遠くから、稽古に励む兵たちの声が聞こえてくる。
手元の着物を畳み終わったは、曇り空を見上げながら深々と溜息をついた。
先日、のウッカリした失態で英語が分かることが政宗にバレてしまって以来、その後は散々だった。
小十郎を巻き込んでしまったことも十分に申し訳無かったが、かと言ってへの矛先が逸れることも無く、事あるごとに英語での会話を強要されているのだ。
しかし、とて学校で習った程度だから、『英会話』として聞くのも話すのもそれほど流暢では無い。
すぐにボロが出て、「何だ、その程度か」とばかりに思い切り馬鹿にされた。
以前ならムッとして食ってかかる所だが、侍女として仕えている今はそういう訳にもいかない。
毎日ひたすら我慢しているのだが、そんなに政宗は容赦無くわざと分からない英単語ばかりをぶつけては、反応を見て笑っている。
「絶対に性格悪くなってますよ!!」
仕事の後、涙ながらに断固抗議したに、訴えられた小十郎は視線を泳がせて逡巡した後、言葉を落とすように吐き出した。
「いや、あれで普段通りだ」
どうも小十郎曰く、以前までが少し変わっていたのだという。
は彼にとって最初は『敵』であり、すぐに『命の恩人』になり、『毛色の変わった客人』を経て『友人』という位置に落ち着いた。
そういう今まで政宗の周りに居なかった人間であったからこそ、接し方も少し変わっていたのだろう――と、そういうことらしい。
別段、どちらが真で偽りでなどということでは無い。
『侍女』と『友』……彼の中で、そういう認識の差があるだけなのだろう。
としては寂しいような苦しいような気もするが、どちらも政宗であることには変わりないのだからそれは構わない。
「問題は、ストレスが溜まるってことなんですよね……」
ぽつりと呟いた言葉は小十郎に怪訝な顔をさせたが、結構切実だったりする。
自他共に認める負けず嫌いであるが馬鹿にされても言い返せないのである。
政宗とは以前が悪友のような関係で、何でもポンポン言い合っていただけに、これは思い切りストレスが溜まる。
しかも悪いことに、あれ以来政宗に呼ばれること自体が多くなった。
何かと些細なことで呼ばれては雑用から茶の相手までさせられる。
政宗の傍に居るのは願ったり叶ったりだし、それはそれで幸せなのだが、共に居る時間が増えるだけ何か失敗をしてしまいそうで怖いというのも正直なところだった。
なので素直に喜ぶことも出来ず、また感情を悟らせない為にも気疲れすることが多い。
こんな時は、思い切り馬を走らせて矢を撃ちまくって気晴らししたいが、それすらも侍女という立場では早々に出来ることではない。
楽しそうに体を動かしている人の声をただ聞くだけというのがこんなにもツライとは……思うさま稽古に励んでいた武田では考えられなかったことだ。
気分は今日の天気と同様にどんより曇り空――つまり、は非常にストレスが――心の疲労が溜まっていた。
そんな鬱々とした気分にが拍車が掛かっている昼下がりのことである。
「はぁー……思い切り火矢を撃ち込みたい……」
傍から聞けばかなり剣呑なセリフをしみじみと呟き、廊下を曲がる。
もう何度目になるか分からない溜息をつきながら目的の部屋に入った。
他でもない政宗の部屋である。
本人は執務中なので、身構える必要は無い。
この部屋の掃除を終えたら一先ず今日の仕事の大半は終わりなので、手早く終わらせていつき辺りに頼んでこっそり城下に連れ出して貰おうか……そんなことを考えていた時だった。
