自分でもどうやって帰ってきたのか分からない。
気付けばは、療養用に与えられた二の丸の部屋で布団に横たわって眠っていた。
恐らく疾風が運んでくれたのだろうと思うが、それを確かめる気力も無い。
ただぼんやりと開けた障子の桟にもたれるようにして庭を見つめて、目を閉じる。
そうして静かに、風の音と……自分の鼓動を聞いていた。
「物忘れの病じゃ。一部分だけ、記憶を失うておられる」
その日の午後、診察に訪れた伊達軍の専属軍医にして政宗の典医も務める、通称『翁』。
今度の怪我でも以前同様お世話になっているは、自身の診察を受けながら、その政宗に対する診断を聞いた。
「ほ…本当なんだべか、お医者の爺ちゃん! 本当に政宗がのことを忘れただか!?」
「何を忘れても、政宗殿がを忘れる等とある筈がございませんっ!」
そこに同席したいつきとまつは、二人して翁に食ってかかる。
翁はそれを口汚く罵って追い払いながらも、手際良く包帯を変えながら言った。
「信じるも信じぬも無い。ただ事実を言うておるだけじゃ、馬鹿者め。――もっと正確に言えば、小娘に関することだけがぽっかりと抜け落ちておられる。……全く、難儀なことじゃ」
小娘とはのことだが、翁にしては随分遠慮をした言い方だ。
彼がこんな物言いをするのだから、よっぽどその兆候が顕著なのだろうと、事実として受け止めた。
「そんな……一人の人間のことだけ忘れるなどと……然様に面妖なこと、聞いたこともございませぬ! ……、気にすることはありませぬ。すぐに思い出されまする。然様にございましょう、翁殿!?」
「いや……」
――わしにも分からぬ。
そうとだけ口にした翁に、まつといつきが顔を歪ませる。
「そったらこと……爺ちゃんは偉いお医者だべ!? 爺ちゃんが分かんねぇって言うなら、一体誰が分かるんだ!?」
「――誰にも分からない」
今まで黙っていたは、そう静かに口を挟んだ。
一斉に向けられた三人の視線に、苦笑する。
「私の国では、記憶喪失って言うんですよ。ここより医学は発達してましたけど、それでも精神的なものが大きくて、思い出すのが一時間…半刻後なのか、一年後なのか、それとも一生思い出さないのか――誰にも分からないらしいんです」
とて、未来の医療知識など皆無だ。
ただ、ドラマや小説や、そういった物語の世界でよく見聞きしたものを知っているだけである。
そういったものは大抵大袈裟に描かれるけれど、全くの嘘ということも無いだろう。
「ふん、精神的な……か。殿の場合、倒れた拍子に頭を打たれた可能性もある。毒の影響が無いとも言いきれん。……東の御方や小次郎君のことも大きかろうがな」
政宗が毒を盛られたことは、公にはされていない。
そんなことが諸外国に漏れれば、敵にとって絶好の機会を与えることになる。
一部の信用のおける重臣らの中でだけ知られている、公然の秘密だ。
それ以外には、義姫が言っていた通り、過労で倒れてそのまま寝込んでいることになっていた。
――そしてそのことを忘れてしまっている本人にも、秘されている。
「……無理に、思いださせない方が良いってことですよね」
の言葉に、翁は無言で道具を片し始めた。
「……だとしたら、どうじゃと言うんじゃ」
「……私の顔を見るだけでも、マズイでしょうか」
はっと顔を上げたいつきとまつに、安心させるようにふわりと微笑む。
また伊達を去るつもりかと、二人の目が心配してくれている。
「さぁな。……わしには分からんわい。殿にとって、お前が居た方が良いのか、悪いのか……それを知るのは、忘れておられる殿自身のみに決まっておるわ、馬鹿者め」
「………そう……ですよね……」
分からない。
誰にも、何も。
どちらがより政宗を苦しめることになるだろうか。
(それでも……それでも私は……)
「お前の体調が良いようなら、片倉殿らに伝えることになっとる。――どうするつもりじゃ、小娘」
それは、これからのことを小十郎たちと話し合うということだ。
政宗がのことを忘れている以上、頼みの綱は本当に彼ら三傑を中心とした信用のおける人たちだけである。
「さて、どうしましょうか……」
