82.unbalance

 安心して気が抜けただとか、今更自分の台詞に恥ずかしくなって眠れなかっただとか。
 全く無かったと言えば嘘になるけれど、佐助に父への手紙を託した翌日から、どちらかと言えばはより一層気を引き締め直して毎日を過ごしていた。

 だから、その日の出来事は、本当にウッカリした大失敗としか言いようが無い。



 日が昇って間もない時刻――
 朝の清廉な空気を満喫しながら、は静かに本丸奥の廊下を歩いていた。

 浮き立つ心はどうしようも無く、けれど表面には出さないように細心の注意を払って。
 辿り着いた目的地の前でそっと膝をつく。
 米沢の頃よりも大分豪勢になったその室の入口は、もうだいぶ見慣れたものだった。

「政宗様、ご起床の刻限にございます」

 障子ごしに少し大きめの声を掛ければ、衣ずれの音がして人の動く気配が伝わってきた。

「ん…? ……ああ………」

 寝起きの掠れた声が答えて、は障子越しに頭を下げた。

 少し前から、政宗に朝の起床を告げてその支度を手伝うのはの仕事になっていた。

 以前までは喜多が、喜多の手が空いていない時は小十郎が担当していたらしく、それほど信用している者にしか任せられない役目を任されたというのが素直に嬉しい。
 けれど、侍女仕事には大方慣れたが、何日経ってもこんな風に……寝起きの政宗に会うことには慣れなかった。
 掠れた声を聞いただけで、どうしても一々赤面してしまう自分が居る。

 いや、好きな人の寝起き……普通は恥ずかしくて当然だ。
 そもそも、無駄に声まで色気のある政宗が悪い。
 姿も見ない内からこんなに心を揺さぶられるのは、あの凶器じみた色気のせいだ。
 ……女のが男の政宗に対してこんなことを思う事自体なにか間違っているような気もするが……

 ともかく、ちょっとしたことでも始終こんな調子だから、彼の前で頭を下げることの多い侍女という立場は中々重宝するのだけれど……

「Good morning,
「おはようございます、政宗様」

 障子を開けて出てきた政宗は、いつものように軽く傾いた花柄の羽織りを肩にかけていた。
 こんな早朝から絵になる彼を憎たらしく思うことで跳ねる心臓を誤魔化して、着替えを手伝うべく部屋に入る。

「本日のお召し物はいかがなさいますか?」
「Ah~…そうだな……。今日はお前が選んでくれよ、honey」

 膝立ちのまま洗顔用の布を手渡していただったが突然政宗に顎を掬い取られ、無理やり上向けられた。
 悪戯にふてぶてしく笑ったその隻眼と視線が合う。

「はっ…honeyじゃありませんっ!!」

 悲鳴のように叫んで思わず飛びすさる。
 目を瞠った政宗は、更に笑みを深くした。

「Ha-mm? 顔が真っ赤だぜ、。…The face which is red like an apple.(林檎みたいに赤い)」
「りっ…林檎なんて、そんなに赤くありませんっ!」
「Ah? …………Well…, there is not it with the apple, and is it a carrot?(それじゃあ、林檎じゃなくて人参か?)」
「林檎も人参も一緒じゃないですか!」
「……If it is it, do you think it to be anything?(だったら、お前は何だと思うんだ?)」
「anythingって…………えぇと……ぴ…peach…?」
「Ha!! 赤くなってんのは否定しねぇのかよ!」
「違います! 私は普通の肌色だっていうつもりで……」
「Splendid! 、お前随分と異国語が流暢なようだなぁ?」
「いこ…く……?」


 本当に何度思い出しても情けないことに、はそこでようやく自分の失態に気づき、真っ青になった。

 ただでさえ赤面しているところにアレで、取り乱してしまったのが敗因だろう。
 だが、もうこれは不可抗力の域だと主張したい。
 いくらが鉄の理性で気を張り詰めていても、あれでは全く意味がない。
 惚れた弱みとは良く言ったものだ。

 けれど、そこでじりじりと迫ってくる政宗に対する申し開きも思い浮かばず、まして捕まることなど論外で……
 『疾きこと風の如く』を体現して、は即座に……逃げ出した。

 とは言っても、逃げ場はこの本丸奥向き内に限定される。
 いつかのように庭を突っ切って厩から逃走することも出来ないが、幸い今日は小十郎が宿直で詰めている日だった。

「futility struggling!(無駄なあがきだ!) 俺から逃げられると思ってんのか!?」

 逃げた人間を追いかけるのが好きだというのは、彼が立派なサドだという証明だが……
 それにしても実に楽しそうに追いかけてくる政宗に半泣きになりながら、は小十郎の室に飛び込んで、強面の兄代わりに庇護を求めたのだった。