乾いた布で部屋の調度を拭いていたは、ふと目に入ってきたものに手を止める。
「これって…!」
誰が見ても一級品である金蒔絵があしらわれた物入れの上に、無造作に置かれていたもの――
こだわり抜かれた調度に囲まれているので、それだけぽっかり周りから浮いている。
「髪紐………」
飾りにしてはシンプルな赤いそれ。
が初めて政宗と米沢城下町に出た時に――引越しを手伝って貰った夜に、政宗から貰ったもの……
甲斐躑躅ヶ崎館の自室の引き出し深くにしまってあるはずのその髪紐に、よく似ていた。
「まさか……どうして………」
こんな所にある訳がない。
けれど何度も見て身に付けたそれを、が見間違う筈も無い……と思う。
でも一体なぜ……
様々な思いが混ざり合い、もっと良く見ようと手を伸ばした時だった。
「Don't touch! それに触るな!」
ビクリと指先が震えて、は反射的に振り向いた。
いつの間にか政宗が部屋の入口に立っていた。
よほど気を取られていたせいか、全く気付かなかった。
「ま…さむね様……」
ひたすら目を瞠るの前を横切り、政宗はその髪紐を取り上げた。
乱暴に懐に入れられたそれを目で追っていたは、そのまま出て行こうとした政宗にはっとして声をかける。
「お…お待ちください、政宗様! それは……」
「Ah? ……お前には関係ねぇ」
バッサリと、心臓を袈裟がけに斬られたようだった。
じくじくと痛みを訴える胸に唇を噛み締める。
――かつて政宗がの髪に結んでくれたその髪紐は、今は触れることすら出来ず、その理由を知ることすら関係無いと拒絶された。
政宗の記憶のことは十分に承知していて、以前とは別人だとも認識していた。
納得ずくのことなのに、それでもこんなに苦しくなる自分が腹立たしい。
悲しみは鬱々としていた気分も手伝って怒りへと変換されていく。
その吐き出し口を求めるように、は胸に巣食ったそれを言葉に乗せた。
「――そうは参りません」
「アァ?」
「私は小十郎様よりお世話周りを任されている身。……訳の分からないものを政宗様のお傍に置いておくことは出来ません」
「Ha! こんなもんの何が危険だってんだ?」
「何があるか分からないのが戦国の世です」
我ながら何とも説得力の無い言い訳で、融通の利かない物言いにしか聞こえないと思う。
『訳が分からないもの』の最たるものは自身だろう。
けれど、一度ムキになれば止まらない。
何より政宗がそれを持つ理由を、どうしても知りたかったから……
「政宗様の物では無い様子ですが、どなたか…女性のものですか…?」
苛烈な隻眼と睨み合うことしばし、折れるというよりも呆れたように、政宗は疲れた溜息をついた。
「……Huh……さぁな」
「え?」
「こっちが聞きてぇくらいだ。――お前もどうせ小十郎か喜多から聞いてるだろ。理由なんざ知らないが、俺は何かを忘れてるらしい。……知らねぇもんが知らねぇ内に増えてるっつーのは気味が悪ぃもんだぜ?」
ははっとして政宗を見つめた。
彼がの記憶を失くしてから、初めて聞く心情だった。
気味が悪い……それは……そうだろう。
自分は何を忘れているのか自覚も無いのに、覚えの無いものだけがぽこぽこ忽然と増えていたら、気持ち悪い……怖いというような感情を抱いて当然だ。
それは、政宗にとっては確実に不快なことだろう。