視線を馳せた庭の木々は、堂々と枝葉を広げている。
は目を閉じて穏やかに自問した。
政宗が目覚めて五日が経った。
彼の中でどのように記憶障害が起きているのか、一番把握しているのはその右目たる小十郎だろう。
その小十郎曰く、本当にに関係する事柄だけが悉く忘れられている――。
北条との戦で出会ったことも、米沢で共に過ごした日々も、甲斐に出兵した理由ですら……巧妙に、曖昧な記憶に塗り替えられている。
それでも所々不自然な部分があるので、一部の記憶を失っていることは本人も知っているらしいが、それが何かまでは教えていない。
そのように、が頼んだのだ。
政宗にとってのが『何』であるのか、それを誰も知らないのに説明のしようも無い。
それに、のことを思い出せば必然的に義姫や小次郎のこと、その他の辛いことも思い出してしまうだろう。
「政宗さんの体調はどうですか?」
「ああ、毒の後遺症も無く、順調に回復されている」
「睡眠は? ご飯は食べてるんですか?」
「食事も以前と同じようにしっかり取られるし、寝不足が嘘だったかのように良く眠れるようだな……」
「そうですか……」
これからのことを相談するべく会った小十郎に、は様々なことを尋ねた。
その全てが政宗に関することで、小十郎も一々丁寧に答えてくれた。
ゆっくり眠れるようになったというだけでも、政宗にとっては良いことに違いない。
「成実殿、綱元殿とも話し合ったんだが、から直接今までのことをお話すれば……そうすれば、政宗様の記憶もすぐに……」
「――思い出して貰わなくて、いいんです」
「そう、だからその為にも………。…………オイ、。お前今何て……」
「思い出して貰わなくていいです。私の事を忘れたままで」
驚きに固まった小十郎には苦笑した。
「だって小十郎さん。私のことだけ忘れたってことは、政宗さんが忘れたかったってことで……」
「この馬鹿がっ! そんな筈は無ぇ! そんな筈が……」
強面を更に険しくして声を上げたその剣幕に、は反射的に後ずさって笑った。
「意地悪な言い方でしたね、すみません。でも、私を忘れていることで、政宗さんのココが守られているのは……事実です」
自分の胸を押さえて静かに言えば、小十郎も俯いて座りなおした。
「政宗さんの心を守れるなら……それくらい」
「、お前……」
哀れみを強くして悲痛に歪んだ小十郎の表情に、は慌てて手を振った。
「いえ、えっと、何て言うか………自分でも意外なんですけど、そんなに堪えて無いって言うか」
まだ大分痛みの残る背中の傷に意識を向けて続ける。
「正直、政宗さんが私を見知らぬ他人として見た時……流石にショックでした。
だけど、この傷……政宗さんの刃に斬られてしまった……いえ、斬らせてしまった時のあの人の表情の方がよっぽど辛くて……痛くて。取り返しの付かないくらい傷つけてしまったと、思ったんです」
彼を守りたいと思ってした行動だったのに。
間違っても小次郎を庇わなければ良かったなどと後悔はしないが、もっと早く会っていれば……駆けつけていたら……そうすれば、こんな傷で彼の負担になることも無かった。
眉を寄せて見つめてくる小十郎に、自嘲するように苦く笑って返す。
「その上、お母上や小次郎さんのこと……そんな大変なことが一度にあったら、いくら図太い政宗さんでも壊れちゃいますよ。だから、忘れていられるならきっとそれに越したことは無いんです。――例えそれが一時的でも、……一生でも」
そうは思いませんか? そう括ったの言葉が強がりであることは自覚していたので、笑みは弱弱しかっただろう。
小十郎は視線を落とししばし黙考した後、真正面からを見据えた。
「確かにそうかもしれねぇ……だが到底納得はできん。俺はずっと政宗様の傍で見てきた……お前を忘れることが政宗様の幸せな筈が無ぇんだ」
「……竜の右目にそう言って貰えるのは、誰の慰めよりも一番嬉しいですね」
本心から言って、は居住まいを正した。
背を伸ばして、その場に両手をつき、頭を下げる。
「小十郎さんにお願いがあります」
「―――聞けねぇな」
「え?」
