お前の部屋はこの近くだったな」

 東屋に設えられた椅子に腰掛けて煙管をふかしていた政宗は、先客と言うよりそこの主のように泰然と口元を緩めた。
 思わず見惚れてしまった――後ろの三日月さえも従えているかのような圧倒的な存在感に。

「まあ、お前も座れよ」
「……はい、失礼します……」

 いつも以上に柔らかな仕草、穏やかな口調――

 常ながら内心舞い上がってしまいそうな嬉しい状況なのに、は自然と眉を顰めていた。
 嬉しい気持ちが急速にしぼんで、何やら得体の知れない不安や焦燥感が這い上がってくる。

 も政宗も灯りを持っていない。
 僅かな月明かりの下で、相手の表情はほとんど闇に沈んでしまっている。
 見えないせいか、闇が濃すぎるせいか……
 説明できないほどの、僅かな……違和感。

 何かが、違う。

 闇に怯えていた所に一番会いたい愛しい人に会って、これでもう大丈夫だと安心したというのに。
 なぜだろうか、逆に闇に捕まったような感覚に陥るなんて。

「――お眠りにならなくてもいいんですか?」

 妙に沈黙が怖くてそう口を開けば、カンと煙管の灰を落とした政宗が低く笑った気がした。

「ここはな、俺の気に入りの場所だ」

 質問とは違う応えが返り、は口を噤んだ。
 口を挟めない何かが、ここには巣食っているような気がした。

「昔……親父が死ぬ少し前、二人で月見酒を酌み交わしたことがあった。俺ぁ天下人になるって親父にはっきり宣言してな……まだ奥州の半分も取ってない頃だ。……It's a clown.(今にして思えば道化だ)」

 自嘲するような言葉に、は思わず言葉を返す。

「…clown……A serious clown becomes true.(道化は道化でも、真剣な道化なら、本物になります)」
「………Ha」

 その通りだとも、違うとも言わず、政宗はただ嘲笑った。
 その顔から笑みが消えたことだけは、にも分かった。

「ここは……ここから見える月も、あの時の東屋に似てやがる。――尤も、俺がここに踏み込むことを、あの人は不快に思うだろうがな」

 政宗の言う『あの人』が、彼の父親では無く母親なのだということは容易に知れた。
 ここは彼の城だが、この二ノ丸の主は実質義姫のようなものだ。

 一人で泣いていた小さな梵天丸……
 いつか、小十郎が言っていた。
 ――政宗様には、気を休める場所が無い。

 こんな寂しい東屋で、一人月見をして……吐き出せる人も無く。
 母親にさえ疎まれていると自嘲して。

「ここには、私が居ます」
「……what?」

 思わず、は口走っていた。

「私でよければ、月見酒でも、雪見酒でも、花見酒でも……馬でも稽古でも料理でも、何でもお付き合いします」

 言わずにはいられなかった。
 以前、米沢に居た頃の自分達……あの頃の政宗は、今よりはまだ一人では無かったのではないか。

 自惚れでも何でもいい。
 独眼竜や奥州筆頭では無い、ただの政宗として、の友人として、他愛無い時間を過ごしていたあの頃に戻れたなら――……
 そうして支えることが、にとっても一番の……

「……Ha、Nonsense.」

 しかし、返って来たのはそんな拒絶の一言。
 真剣な想いを馬鹿げていると一蹴されて、はカッと逆上した。

「馬鹿げてなんかいません! 私は真剣に……っ」
「命掛けられるくらい好きな野郎がいる癖に、何言ってやがる!」

 バチリと小さな火花が散って、は目を見開いた。
 明確な拒絶……けれどそれは、誤解なのだ。

「違います、私は……!」
「Ha! 何が違う? 前田と俺を天秤に掛けた時、俺を取るって言えるのか、Ahhn!?」
「――言えます」

 本心からきっぱり頷いたのに、政宗は更に眉を吊り上げた。

「愛しい野郎の主だからってんだろーが!」

 突然腕を掴まれて、長椅子の上に引き倒された。
 乱暴に圧し掛かられて身動きが出来ない。
 そのまま片足で裾を割られ、乱された首筋に噛み付かれた。

「やっ! 何を……っっ」
「ナニなんて決まってんだろ? どうせ今日の昼間も、前田と天守でお楽しみだったんだろーが」

 くつくつと低い笑い声が耳元で聞こえ、は体を強張らせた。
 違う――

「慶次さんと私は――……」

 ――「嫌いじゃなくて、その逆。俺は、嘘や冗談でこんなことは言わないよ」
 不意に今日言われたばかりの慶次の言葉が蘇って、は言葉に詰まった。

 幸村に言われた時は、自分には想ってもらえる資格は無いし、勿体ないと思った。
 けれど今は、折角の気持ちに対してそう思うこと自体が失礼なのだとも分かるようになった。

 慶次はにとっては大切な友人で、それ以上ではない……だから急な告白に困惑したことも確かだ。
 けれど、想いを寄せてくれることは素直に嬉しいとも思えた。
 それは、この数カ月でが得た成長なのだとも思う。