「だったら………」
「Ah?」
「だったら……捨ててしまわれれば…良いのでは……?」
声が震えないようにするのが精いっぱいだった。
まともに顔を見ることが出来ずに目を伏せる。
何だか無性にあの引っ越しの夜のことが思い出されて、泣いてしまいそうだった。
「捨てる……か」
ぽつりと呟いた政宗は、くるりと背を向けて庭を見遣る。
「それが出来りゃ苦労しねぇ」
言い捨てて、今度こそ部屋を出て行った。
一人残されたは唇を噛み締める。
心底忌々しげな政宗の声に傷付きながら、同時にあの髪紐を捨てずに持っていてくれることにどうしようもなく嬉しさが募って……
記憶を忘れてもなお政宗を縛っているあの髪紐が、憎くもあり愛しくもあった。
「ちゃん」
「! 成実さ……様。どうかなさいましたか?」
「どうしたはこっちの台詞。俺の気配にも気付かないなんて」
掃除を終えて政宗の部屋を出てきたところに声を掛けられて、は驚いて振り向く。
特に気配を消していた訳でも無い様子の成実の言葉に、苦笑を返すしかなかった。
小田原に来てからこちら、はつくづく武将失格である。
「すみません、ちょっと考え事をしていて」
曖昧な言葉に、成実の目がすっと細められる。
「その考え事って、梵のこと?」
いつに無い真剣さに目を見開いたに向かって、成実はニッと誰かを思わせるような笑みを浮かべた。
「ちょっと俺とお話しようか、ちゃん」
そうして連れて来られたのは城下で、しかもも顔見知りの菓子店・弥鳥屋。
無理やり馬に乗せられ、半ば拉致されるように引っ立てられてきたので、文句を言う暇も無く店主の前で固まる羽目になった。
「――いらっしゃいませ、成実様」
「よっ、中でいただいてくよ。適当にお勧め持って来て」
「はい、ただいま。………お連れ様もどうぞ」
最初に顔を合わせた時こそ驚いていたものの、店主はすぐに笑みを浮かべて二人をもてなした。
は少し目を瞠って、そして感謝するように一度深く頭を下げて案内に従う。
「ありがとうございます」
「……いえ、お得意様を迎えるのに、何の不都合がございましょう。いつなりとおいでくださいませ」
そして店の奥座敷に落ち着いた途端、成実はけらけらと笑った。
「ちゃんの嬉しそうな顔、久しぶりに見たな~」
「成実さん……」
この弥鳥屋もそうだが、が米沢城下で知り合った人々は、が今は既に伊達の一伝令兵では無く、武田の姫であることを知っている。
そうして米沢を急襲した武田軍によって連れ戻されたことは周知のことであるからだ。
それ以来音信不通だったものが、いきなりひょっこりと……それも伊達の重臣である成実と共に現われて、驚かない方がおかしい。
伊達と武田は同盟を結んだ訳でも無く、列記とした敵同士なのである。
その敵がのこのこ城下を歩いているのを見過ごしたとあっては、伊達に仕えていると言っても過言ではない城下商人としての進退に関わる。
それにも関わらず、弥鳥屋は素知らぬふりをしてくれた。
何か事情があるのだと察して何も言わないでいてくれたばかりか、『お得意様』とまで言っていつでも来て良いのだと示してくれたのだ――それが分かっただけに、申し訳無さと同じくらい嬉しさが立ってしまう。
「そんなに来たかったならもっと早く来ればよかったのに。小十郎殿に禁止されてるのは知ってるけど、そんなのこっそり抜け出せばいいんだよ」
前はよく梵と抜け出してただろ?