「聞いたよ、小十郎殿! 今朝、殿とガチでやりあったんだって!? ちゃんを巡っての修羅場だったって言うじゃん!」

 文字通り目を輝かせて、成実はそう言ってぐったりしている小十郎に詰め寄った。

「流石耳は早うございますな、成実殿。私も、殿をかけて真剣で二刻もやり合ったと聞き及びましたよ」

 どちらも嘘という訳では無いが、誤解を生みまくりの発言である。
 小十郎は深々と溜息をついた。

「俺で遊ぶのはやめねーか……」

 いつものように敬語を使う元気すら無い様子の小十郎に、これは重症だとばかりに成実と綱元は顔を見合せた。

「何だよ、小十郎殿。マジで殿と二刻もやり合ったっての?」

 問われて、小十郎は思い返した。
 夜明けから先ほどまでだから、まごう事無く二刻以上は経っていたことになる。

 ああと頷いた小十郎に、成実は仰け反った。

「ゲゲッ! 二人とも人間じゃねぇ!!」

 小十郎も政宗も並の使い手では無い上に互いの手の内を知り尽くしている。
 そんな相手と真剣でやり合おうものなら、神経をすり減らして大変だ。
 それを、早朝(徹夜明け)から二刻……確かに尋常では無い。
 小十郎はようやく自分の疲労具合を把握した。
 分かっていなかったという時点で既に疲れている証拠であるのだが。

「それにしても……なぜ今日に限って殿とそのようなことに?」
「そうそう、何で今? ちゃんが殿の起床係になって何日か経ってるだろ? 初日こそ何か起きるんじゃねーかって楽しみにしてたのにさー」

 それで庭先から覗いていたというのだから、成実の出刃亀根性は本物である。
 しかし不謹慎極まり無いその台詞にも今は怒る気すら起きず、小十郎は淡々と今朝の事件を話して聞かせた。

「――ええっ!? もうバレちゃったのかよ!? ……つーか殿って、ちゃんが弓使うことにも気付いてんだよな?」
「けれど、殿は弓のことまでバレているとは知らないのでは?」
「ああ……政宗様も流石に不審には思っておられるようだが、それよりも……」
「どうせおもしろがって興味持ってんだろ? 梵は珍しいもんが好きだしなぁ」
「異国語が分かる侍女というだけでもますます傍に置かれようとするだろうな……」

 三人で小さくため息をついて、成実と綱元は首を傾げた。

「で、何で『侍女を巡っての修羅場』になったのさ? ほわい?」

 至極尤もなのだろうその質問に、小十郎は海よりも深く溜息をついた。






「小十郎さ……小十郎兄様!!」

 夜通し続いた宿直も終わろうとしていた明け方。
 夜間警護の報告を聞き、書面にも纏め終わり、これから仮眠を取ろうかと意識が落ち始めた頃だった。

 唐突に悲鳴を上げながら飛び込んで来たのは、走って小袖が乱れた
 しかも勢い余ったのか、座っていた小十郎に抱きつく形となった。

「すっ…すみませ……ひっっっっ……!!」

 とっさに受け止めた小十郎に慌てて詫びたまでは良い。
 だが、離れようとしたは瞬時に青ざめ、より一層小十郎に抱き付いた。

 若干寝惚けていた所にこの事態で思考を止めていた小十郎も、その気配には否応無く気付く羽目になる。

「そいつをこっちへ渡しな、小十郎」

 小十郎が息を呑んで視線を上げれば、ドロドロと真っ黒な気配を垂れ流しにした竜がそこに佇んでいた。
 だがその隻眼は嬉々として輝いており、ひたすら怯えるだけを映している。

「なっ……一体どうされたのですか、政宗様。……が何か失礼を……?」
「Don't worry! ただそこの異国語堪能なgirlとちぃとばかり話があるだけだ」

 異国語という言葉にはっとしてを見やれば、絶望したような表情で小十郎に視線を返し、けれどぶんぶんと首を横に振った。
 うっかりバレてしまった、けれどこちらは話すことなど無い――大方そんな所だろう。

 小十郎はため息をついた。
 根本的なところでは全く成長していないこの二人は、人を巻き込む所まで以前と同じだ。
 けれど、以前はこんな風にが小十郎を全面的に頼って来ることは無かった。
 それを思えば無碍に出来ない……どころか、やはり何とかして助けてやりたいと思ってしまう。