 それなのに。

「慶次さんは、そんな人じゃ……ンっ」

 何とか反論しようとした言葉は、乱暴に重ねられた唇に攫われた。
 抵抗を体ごと封じられて、目頭が熱くなる。
 傍若無人に侵入してきた舌に、度し難い屈辱感が這い上がり、全身が泡立った。

 乱暴なのは、米沢城の懸造りでの時と変わらない。
 けれど、あの時とはあまりにも違いすぎていた。
 これでは、こちらの意思など微塵もお構い無しの、ただの――暴力だ。

「ッッ……!!」

 思うようになるものかと、出来る限りの抵抗で歯を立てれば、相手の体が強張りようやく離れた。

「……やってくれるじゃねぇか。気の強い女は嫌いじゃねぇぜ?」

 切れて血の滲んだ口元が吊り上げられ、の背を言いようのない感覚が走り抜けた。
 恐怖とも、怒りとも付かない……本能的な嫌悪と、それらへの対抗心。

「――離してください、政宗様」

 怯えを悟られるのは耐えられない。
 努めて静かに言ったが、押し殺した声になるのは避けられなかった。
 それを聞いた政宗は、離すどころかますます拘束した手に力をこめる。
 出来るものなら振りほどいてみろと言わんばかりの挑発。

「政宗様、なんて他人行儀な呼び方すんな。もっと砕けて呼んでくれよ、kitty――前田を呼ぶみたいになぁ?」

 はその言葉に眉を顰めた。
 慶次のことは、『慶次さん』と呼んでいる。
 それと同じように呼べと言うのだろうか……『政宗さん』と。

「嫌です」
「Ah?」
「それは貴方じゃない」

 大の男でも裸足で逃げ出す眼光の前で、きっぱりと言い切る。
 意味の分からなかったらしい政宗は眉をしかめたが、は沸々と怒りを感じた。

 それは、『彼』に対する呼び方だ。
 こんな風に……物のようにを見る彼では、有り得ない。

 どちらも同じ政宗――けれど、違う。

「まだ分かってないようだな、kitty? お前は俺の侍女だ。つまり、俺のもんだ――you see?」
「…っ…やめて…ください……」
「誰が主か、たっぷり分からせて…」
「やめてっ……!!」

 怒気のままに吐き出した政宗は、まるで気に入りの玩具を取られた子どものようだった。
 の意思など微塵も関係ないと言わんばかりの……を『女』というただの『物』として扱おうとするその視線と手。

 ――吐き気がした。

「冗談もいい加減にしてくださいっ…!」
「jokeじゃねぇ。I am serious.」

 間近で見詰め合った政宗のその目には、一切の光が無かった。
 ただ、無明の闇ばかりが広がっている。

 違う――
 これは、政宗ではない。
 本来の彼のどこかが歪んでしまった姿……その一因は、にもあるもの。

 だからは、キッと苛烈な目で睨み返した。
 闇に臆している場合では無い。

 自分がいまここに居る理由――乱世の渦中にいる大切な…愛しいこの人の傍らに在りたいと、自らが望んだ為では無かったか。
 それは、ただ傍にいて、人形のようにこういったことで慰める為では無い筈だ。

「本気だったら、なおさら性質が悪いです、ね!!」

 全身で引き締まった体躯を蹴り上げるのと同時に、限界まで燻った炎を解き放つ。
 業火となった鳳凰からとっさに身をかわした政宗は、不自然に空いた距離から目を瞠ってを見つめていた。

 僅かな距離の間に断崖絶壁が横たわるごとく――炎の熱に炙られて。
 まるで、米沢での別れの時のようだ。

 思いながら、は自嘲の笑みを零した。

 あの時とは、何もかもが違う。
 今ここでこうして向かいあっているのは、紛れも無いの意思だ。
 そして、の手で、足で、口で、選択することが出来る。

「私が好きな人は」

 肌蹴た夜着の上から、羽織をぎゅっと掻き合わせる。
 声が震えないように、涙が零れないように。
 力を込めた瞳には飛散した鳳凰の炎が粉雪のように散りいくのが映り、爆風に髪が浚われた。

「ぬばたまの闇を切り裂く、どこまでも眩しい雷光」

 まっすぐに見据えた政宗の隻眼が、炎に揺られて例えようも無くキレイだと思った。
 が惹かれてやまない、愛しい光――

「天下一のcoolな男です!」

 ほとんど喧嘩腰に言い切って、身を翻す。
 そのままの恰好で厩まで走り、問答無用で馬を一頭借りて門を開けさせ小田原を飛び出した。

 それらの行動に、意図や確信があった訳では無い。
 けれど、は取り戻したいのだ………どうしても。

 例え、延々とすれ違ってどうやっても手の届かない人なのだとしても。
 そういう運命なのだと言われても。

「政宗さん……」

 触れられた場所も、重ねられた唇も……熱い。
 けれど、それ以上に胸が痛くて仕方なかった。

 泣くものか、と食いしばった歯が震える。

 興奮状態の中でも、政宗との間に黒々と広がっていた断崖だけははっきりと感じて――
 それが例えようも無く、悲しかった。







080814
CLAP