そうからかってくる成実に、も自然と笑みがこぼれる。
「実は、今日あたり我慢の限界で、こっそり遊びに来ちゃおうかと思ってたんです」
とは言っても一応知り合いには会わないように気を付けようと思っていたのだが……そう白状すると、成実は大声で笑った。
「それでこそちゃん! やっぱりそうじゃないとね」
何が『そう』なのかは分からないが、ウインクなどと時代錯誤なものを送ってくる成実にも苦笑した。
「成実さんも、相変わらずですね。昨日も執務サボったとかで政宗様にこっぴどくやられてたでしょう?」
「ゲッ、見てたの!?」
「見てたんです。羨ましいなーと思って」
「おっ、ナニナニ、俺にじぇらしー感じるようになっちゃマズイんじゃない?」
「そっ…そんなんじゃなくて! ただ私も体動かしたいなって思ったから……!」
ニマニマと笑ってからかって来る成実は、そのままうんうんと頷いて運ばれてきた生菓子を食べながら続ける。
「そんで? 今日は梵に何て言われたのさ?」
「それがですねー……」
あまりにも自然に聞かれて思わずさらりと答えそうになったは言葉を詰まらせた。
まじまじと成実を見つめて、そして苦笑した。
「腕を上げましたね、成実さん」
「恐れ入ります。虎姫に褒められるとは光栄至極」
二人でニヤリと口元を緩ませて、声を上げて笑う。
成実とこんな風に話すのは、本当に随分と久しぶりだった。
笑いの名残に息をついたは、茶を飲み干して先ほどのことを話した。
聞き終わった成実は、しばらく瞬きして一言。
「可哀想に…………梵」
「同情するのはそっちなんですか?」
「当ー然。俺は殿の家臣だし、梵は俺の大事な従兄弟だかんね」
冗談めかしてはいるが、それが真剣なのだと分かっては真っ直ぐに成実を見る。
「憎いですか?――記憶を失くしてもまだあの人を苦しめてるような私が」
「ちゃんが憎い? まさか」
これまたあっけらかんと言われて、はやや面喰う。
「俺より梵なんかを選んだっていう点では悔しいけど、俺よりも梵にこそ君が必要だと思ったから――だから俺はこうしてここに居るんだ」
謎掛けのようなそれに、は今度こそ言葉を失くした。
「俺が可哀想って言ったのは、誰かを責めてるんじゃ無い。ただ、忘れても捨てらんないほど大切なもの――その持ち主が目の前に居るってのに、それに気付けもしない梵があんまりにも可哀想だなって」
「今日ここに連れてきたのは……」
「そうそう、だからそれを話したかったんだって。早く梵の目を覚まさせてやってよ! そんで二人して幸せになってくんないと、俺も結構可哀想だし?」
ね? と覗きこまれて、は熱くなる頬を誤魔化すように言った。
成実の気持ちが冗談であれ真剣であれ、には受け入れることは出来ない。
成実もそれを十分分かっていて、もう完全にそうなのだと受け入れているようだった。
だからもここにいることが出来るし、成実に対する好意を隠す必要も無い。
「……やっぱり私変ですね、今日は成実さんが恰好良く見えます」
「いやいや、それめちゃめちゃ正常だし!」
顔を見合せて二人で笑う。
名実ともに右目として政宗の足りない部分を補うのは小十郎の役目だろうが、兄弟とも幼馴染とも言える一番の政宗の理解者は成実だと、は思っている。
他ならぬその成実に背中を押されたことは、今のにとっては何よりも嬉しかった。
「大丈夫ですよ、成実さん。もう逃げないって決めたんだから……図太く、気長に、頑張りますから!」
拳を握って宣言する。
そう……たった一人でもこの想いから逃げないと誓った。
ましては一人じゃ無い。
政宗の為に……そう言って身を引くのは簡単だし、誰かに――例えばこの成実に、それを認めて貰うことだって難しくない。
だが、手を尽くさずに向き合わないままにするそれは、本当にただの逃げだと思う。
「おぉー、ちゃんカッコイイ! 女が上がったぜ!!」
ヒューヒューと指笛まで吹いて囃し立ててくる成実は、伊達軍の象徴のようだった。
久しぶりの懐かしいノリに、も胸を張って立ち上がる。
「任せてください! 解かれようが断ち切られようが……いつかは必ず、また結んでみせます!」
勢いで口にしたその言葉に、自分自身が驚いた。
(最初はただ傍に居たいと思っただけなのに……)
別に思い出して貰わなくても良いと思っていた。
政宗にとってはその方が良いのかもしれないし、好きな人を苦しめてまではいらないと。
(だけど………)
政宗がくれた赤い髪紐。
髪に結んでくれた時の照れを隠すような仕草。
実際に記憶の無い政宗の傍で生活し始めてから約一月――の中でも、何かが確実に変わり始めていた。
080413