「……政宗様、が異国語を解することを黙っていたのは、私の責です。どうかここは、この小十郎に免じて……」
「勘違いすんじゃねーぜ、小十郎。何も咎め立てしようってんじゃない。俺はただ、talkしようとしてるだけだ。なぁ、?」
「つっ……謹んでご遠慮……」
「No、遠慮はいらねぇ。いいからさっさと来い。Come on!」

 政宗の手がの肩にかけられそうになって、小十郎はとっさに、自分に縋り付いてきている華奢な体をその手から庇うように抱き寄せた。

 ぴくりと政宗の米神が動き、空中でバチリと小さな雷が爆ぜる。
 地雷を踏んだ――と、小十郎だけで無くも気付いたのだろう。

 慌てて立ち上がって口を開き――

「もっ…申し訳ございません、小十郎様。わたくしは喜んで政宗様のお相手を……」
「Hey、。ちぃと退いてろ。お前とtalkする前にナシ付けなきゃならねぇ相手が出来た」
「……………この小十郎、いつでもお相手になりましょうぞ」





 そのまま、庭に出て真剣で立ち合って二刻――である。
 流石の政宗も今頃は疲れ果てて午睡でも取っている所だろう。

「………何て言うか、小十郎殿ってそんなにお人好しだったっけ……?」
「姉上も最近小十郎殿が丸くなったと言っておられたが……」

 二人からの無言の視線を受け、小十郎はうろたえたように反論した。

「いきなり抱きついてきて助けを求めてきた女を無碍に出来るわけがねーだろう!」
「相手が殿だった場合、小十郎殿はほぼ確実に女の方を無碍にすると思うけどなー」
「まあ、あの殿だから……」

 綱元の説得力があるのか無いのか分からない一言に、成実も一応はそうだな、と納得したらしい。
 以前まであれほど執拗ににちょっかいを出していたのは成実の方なのにと思うと若干腹立たしくもあったが、小十郎もこれ以上痛い腹は探られまいと話題を変えた。

「しかし……あの二人が睦まじいのは微笑ましいんだが、このままで本当に良いのだろうか。こんな時に……」

 天下の情勢は、かつて無いほど混沌としている。
 広大な領地を統括し、石高だけで見れば天下に最も近いと言える伊達ですら、一寸先も分からない状況なのだ。

「いいじゃん、しばらく越後への出陣も無さそうだし、平和な時は平和でさ。……あの二人は、ただでさえ茨だらけの道なんだから」

 成実の声音ははっとするほど真剣で、小十郎も口を噤んだ。
 確かに、政宗の記憶があった所で、このままあの二人が共に幸せになるのは難しいだろう。
 それとも、武田と縁組して新しい道が模索出来ただろうか……

殿が嫁いで来られれば………いや、言っても詮無いことだった」

 小十郎の内心を読んだかのような綱元の言葉に、三人は一様に押し黙った。
 三人が三人とも、本来ならその未来を望んでいた。
 政宗が一番幸せになれる未来を。

 けれど最近、小十郎は少し見解が変わってきている。

「……例え政宗様の記憶が戻られても、あの二人を一緒にするのは危険かもしれん……」

 思わず声に出した小十郎に、成実が鋭いまなざしを向けた。

「それは、右目として? それとも私情?」

 思わぬ言葉に、小十郎もギロリと睨み返した。

「無論、政宗様の臣として、だ」

 政宗もも、共に深い闇を抱えている……そのことを、最近になって度々再認識するようになった。
 二人共の近くに居る故だろうか。
 それは、それぞれならば自分自身で押えていられる闇だ。二人とも強靭な精神力を持っている。
 けれど、互いに倒れかかったら……

 過去が消えてしまったことによって、既に歪んでしまっている二人の関係。
 再び交わった時、それがどう出るのか――

「危うい――二人ともに。俺は、そう思う」

 小十郎の視界の端で、茶を持って政宗の部屋に渡っていくが映った。
 それを残りの二人も目で追う。

「けれど今は、見守るしか無いでしょう」
「だね。結局のとこ、幸せになってほしいってだけだからさ」

 小十郎はしばしの沈黙の後、ああ、と心の底から呟いた。

 運命というものがあるならば、今はその挟間の時なのかもしれない。
 例え一時の休息だとしても、危うい均衡だとしても、せめて今を幸せに――







080329
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