頭を下げた途端立ち上がられて、は虚を突かれて見上げた。
「そんなお願いは聞けねぇと言ってる。俺達だけに政宗様のことを頼んで、またお前は逃げるつもりか! もう逃げたく無ぇっつったのはどこのどいつだ!」
アァン!? と、非常に高い所からメンチを切られ、は本能的に感じる恐怖から顔を引き攣らせた。
「いえ、そういうお話じゃなくてですね」
「じゃあどんな話だってんだ、言ってみろ!」
「ですから――――このまま、ただの侍女として、政宗さんの傍で働かせてください」
「……あ……?」
この時の小十郎の驚きようは、中々見物だった。
後で成実あたりに言ったらウケるだろう。
そんなことを思っていたのは、勿論本人には絶対秘密だが。
「元々、政宗さんの傍に居たくて、ここまで来たんです。本当なら政宗さんや小十郎さんの補佐とか雑用とか……そういうこと手伝えたらいいなと思ってたんですけど、政宗さんの記憶が無いならそれも無理ですし。お東様に聞いたんですけど、私って小十郎さんに縁のある娘ってことになってるんですよね?」
「まあ……そうだな」
「だったら、そのまま小十郎さんに推挙して貰って、政宗さん付きの侍女が良いかなって。いろいろあって西国で城主夫人付きの侍女をやりましたし、姫様修行もしたんで、前よりは立ち居振る舞いもマシになってる……筈です。まあ、そうは言っても随分好待遇だったから普通の侍女経験は無いんですけど、きっと何とかなりますよ! ――あ、でも侍女なら戦場には付いていけないですね……うーん、その時は小十郎さんの隊に男装してこっそり入れて貰うってことで……」
「お……おいおい、ちょっと待て、!」
「はい?」
頭で考えながらつらつらと言葉にしていたら、小十郎に止められて特大の溜息をつかれた。
「お前、それがどういうことか分かっているのか?」
「どういうことって……ああ、父上には侍女っていうのは勿論内緒です。適当に言っておきますから大丈……」
「違う。武田の問題もあるが、それ以前にお前が大丈夫かって聞いてるんだ」
きょとんと瞬きして、は自分を指さして首を傾げた。
小十郎は更にため息を重ねる。
「自分のことを忘れてる人間の……しかも惚れた男の傍に居て、辛く無い筈がねぇだろ」
小十郎らしい直接的な言葉には赤面したが、反論はせず、息をついて庭に視線を向けた。
「小十郎さんは優しいんですね」
僅かに動揺した気配を感じ、微笑してそのまま続ける。
「あの後、私もいろいろ考えたんです。それで自分自身に問いました。確かにこのまま政宗さんの傍に居ると辛く思う時も多いだろうし、いっぱい泣くかもしれない。だからって、このまままた離れることが出来るのか……」
自分の心に問いかけるそれ。
吹き過ぎる風のように、自然なこと。
「すぐに答えは出ました。――絶対、無理だって」
「………ふっ、絶対、か」
微かに笑った小十郎に向き直って頷く。
「はい。だって、それで引き下がれるようなら、最初からのこのこ実家の敵国に来たりしません」
「確かに……な。――だが、さっきお前も言ったように、政宗様の記憶は一生戻らねぇことだって有り得る。それでも……本当に良いのか?」
それはも何度も考えたことだった。
今のの想いの全て……それらを成す政宗との思い出が、彼の中で永遠に消える――
「良いかと聞かれれば……やっぱり物凄く、寂しいと思います。出来れば政宗さんの心が癒えた頃にでも思い出して欲しい。……私だって、いつまでも甲斐を放ってここに居られるとは限りませんし。……でも、例えずっと忘れたままでも……」
政宗に見て欲しい。
また前みたいに笑ってほしい。
名前を呼んで欲しい。
女としての欲は腐るほどある。
けれど、一番重要なことは別だった。
「しょうがないです。だって、先のことは誰にも分かりませんし。私が、政宗さんの傍に居たいんです――守りたい――助けたい。今まで貰うばかりだったから余計そう思うのかもしれませんけど、それよりもっとずっとたくさんのことを……政宗さんの為にやりたいんです」
侍女として出来ることは、たかが知れているけれど。
言えば、小十郎もようやく折れた。
深々と……けれど今度は承諾の溜息をついて、しみじみと言った。
「手のかかる弟の他に、妹まで増えた気分だ」
は目を瞬いて、そして笑った。
小十郎は兄と言うよりも伊達軍ではもっぱら母親役で、その『お母さん』ぶりは、武田の佐助ポジションとよくよく似ていると思っている。
けれど、米沢の頃によく政宗と城を抜け出して二人揃って叱られている時などは、本当の兄のように感じていたものだ。
子どもの頃からずっと一緒に居る政宗は尚更そう思っていただろう。
「――よろしくお願いします、小十郎兄様」
大切な思い出に何とか笑みを浮かべて悪戯半分にそう言った。
「………ふっ、伝令隊に入る時もこうだったな。――頼まれてやる、可愛い妹分の頼みだからな」
懐かしいことを持ち出したのは、小十郎なりの気遣いなのかもしれない。
以前の伝令隊の時とはまた違った苦労が待っているだろうを、後押ししてくれるかのように。
は精一杯の笑顔を作って、深く頭を下げたのだった。
そして、今日――
深くはなかった背中の傷も大分回復し、日常生活程度には問題の無くなったは、小十郎について本丸奥への廊下を歩いていた。
「――小十郎です。よろしいでしょうか?」
やがて辿り着いた一際立派な部屋の前で、膝をついた小十郎がそう声をかける。
「Ya、入れ」
その声一つで跳ねた鼓動を抱えて、は障子の陰になる位置に座った。
「本日から、政宗様のお世話周りに加わる侍女を連れて参りました」
「Ah? 世話周りだ? 俺は聞いちゃいねぇぜ。喜多はどうした?」
「――は。小田原に移って以来、姉も手が回らなくなっていた様子でしたので、僭越ながらこの小十郎の独断にて」
「It's rare! お前の眼鏡に適った推挙なんざ、珍しいこともあるもんだ。いいぜ、紹介しろよ」
「は、――」
短く返事をして腰を上げ、障子を開けて中に入り、密かに深呼吸を一つ。
そして、奥に座していた人物――政宗の正面に深く頭を下げた。
「――――と申します」
ゆっくり顔を上げると、僅かに目を瞠った政宗と視線が合った。
「……アンタ、こないだの………」
それが数日前の政宗が目覚めた時を指していることは明らかだった。
少しでも期待していた自分を頭を振って追い払い、何とか『こないだ』の言い訳を考えようと頭を捻る。
しかしそれよりも早く小十郎が答えた。
「は、実は数日前から城に上げていたのですが、ご挨拶させようと思っていた矢先に政宗様が倒れられ……」
「Ah-han……I see. それであの時も小十郎と一緒に看病してくれてたって訳か。Ahー……、あん時は驚かせて悪かったな」
「い……いえ」
手を握っていたことだろう。
まさか、元はと言えば自分が握っていたのだとは言えず、は短く返事をした。
それが恐縮しているように聞こえたのか、政宗は、もっと楽にしろよと飄々と言う。
本当に久しぶりの彼らしい言葉に胸が詰まったは、とっさに言葉が出ず、目線だけでちらりと小十郎を見た。
小十郎は心得たとばかりに先程のように上手くフォローしてくれる。
「は私が拝領している白石の地頭の一人娘にて、数年前から妹のようにも思って参りました。頭の回転も早く、気転も利くので、必ずや政宗様のお役に立ちましょう」
「へぇ? That's great! お前がそこまで誉めるたぁ、ますますおもしろい」
どうやら、そういう設定らしい。
地頭の娘云々は事前に小十郎と打ち合わせ済みだが、それにしても持ち上げすぎである。
政宗は、強い者、賢い者、能力のある者に興味を持つ傾向がある。
その意味ではこの必死の売込みを感謝しなければならないのかもしれないが、今の説明でハードルが上がりまくったことは明白だった。
「期待してるぜ、。よろしくな」
「……未熟者故至らぬ点も多々ございましょうが、身命を賭してお仕え申し上げます――」
(私の我侭で迷惑を掛けることもあるかもしれないけど、この身に代えても政宗さんを守るから……だから傍にいさせてください)
決まり文句の裏に、心中で本音を呟いて。
は改めて刻んだ覚悟と共に、その場に深く頭を下げた。
080223
CLAP